何か厄介な魔法でもかけられているのではないかと思うほど、見事に頬の腫れは引かなかった。こんなことなら大人しく医務室に行っておくべきだったと、後悔してももう遅い。更に悪いことに両目も腫れており、誰がどう見ても泣いた跡だということは明白だった。身体も気も重い。こんな酷い顔でルシウスに会えば、聞かれることも容易に想像がつく。けれどそれ以前に、ルシウスと顔を合わせ辛い。ルシウスのことを考えると益々気が重くなる。

 と部屋を出て、談話室に降りるだけで「何であの子なの」という女の子たちの視線が突き刺さった。昨日までもそれは同じだったはずなのに、昨日よりも痛く感じるのはなぜだろう。そこにある彼女らの真意まで敏感に感じ取ってしまうからだろうか。…の中で、もうルシウスとは会えないと思う気持ちと、それでも傍にいたいと思う気持ちが混在する。どちらを優先すべきなのだろうか。

…その顔は一体…」

 朝から冷たい視線に晒されている中、奥から出て来たルシウスは大きく目を見開いてを見る。囲まれた生徒からの視線よりもルシウスの視線の方が何倍も耐えられず、俯けば長い髪がの表情を隠した。他の生徒を押しのけて早足でルシウスが近付いて来ると、数歩後ろへ足を引くが逃げられるはずもない。彼はの腕を掴むと、彼女の顔を覗き込んだ。

「何があった」
「何でもないんです」
「嘘を付くな、何もない訳がないだろう」
「何でも…何でも、ない…っ」
「マルフォイ先輩、ここではちょっと」

 今にも泣き出しそうなに、気を利かせたが「医務室へ行きましょう」ととルシウスを促す。周囲が益々に厳しい目を向けるのを感じたルシウスは、に同意し談話室を足早に出た。生徒たちの好奇の目から避けるためにも、の頬と目を冷やすためにも、医務室へ行くしかない。

 二人に支えられて歩く自分はなんて非力なのだろうか。昨夜、あれだけの前で泣いておいてまだ涙が出て来るなんて、この身体は水分過多なのではないか。…そんな馬鹿なことでも考えていないと、は今にも崩れてしまいそうだった。周りの感情にも、自分の感情にも意図的に鈍感になっていたからこそ、今になってようやく気付いた自分の気持ちの複雑さや、浴びせられた言葉と感情の数々に押し潰されそうになる。けれど、そんな波の中でもがいてもがいて、ルシウスの手を掴んで良いのかどうか、はまだ迷っていた。









 医務室に行ってみると、マダム・ポンフリーはこれから外へ出る所だった。の顔を見て険しい顔をしたが、どうしても外せない用事だったらしく、ルシウスとに後のことを任せて急いで出て行った。彼女は随分心配した様子で去ったが、三人にとってはむしろ好都合だ。これでルシウスは追い出される心配もなく、誰にも邪魔をされず話をすることができる。そして、医務室で改めての顔を見たルシウスは、マダム・ポンフリーと同じく顔を険しくさせた。けれどすぐに小さくため息をつき、その長く綺麗な指での左頬に触れる。ひやりとしたその手が、腫れた頬には心地好い。

、少し彼女と話がしたい。二人にして欲しいのだが」
「分かりました、をお願いします。朝食、後で適当に持って来ますね」
「頼んだよ」

 そう言っては静かに医務室を出て行く。ドアの閉まる音がすると医務室には静寂が訪れる。暫く頬を撫でていたルシウスだったが、思い出したように氷嚢を呼び寄せると、ハンカチに包んでそっとの腫れた頬に宛がった。熱を持ったそこに、冷たい氷が気持ち良い。ずっと速くなっていた心拍もようやく落ち着き、は小さく息をついた。そんな彼女を見て、ルシウスもまた僅かに安堵したらしく、表情を和らげる。そして彼女の肩に手を添えると、椅子まで誘導する。そこへ座るよう指示すると、自身も椅子をもう一脚引き寄せ、と向かい合わせに座る。

 彼の目を真っ直ぐに見ると、もう逃げられない気がした。嘘を付くことも、誤魔化すこともできない気がした。けれど昨日の女子生徒のことを思い出すと、これ以上は駄目だと思う気持ちが再び浮き上がって来る。沈黙を貫き通すにはどうすればいいか、そればかりを考えている自分がいるのだ。…沈黙が気まずくなり、ゆっくり目を逸らす。するとルシウスは優しい声音で囁いた。

「誰にやられたか、大体見当はついている」
「え…」
「どんどん綺麗になる君が妬ましかったのだろう」
「綺麗、とかじゃ……それは違うと思います…」
「いや、事実の噂をしている男子生徒がいる。君が知らないだけでね」

 くい、との顎を持ち上げると、氷嚢のお陰で随分と冷たくなった頬に彼は唇を落とす。冷たい頬に熱い唇、そして熱い吐息がかかる。その温度差にびくりと身体を震わせ、彼の手から逃れようとした。けれどそれよりも早く、彼の腕の中に捕まる。同時に、大きな音を立てて彼の座っていた椅子が倒れた。広い医務室に大きく響くその音は、本当にここには自分たち以外しかいないのだと再認識させているようだ。

「この頬のことも問題だが、それ以上に問題なのはの気持ちだ。君は何を不安に思っている?いや、これからどうしたい?」

 こんなにも急いた彼を見るのは初めてだった。ルシウスは言葉が少ない訳ではないが、捲し立てるように物を言う人物でもない。問われたは一瞬言葉を失くす。いつも余裕の笑みを浮かべ、の二歩も三歩も前を行く彼が焦るなど、想像したこともなかったのだ。が何か劣等感や焦燥感を抱くことはあれど、まさかルシウスが。およその物事を思うがままにして来た彼が、何を焦ることがあると言うのだろう。自分のことも手に入るべくして手に入ったと、そう思っていたのではないだろうか。

