思いが通じた、と言って良いかどうかは分からない。けれど、件の出来事以来、とルシウスの関係について周囲の認知は“恋人”であった。勿論、はルシウスと世間一般の恋人同士がするであろうことをしている。手を繋ぐ、抱き合う、キスをする――――それだけでなく、公認の関係となってからは寮と大広間の行き来で並んで歩いたり、時折図書館へ二人して訪れたり、談話室でも二人で過ごすことがあった。そして、最初の夜以来初めて彼の部屋へが足を踏み入れることを許されたことも、の立ち位置を大きく変えたことを表していた。何より、以前と比べて明らかにの扱いが変わったことは、自身も周囲も感じていることだ。

 ルシウスは、基本的には女子生徒にはスリザリン生であろうとあるまいと、紳士的な対応をする。これまで彼と噂された女子生徒も多くいたが、彼女らを見ていても特別変わった扱いをされている者はいなかった。誰か一人との噂がありながら、他の女子生徒と並んで歩いたり囲まれている所を見かけるのは日常茶飯事。けれどは違った。と正式な関係が始まってからは、女子生徒との噂は一切なくなり、何かに熱心に誘う女子生徒もばっさりと切るようになったのだ。左頬を腫らして大広間に入って来たあの事件からも、「ルシウス・マルフォイは地味子に本気だ」なんていう噂が広がっており、それは一週間、二週間と経った今もなかなか消えることはない。

 彼に本気だった多くの女子生徒たちの中からたった一人選ばれたは、そんな状況の中で罪悪感を抱かないほど強くも楽観的でもない。ルシウスに触れられた時、キスをしている時、…何より、こうして抱かれている時、いつも頭をよぎるのは、自分が愛されている影で涙を零す顔も知らない女の子のこと。けれどそれも全て分かっているようなルシウスは、少し苦笑いをしての頬を撫ぜる。そして、汗でべたつく額に躊躇いもなく唇を落とす。一瞬で背筋を駆け上る奇妙な感覚に、は唇を噛んで声を殺しながら、ルシウスの背中に爪を立てた。

「私といる時くらい、余所事はやめたらどうだ」

 言われるまでもなく、ぼうっとする頭。それまで鮮明だった意識に靄がかかって行く。、と甘く囁かれてしまえば、もうはルシウスのことしか考えれらなくなる。

「……の、………しか、……な、い…」
「なんだ?」
「あなたのことしか、かんがえ、られない」
「…それでいい」

 緩く笑うと、次は唇にキスを落とす。もう何度目とも知れないその行為に、それでもくらくらと目眩がする。果ても底も見えない場所へ落ちて行く。なのに恐怖はなかった。どれだけの罪悪感を覚えても、不思議と恐怖だけは生まれなかったのは、彼の笑みがあまりにも優しいからなのではないかと思う。









「現実味がないのでしょう、つまりは」

 はルシウスとの関係の始まりからこれまでを、だけに話した。思ったよりも驚かなかった彼女だったが、やはりあれだけの有名な生徒と恋人同士であることには心配してくれているらしく、の相談に乗ってくれている。今日もまた、胸に引っ掛かる嫌な感覚が気になって仕方ないは、二人で部屋に戻った途端、ぽつりと零した。「私じゃないみたいなの」と。あんなにも拒んだのに、あんなにも一人占めしたくなった。それなのに、自分だけのものになった途端、分からなくなる。彼に声を掛けられる自分も、触れられる自分も、彼を求める自分も、彼を思う自分まで、まるで自分ではないみたいなのだ。ふわふわとした奇妙な浮遊感に四六時中襲われているようで落ち着かない。ルシウスは、あんなにも女の子との噂があったとは思えないほど自分だけに気持ちを傾けてくれるのに。

