答えに困ったのはその人に惹かれたからではない。ルシウスのことで頭がいっぱいだったから、突然のことで咄嗟の対応ができなかっただけだ。どうして上手く行かないのだろう。一つ間違えると、二つ、三つと足がもつれて転んでしまう。自分が今、誰よりも思っているのはルシウスのはずなのに、ただ好きなのだと伝えたいだけなのに、その通りになってくれない。ずっと戸惑い続けた罰なのだろうか。与えられるだけ与えられて、返すことのできない自分への報いなら仕方ない。

 仕方ないと思うのに、それでも心はルシウスを呼ぶ。名前を呼ばれたい、触れられたい、愛されたいと、気持ちは募るばかりだ。そしてようやく気付くのだ、これは恋なのだと。ふわふわとした明るい気持ちだけが恋なのではなく、胸を引っ掻くような痛みも、息の止まりそうな苦しさも、全てはそう、恋によるものだった。今更気付く自分の愚かさに唇を噛んでも、「そんなに噛んだら血が出てしまう」と優しく唇を撫でてくれる彼はここにはいないのだ。

「マルフォイ先輩をもっと頼ればよかったのよ」
「…うん」

 先輩もきっと心配しているわ。そんな彼女の言葉にぎしりと心が軋む。分かってる、好きなのに、ようやく気付けたのに―――頭の中でそう何度も反芻した。









 朝、ルシウスがいなければ一人で髪すら上手くまとめられない。そう思いながら溜め息をつき、はまた長い髪を揺らしていた。いつの間にか、歩く度に頬や首を風が撫でることが当たり前のようになっていたことに気付く。すると途端、この長い髪が鬱陶しいような気がして来てしまった。以前はこっちこそが普通だったと言うのに。

 ルシウスは自分の髪の先まで大切にしてくれていたのだと言うことにも、今やっと気付いたのだ。ただ伸ばすだけだった髪を丁寧に手入れしてくれたのはルシウスだ。だからこんなにも指通りの良い髪になった。心にも身体にも刻み込まれた彼の影に嫌でも気がつき泣きたくなる。…どうしても憂鬱な気分から抜け出せず、彼と顔を合わせるのも気まずく、は結局、朝食をとりに大広間へ行くのをやめた。今日ばかりはもそれを止めず、部屋を出る瞬間まで心配そうな顔での方を見ていたのだ。

 食事は抜けても、授業は抜ける訳には行かない。が出て退室してからまたベッドに倒れ込んでいたのだが、授業の用意をするため起き上がる。早めに教室移動をしておけば、ルシウスと鉢合わせする可能性は低い。まだ覚醒しきっていないぼうっとする頭で教科書を引っ張り出す。そして、まるでずるずると引き摺っているのではないかと思うほ重い身体で寮を出る。誰もいない廊下の静けさは、無心になるには丁度良かった。考えすぎて軽く頭痛さえ覚え始めていたのだ。少し、何も考えずいることも必要なのかも知れない。けれど、それを邪魔するかのようにルシウスの声が頭の中に響く。

 ―――それ以上に問題なのはの気持ちだ。君は何を不安に思っている?

 ―――君は存外、勝手な子だね

 ―――その結果がどうであれ、私は欲しいものは手に入れる主義だ

 何も聞かずに野放しにしてくれていることくらい分かっている。彼の寛容さに自分は甘えていることもだ。優柔不断な自分を責めることもせず、が自分で選ぶまで待ってくれている。ほんの少しの強引さを残しながら、上手くを握っておきながら、未だ気持ちを定めかねているを見て見ぬふりしてくれている。距離を置いたその先、急に線が途切れることなどないのだと言ってくれている。

 それでも、人の心なんて分からない―――どうしても信じ切れない疑心暗鬼な心は、自分自身に自信がないがゆえ。…果てのない思案を繰り返している内に、目的の教室に着いてしまった。ドアノブに手を掛けようとすると、中から人の声が聞こえる―――数人の男子生徒のようだ。何やら楽しそうに話しているため、入るのを躊躇ってしまう。まさか自分よりも早くに来ている生徒がいるなど考えていなかったため、ドアノブに伸ばし掛けた手が不自然な形で止まる。

