あの夜も雨が降っていたと、は思い出す。あの夜―――がルシウスと契約をした夜だ。 少し遅くまで教授に授業の分からない所を教えてもらったり、代わりに手伝いをしたりと、寮に戻るのが遅くなってしまった。教科書を数冊抱えて寮へ帰れば、廊下より幾分温かい談話室。それもそのはず、暖炉にはまだ火がついており、ただ一人が起きていた。暖炉の前に椅子を置き、ぼんやりと火を眺めている。ゆらゆらと揺れる暖炉の火に同じく、顔に掛かる影もまた揺れる。 こんばんは、と彼に声をかけることすら躊躇われたのは、その横顔がとても綺麗だったから。まるで時が止まったみたいに見つめ続けていると、やがて彼はゆっくりとの方を向いた。その瞬間、一度だけ心臓が跳ねる。名前も姿も知っているけれど、話したことも目が合ったことすらない人。同じ寮だと言うのに接点など微塵にもない人。 「随分遅い帰りのようだね、どこで遊んでいた?」 「え…と、あの……」 「君を責めている訳ではない…・」 「………!」 気だるげな笑みを浮かべ、首をかしげて見せる。彼の口から出た自分の名前に動揺を隠せず、思わず一歩後ずさる。するとおかしそうに喉を鳴らし、ソファから腰を上げるとに近付いて来た。目を逸らすタイミングも逃し、見つめられたままの。少しの恐怖と好奇心が、をその場に留まらせた。無理矢理断ち切って女子寮へ駆けて行くこともせず、じわじわと追い詰めるかのように距離を詰める彼の口からどんな言葉が出るのか、教科書をぐっと抱き締めて待った。 その先にあるのは地獄か、それとも。 「口止め料に、付き合ってもらおうか?」 *** 思えばあの夜から始まっていたのかも知れない。文字通りあの視線に射止められたまま、知らない内に恋をしていた。それがどういうものかも知らないまま、そして頭だけがついて行かないまま始まった関係は、順番も何もかもがめちゃくちゃだ。それでも辿りついた今は、間違いなく恋の末の関係。が思う以上に、彼はを思ってくれていた。距離を置きたいだなんて言い出しても、が泣けば、こうして現れて優しく涙を拭ってくれる。 「地味子だなんて笑わせる。蔑む暇があるなら女性を美しくする努力でもしたらどうだ?尤も―――」 今、離れたくないと思った。周りの目を気にして密かに続いて来た関係。けれど、もう誰がいようと関係ない。傍にいて欲しい、そう思う。そんなの気持ちを汲んだかのように、ルシウスはの肩を抱いたままだ。そして流れるような所作での手を取ると、手背へ口付ける。 「を美しくできるのもまた、私だけだが…」 悲鳴やら冷やかしの声やらが混じって廊下に響き渡る。事の発端である男子生徒たちは青褪めたまま固まっていた。しかしそれももう興味がないのか、ルシウスはそのままを立たせると、手を引いて教室とは反対方向へ歩き出した。 まだ唇に熱が残っているかのようだ。早足の彼に必死でついて行きながら、空いている方の手でそっと自らの唇に触れる。これまでもキスなら何度もした。キスだけではなく、それ以上のことも。けれど、こうして手を引かれているだけなのに、彼が好きなのだと自覚した今では感じ方がまるで違う。指先が触れるだけで、こんなにも安心するものだっただろうか。彼が自分と共にいることはこんなにも心強いものだっただろうか。 「せ、せんぱい…っ!」 流石に足がもつれそうになり声を上げると、思い出したかのようにを振り向いて立ち止まるルシウス。肩で息をしていると、「すまない」と言っての紅潮した頬に触れた。更に頬は熱を帯び、つい目を逸らしてしまう。すると頭の上からくすりと小さな笑いが漏れる。ますます視線を戻せなくなってしまったが、それも構わずルシウスはを抱き寄せた。 窒息しそうな苦しさも、身動きの取れないような痺れも、先の見えない不安も恐怖も、全てこの人に恋をしているからなのだと思うと、悲しくもないのに泣きそうになる。どうしてこんなに苦しいのかも、胸が痛むのかも、どうすれば良いかも分からなかった。それなら言えば良かったのだ。気付けばルシウスのことを考えてしまっていることも、後ろから「」と呼ばれることを心のどこかで期待してしまっていることも、ルシウスに言えば良かった。そうすれば答えなんてもっと早く、簡単に見えたかも知れないのに。 恋に落ちるのに理由はないだとか、恋は盲目だとか、そういう言葉はよく本で読んだ。どこか遠い世界のことのように感じていたその言葉を、今ようやく痛感する。理由などなかった。あの夜、声を掛けられて、見つめられて、その瞬間から始まっていたのだ。 「距離を置くなど、できるものか」 「え…?」 「これだけ惚れ込んだ相手を放っておくことなどできるはずがないだろう」 「先輩、」 「ルシウスだ」 指先での唇に触れる。名前を促すようになぞりながら、いつものように口の端を持ち上げて笑うルシウス。呼吸すら躊躇う至近距離に、心臓が痛いほど強く拍動する。空気を震わせるみたいに、そっとその名を声に乗せる。 「ルシウス、先輩…」 「もう一度」 「な…なぜです」 「君の声で呼んで欲しいからだ。それ以外に何がある、?」 思う相手の声で名を呼ばれる嬉しさを、も知ってしまった。そうだろう、とでも言いたげに顔を覗き込んで来るルシウスに反論などできるはずもなく、せめて俯いてもう一度小さく「ルシウス先輩」と言えば、更に「もう一度」と催促される。逆らえずに何度も何度も繰り返す。彼に言われると、何か魔法にかけられたかのように逆らえなくなってしまう。もしくは、まるで何かの毒に侵されたかのように。 に言わせれば、恋は毒と同じだった。どれだけ意地悪く笑って何かを言われようと、心も身体も従ってしまう。惚れた弱みなんてものではない、思い思われながらも果てなく落ちて行くような感覚は、恐怖を煽っているにも拘らず手離せない。酷い噂を流されようと、何をされようと、それでもなお、この人の傍にいたいと思う。 「ルシウス先輩」 「なんだい、」 「好きでいて、良いんですか」 決して口にすることはないだろうと思っていた言葉。彼を思うことも、彼に選ばれることもないと思っていたから、きっと言うことはないのだろうと思っていた言葉。どうしても確かめたい気持ちに駆られ口にすれば、返事の代わりにキスをされる。ゆっくりと唇が離れれば、愛おしいとでもいうように優しく頬を包む手のひら。まだ慣れることがなく、これからも慣れることのないこの距離に、毒された心臓は締めつけられたみたいに痛む。けれどそれすら嬉しく感じてしまうなら、もう手の施しようのないほど致死量の毒を取り込んでいるに違いない。 「君以外からの好意など受け取る気はない」 もう少し早く寮に戻っていたら、挨拶だけしてすぐに部屋に入っていたら始まることはなかった。何度も後悔したあの夜を後悔することは、もうない。 |