 疑っている訳じゃないのだ。彼の気持ちを一身に受けて、罪悪感を抱きながらもほっとしている。それなのに、どこか自分の心にしっくりと来ないこの感覚はなんなのだろう。冷めるどころか更に離れがたいと言うのに、その離れがたいと言う気持ちすら、まるで自分でない誰かの感情が自分の中に入って来ているみたいなのだ。

「そう、なのかな…」
「これまで雲の上で手の届かない存在だったマルフォイ先輩が、何の接点もなかった自分だけのものになった……そんな現実にいきなり順応できてたらある意味すごいわよ、
「でももう二週間以上よ?さすがに変だって思われたらどうしよう、私、嫌われたりしないかな」
「それは時間の問題じゃないんじゃない?それに、先輩を見てる限りを手離すとは思えないわ」

 あんな優しい顔したマルフォイ先輩見たことないわ。肩を竦めてそう言う彼女に、は僅かに頬を染める。確かにその自覚はある。自分の周囲にもカップルというものは当然いるが、他と比較してみても些かルシウスは過保護な所がある気がする。授業の移動教室以外は時間が合えば必ずと行動する。食事の時間、例えどちらかが先に大広間に着いていても、出る時は必ず一緒なのだ。どれだけ断っても結局最後にはが折れ、しかもここ最近は手を引かれたり肩を引かれたりと、何かしらオプション付きでもある。

 嬉しくないはずがない。いよいよ自分が、自分だけが彼の領域に入ることを許されたのだと実感できる。それに、彼に触れられること自体は嫌でもなく、これもやはり嬉しいものである。それを上手くルシウスに伝えたことなどないが、恥ずかしくなったり、いっぱいいっぱいになると口数の減るを分かっているルシウスは、それも感じ取って入るのだろう。だから、の言葉が少なくなると決まってルシウスはおかしそうに笑うのだ。

とマルフォイ先輩を見てるとこっちが恥ずかしい…」
「私も恥ずかしい…」
「でも良いと思うわよ、あなたたちお似合いだと思う」
「それは身内の贔屓目よ」
「私がそんなことしない人間だって、が一番知ってるんじゃない?それに最近の、可愛いもの」

 そう言いながらベッドに寝転がる。…朝、髪を梳かすだけで何もしなかったり、簡単に結ったりするだけで大広間に行くと、まずルシウスに髪を触られる。朝から機嫌よく手ずからの髪を結う所を見ると、の髪がというよりも、にどれだけ気持ちを注いでいるのか、嫌でも周囲は分かるのだった。それに、ルシウスは髪を結うのがとても上手い。元々器用なのもあるのだろうが、よりもバレッタの扱いも上手いのだ。いつも隣に座るは慣れたようだが、される本人は未だにどこかそわそわする。今朝もまた、「顔が見える方が良いと言っただろう」などと言いながら、着席早々髪を直されてしまった。

 そんな朝のことを思い出しながらぼんやり考えていると、「あー!」と突然は叫び声を上げる。急に現実に戻されたは、驚いてべっっどからずり落ちそうになった。

「ど、どうしたの…」
「図書館に忘れた教科書取りに行かなきゃ…」
「あと三十分で閉館よ?」
「でも明日授業があるから行かないと。ちょっと行ってく…じゃない、ねえ、ついて来てくれる?」
「いいわよ」

 脱いだばかりのローブを羽織り、彼女と寮を出る。廊下に出るとひやりとした空気に二人して身震いした。あの授業は眠たいだの、この授業のどこが分からないだの、この間のレポートの結果がどうだっただの、他愛もない話を続ける。部屋の外に出るとルシウスの話はしないのだ。ルシウスのような人物の恋人にもなれば、これまでいなかった敵が増えてもおかしくはない。