「―――だからさ、あいつ絶対それだけじゃなく馬鹿だって」
「何があったんだよ」
「それが聞いてくれよ」

 陰口か、と小さく溜め息をつく。対象が誰であろうとこの手の話は嫌いだ。聞いていて気分も悪いし、何が楽しいのか分からない。だが今更、寮にるだけの時間はない。他の生徒も集まって来る時間になるまで、できるだけ話を耳に入れないように外で待っていよう―――教科書を抱えてはしゃがみ込む。けれど嫌でも聞こえて来る大声での悪口は、の気分を不快にさせるだけ。もやもやとしながら膝に顔を埋めやり過ごそうとする。しかし、突如よく知る名前が会話の中に挙がった。

「マルフォイ先輩と別れたって聞くし付き合ってみろよ」
「馬鹿言え、あのだぜ!?」

 一度、大きく心臓が跳ねる。間違えるはずもない、自分の名前だったのだ。まさか自分のことだとは思っていなかったは、途端彼らの会話に神経が集中する。聞いたって碌なことがないのに、聞きたくなどないのに、聞こえて来てしまう。どう噂されているかなんて、昔から変わらないのだ。噂も陰口も聞いたって傷付くだけ。根も葉もない噂や評判で最初からの周りには人は寄って来なかったが、ホグワーツで過ごす時間が増えれば増えるほど噂は周り、より孤立して行く。それでも離れないでいてくれたのはだけ。そして、ルシウスもだ。

「大人しそうな顔して意外と遊び上手なんじゃねえの?」
「地味な顔の間違いだろ」

 逃げなければ。今すぐここから走り去らなければ。これ以上聞いたって良いことなど何もない。それなのに、辛うじて立ち上がれたものの、それ以上足が動かない。固まったかのように身体が言うことをきかないのだ。

 それと共に確信する。やはり自分はルシウスの傍にいるべきではないと、相応しくはないのだと。良い評判を聞かない自分を相手にしては、ルシウスの評判まで落としてしまう。そんなことは自身が許せない。自分が気持ちを傾ける相手だからこそ、自分と同じように悪く言われたくない。そのためには自分はいてはいけないのだ。陰口なんてもう慣れている。それなのに涙が出て来てしまうのは、ルシウスの恋人として隣に立ってはいけないという烙印を押されたから。好きなのに、なぜ―――昨日から幾度となく自問した言葉をもう一度繰り返す。

「まあ、マルフォイ先輩の相手ができたんだからあの地味子も喘ぎ方くらい知ってるんだろうよ」

 そんなを責めるように発せられた言葉に、はとうとう呼吸すら忘れて立ち尽くした。自分がいなければ、ルシウスはこんなことを言われることにはならなかったのに。自分さえいなければ、ルシウスは憧れと羨望を一身に受ける存在だったのだ。自分がそれを欠けさせてしまった。悲しいやら苦しいやら、色々な感情がかき混ざる。おかしな呼吸を繰り返し、ドアから離れるように後ろへ倒れかけたその時、誰かの腕がを抱きとめる。そして言葉もなく杖一振りで乱暴にドアを開けてみせた。さらりと頬に掛かった長く美しいシルバーブロンドの髪―――後ろからを抱き締めているのはルシウス以外の誰でもない。

 そして中に居たのは、昨日に好きだと告げた男子生徒と、その友人と思われる男子生徒数人だった。突然開いたドアと、その向こうに居た人物に驚いたのだろう、彼らもとルシウスを見て固まっている。それでも何も言わないまま強引にの身体を反転させると、何を思ったか唇を重ねて来た―――いや、押し付けたと言った方が正しい。逃げようともがくも、彼は片方の腕を腰に回し、もう片方の手での髪をかき乱す。そこから逃げられるはずもなく、無理矢理な口接けを受け入れていると、次第にのぼせたみたいに頭がぼんやりして来た。

 すぐ後ろに彼らがいることも、廊下には朝食を終え教室移動している生徒たちがいることも忘れてしまう。そんなことなど気にすることもできないほど、一瞬で頭の中はルシウスのことでいっぱいになってしまったのだ。ねじ込まれた舌を拒むこともできず、寧ろ応えるように絡める。けれどいっぱいいっぱいのはすぐに酸素が足りなくなり、苦しくなってがくりと膝折れした。力なく床に膝をついたに、ルシウスもしゃがんで目線を合わせる。すると最後にもう一度、濡れたの唇を舐め、上気したの頬に手を添えると不敵に笑った。


「は…い……」
「君が笑顔になるのであれば一向に構わない。だが…」

 言葉を止め、すい、と視線を教室の中へ向ける。見えなくても感じる鋭い視線に、空気が凍るほど冷たい声でルシウスは告げた。

「泣かせていいのは私だけだと言うことをよく覚えておくと良い」





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(2012/2/26)