オフの日の朝、いきなりテツから電話がかかって来たかと思えば、の体調不良の連絡だった。

「はァ?熱だぁ?」
「はい、さっきさんから保育園に電話がありました。もし時間があったら見に行ってあげて下さい」
「風邪引くような季節でもねーだろ」

 クーラーの温度でも下げ過ぎたんじゃねーの、と言うと、「青峰くん、もしかして知らないんですか?」と声を低くする。知らないも何も、何の話だ。ここ一週間ほどは確かにお互い忙しくて会えていなかったが、メールや電話では変わった様子はなかった。体調が悪いなんて話も聞いていない。
 暫く黙って、テツは「実は」と切り出した。



***



 ここ暫くの無理が祟って体調を崩した。朝起きて身体がだるいと思えば、なんと体温38度半ば。健康優良児だった私がこんな高熱を出したのは、インフルエンザにかかった中学生の頃以来ではないだろうか。仕事も短大も休んだことがなかったと言うのに、これは結構ショックだ。しかもこれが何かのウイルスをもらったとかいう話ではなく、ただのストレスだ。どう職場に説明すればいいのやら迷ったが、38度台を申告した所で休むよう言い付けられた。
 情けない。ちょっと精神的に参っていた所に寝不足が祟った。仕事は問題ない、大変だが人間関係等など悩んでいることはない。所謂マリッジブルーでもない。けれど大輝くんに関係ないかと言われれば、関係ないとは言い切れない。

(まさか言えないよなあ…)

 結婚については、お互いの親は快諾してくれた。友人や同僚も祝福してくれている。当然、浮気もない。
 大輝くんが公に私との結婚を発表してから、近しい人間以外からの声に悩まされているのだ。どこから嗅ぎ付けるのか、マスコミがいきなり現れたり、一部の熱心なファンの辛辣な意見を目にしたりと、もしかすると些細なことなのかも知れないが、一般人の私には結構堪えることだった。
 薬を飲んでもう一度ベッドに潜ろうとしたその時、ベッドの上に放り出していた携帯が鳴る。着信は大輝くんからだ。慌てて出ると、「どうしたの」という私の声に被せて大輝くんが「、てめぇアホか」と機嫌悪そうに言った。

「は、はぁ?」
「何が要るんだ、買って行ってやる」
「え…っと…」
「休みなんだよ、気が変わらない内にさっさと言え」

 おい、なんとか言え。そう電話の向こうで言われているのに、声が出て来ない。二、三、言葉を言われただけなのに、大輝くんの声を聞いたら酷く安心してしまった。体調不良で弱っている私は、滅多に大輝くんの前じゃ泣かないのに、ぼろぼろと大粒の涙が溢れて来る。嗚咽を漏らさないように唇を噛むけれど、思わずしゃくり上げてしまい、鼻をすすると今度は大輝くんは慌て出した。

「だーもー!適当になんか買ってすぐ行く!それで良いな!」
「う゛、うぅー…っ」
「行くまでに泣きやんどけよ」

 最後にそう優しく言うと、ぶつりと一方的に電話は切れる。最初から最後まで言い方はきつかったのに、電話をくれたことが何より嬉しかった。こんな時に一人で部屋にいるのは不安で仕方なくて、けれどせっかく休みの大輝くんを呼びつけるのも気が引けて、後で報告すればいいや、くらいに思っていた。けれどどうしたことか、こんなに安心するならもっと早くに電話すれば良かったと後悔している。お陰で、きっと大輝くんに要らない心配をかけてしまった。結婚しよう、て決めた仲なのに、甘えれば良いラインを図り損ねてしまったのだ。
 三十分もすると、大輝くんは私の部屋に到着した。ガチャガチャと乱暴にドアを開けると、大きな足音をさせて部屋に入って来る。下の階の人に迷惑だよ、といつもなら窘めるのだが、今はそこまで気が回らない。スーパーの袋を携えて焦った様子で現れた大輝くんを見ると、また私は涙腺が緩んでしまった。ふらつく足でベッドから降りると、「バカか!」と叫んで私を抱き留めてくれた。頭が随分とくらくらする。

「悩んでんなら言え、のアホ」
「ひ、っく、だいきく…っ」
「こんなになるまで放っとくな。何のために俺がいんだよ、何のために結婚すんだよ」
「ごめ、なさ…、」
「周りの奴らが何を言おうが関係ねえ。もうお前の両親にも許しはもらってんだ、結婚を取り止める気はねぇぞ、俺は」
「けっこ、やめるなんて、言ってな、ひ…!」

 私をベッドに無理矢理座らせると、今度はがしっと顔を掴む。私の涙で手が濡れてしまうことも構わず、思いっ切り掴んだ。顔の骨が一瞬軋むかと思うほどに強い力で。けれど、大輝くんの眼の方がもっと強かった。苛立ちすら窺えるその眼に、私は思わず身を捩る。するとそれが気に食わなかったのか、高熱で朦朧として来た私を、あろうことか押し倒して更には覆い被さって来た。
 これはいよいよまずい、頭もぼうっとするし、熱いし、気分も悪いし、けれど抵抗する力が出て来ない。

「お前にとって俺はなんなんだよ」
「なに、て…」
は困った時に頼れない相手と結婚するって言うのかよ」
「へ…」
「俺はを守ることすらできねえのか?」
「ち、ちが、これは…!」

 ぎりぎりと手首を絞め付ける力が強くなる。全身脱力感の強い私はなすがままで、いつもなら蹴りの一つや二つ入れてやる所が、何もできずにいる。指先を動かすことすら億劫で、大輝くんに伝えたいこともあるはずなのに頭が上手く回転しない。お陰で、苛立ちの募った大輝くんは畳み掛けるように色んなことを言って来る。本当はその一つ一つにちゃんと答えたい。大輝くんは私の誰より大事な人で、頼れなかったのは私が自分の力を過信したからで、大輝くんなら何があっても私を守ってくれると信じている。それと同時に、大輝くんを支えるのもまた私でありたいと思っている。何度も何度も、それはもう付き合い始めた頃からずっと変わらない思いだ。
 何から答えれば良いかの判断すらもできない私は、ただ荒い呼吸を繰り返して大輝くんを見つめるばかり。そして、薬が効いて来たのか眠気も襲って来る。伝えないと行けないのに、眠ってはいけないのに、瞼がとてつもなく重い。そして私は、大輝くんが私の名前を呼ぶ声を聞きながら眠りに落ちた。







  

(2013/08/27)