 いや、ルシウスに大切にされていない訳でも、思われていない訳でもない。誰よりも気持ちを注がれていることは肌で感じている。それなのに、彼が焦燥感を抱くはずがないと決めつけていた自分は、結局ルシウスの本質を全く見ることができていなかったのだ。誰よりも思われながら、誰よりも近くにいながら、誰よりも彼を分かっていなかった。自分ばかりが周りの目を気にして、一人で後ろめたさを感じていた。それなら尚更、と、はそっとルシウスの身体を押し返す。未だ椅子に座ったまま見上げれば、眉根を寄せて複雑そうな表情をしている彼がそこにいた。

「距離を置きましょう」
「…君は存外、勝手な子だね」
「少し、考える時間が欲しいんです」
「その結果がどうであれ、私は欲しいものは手に入れる主義だ」

 覚えておくと良い。そう言うと身を屈めてにキスをする。ほんの一瞬触れただけ。離れた瞬間、彼は自嘲的な笑みを浮かべ、それ以上は何も言わずに医務室を出て行ってしまった。…これで良かったのだ、と自分に何度も言い聞かせる。一度距離を置いたその先、待っているものは一つしかないことをは知っている。壊れてしまえば戻らないものを、は知っているのだ。




***




 ルシウスの去った医務室で一人泣いていると、入れ替わりにパンをいくつか抱えたがやって来た。が一人でいるのを見て事情を察した彼女は、溜め息をついて近付いて来ると、倒れたままになっているルシウスの座っていた椅子を直し、そこに座った。「はい」と言ってバターロールをに差し出し、彼女もクロワッサンを一口齧る。は受け取ったバターロールをぼうっと見つめた。

「…あなたたちって、賢い癖に馬鹿ね。スマートじゃないわ、とんでもなく不器用」

 の言葉に反論できなかった。そう、言葉で確かめられればもっと簡単なはずだった。余りにも多くの勘繰りをし過ぎて、収拾がつかなくなってしまったのだ。ルシウスに距離を置きたいと告げて初めて分かる、間違っていた、と。自分とルシウスが恋人同士となることではなく、最も大事な所を置き去りにしてしまっていたことに対してである。

 好きなのに上手く行かないのか、好きだから上手く行かないのか。好きだから――――答えはそれだけでいいはずなのに、身体に染みついた周りを気にする癖は直ってなどくれないのだ。距離を置きたいなんて、本当の願いではない。本当はずっと傍に居て欲しい。彼の手を取りたい。隣を歩きたい。単純で肝心言葉がどうしても口から出て来ない。気持ちとは全く反対のことを言ってしまう。ルシウスが自分を選んでくれた時、あんなにも嬉しかったのに、それすら伝えられていないままだ。こんなことばかりしていたら、いつか誰も自分の周りからいなくなってしまうのに。一人になんてなりたくない。

「答えは出ているんでしょう、
「まだ、間に合うかな」
「早い方が良いわよ」
「うん。…行って来るね」
「今度は二人揃って笑ってる姿を期待しているわ」

 姉のような口ぶりで言うと、に手を振り送り出す。乱暴に制服の袖口で目元を拭い、は医務室を出た。確か今日の一時間目はお互い空き時間だったはず。そんな日は決まって図書館でも談話室でもない場所で過ごした。二人きりになれる場所、誰にも邪魔されない場所――――自分たちしか知らないであろう空き教室だ。乱雑に配置されていたたくさんの机と椅子の中から二組を選んで使っていた。ルシウスはおよそいつも何か難しそうな本を読んでいて、時々に目線を遣っては課題に助言をくれる。

 とルシウスは、この学校でもよく見かける通りにぴったりとくっついて寄り添う訳ではない。机に向かっているを見守るかのように、少し離れて彼は座っていた。それでも、二人にとってはその距離感こそに心地好さを感じた。「ここは落ち着く」といつかルシウスが言っていたのは、きっとそのせいもあるのだろう。そうだと信じたい。だとすれば彼はあの教室に居る。あの教室でが来ることを待ってくれているはずだ。早く、一刻も早くルシウスに会いたい。

!」

 けれど、急ぐを一人の男子生徒が引き止める。今のならその声を振り切ることもできただろうが、腕を掴まれてしまえば止まる他ない。誰かと思い振り返れば、同じスリザリンの同級生だった。だが、碌に話したこともない相手だ。だから名前を呼ばれた時点ではその声に覚えがなかった。…やけに真剣な顔をしてを見る。急いでいるから、と言い出せるような雰囲気ではない。

「な、なに…」
、僕と付き合って欲しい」
「え、と……私……」

 自惚れている訳ではないが、今やルシウスとの関係をスリザリン、いや、ホグワーツで知らない生徒は殆どいない。それも一重にルシウスの知名度の高さからであるが、相手が“地味子”と蔑まれる自分であることは更に生徒たちを驚かせたのだ。それを知った上で、目の前の男子生徒は言っているのだろうか。どう返せばいいのか迷い、困惑する。とうとう黙ってしまうと、彼は困ったように笑った。「返事は急がないよ」とだけ言い残し、を置いて去って行く。

 どうしてこんなにも色々なことが一度に起こってしまうのか。思わぬ事態に出くわしてしまい、ルシウスに向いていた気持ちを一瞬にして見失ってしまったのが分かった。世界はなぜこんなにも自分を混乱させるのだろうか。苦しいのか悲しいのか訳の分からない気持ちに、はただ唇を強く噛んだ。





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(2012/1/19)