、ちょっと良いかしら」

 そう、こんな風に上級生に呼び止められても何らおかしくはないのだ。彼の噂に一度として上がったことのなかったの名前、目立ちもしなければ貶されるばかりの地味な生徒、そんな自分がある日突然ルシウスの隣に現れれば買うのは興味や好奇心だけではない。悲しみだけなら良いが、生憎それだけではないのが恋愛というもの。嫉妬も、妬みも、怒りも買う。もしルシウスがたった一人選んだ相手が有名な純血の家系のお嬢様だったら、或いは違ったかも知れない。だがの一族は純血でこそあるが、マルフォイ家やブラック家のように名家に名を連ねるような家ではない。そこに加えて“地味子”と蔑まれる。ルシウスに恋をしていた女子生徒の嫉妬は限界にまで達していたのだろう。

 正面から歩いて来た女子生徒は確かルシウスと同級生で、何度も並んで歩いている所を見たことがあった。彼女がルシウスに腕を絡ませていた所だって見たことがある。彼女も純血の一族で、マルフォイ家ほどではないがそれなりに名の知れた家の令嬢だ。今、と対峙しているような憎悪に歪んだ表情でなければ校内でも五本の指に入る美人である。しかし、は至って冷静だった。何を言われても、何をされても落ち着いていられる自信があった。だから、彼女が大きく腕を振り上げ、頬を叩かれると分かっても避けることはしなかった。

…っ!」

 パァン、と乾いた音が廊下に響くのと、が悲鳴を上げるようにの名を叫んだのは同時だった。余りに勢いよく叩かれたため、数歩後ろへよろめく。それでも彼女を睨みもせず、反論もせず、泣き出しもしない。ただ打たれた頬を手で押さえながらゆっくりと彼女の姿を目に移す。すると、彼女は苦々しげにに言った。

「ルシウスに近付かないで…っ」
「………………」
「あんた一体何様のつもりなの?私はずっと彼を見てた!彼を思ってた!それなのにあんたは、あんたが、」
「マルフォイ先輩が!」

 彼女の声を遮って、ようやくは声を上げた。それまで大人しかったに驚いたのは、彼女と、その背後に控える二人の女子生徒も、もまた同じだ。けれど繋げた言葉は自身も恐ろしいほどに淡々としていた。

「先輩が私なんかを本気で相手にする訳がありません。私は“地味子”でしょう?」
「あんた…っ」

 自嘲気味に零せば、彼女の怒りを増幅させたらしく、とうとう首を絞める勢いでの胸倉を掴んで来る。それなのに、はこっちのほうがしっくり来ると、場違いなことを考えていた。ルシウスに抱かれている時にあるあの浮遊感が、今はない。優しい言葉を、甘い言葉を囁かれるよりも、こうして負の目を向けられ、蔑まれている方が本来のの日常だったのだ。だからか、ルシウスといる時よりもよほど平常心でいられる。いや、平常心よりももっと冷めていた。同時に生まれたのは「やっぱりか」という思い。少しでもルシウスと釣り合うようになればと、努力しなかった訳じゃない。何もしなかった訳じゃないのだ。けれど、自分は周りに認められなかった。やルシウス本人を除いては、はルシウスに相応しくないとの判断を下した。とうとうそんな烙印を押され、果たして明日からもルシウスの隣に立っていられるだろうか。

「…もう良いですか、図書館に用があるので」
「ちょっと、」
、行きましょう。閉館時間まであと少ししかないわ」
「け、れど、頬が…」
「後でも大丈夫。教科書の方が大事よ」

 の手を引き、元通り図書館を目指して急ぐ。早足で向かったお陰で図書館には間に合った。無事、の教科書も彼女の手元に戻って来た。気まずい雰囲気のまま、互いに殆ど何も離さないまま、また寮への道を辿る。先程見事な平手打ちを喰らった左頬は、外気の冷たさを受けてかそれほど痛まない。湿布を貼らなくてもこの冷気のお陰で冷えて行く気がした。だが触れてみると腫れているような感触がし、にも「赤くなっている」と心配そうな表情で言われてしまった。それでも医務室へ行くという提案を彼女ももしなかったのは、そういう気分になれなかったから。真っ直ぐ部屋に戻り、の後に続いて部屋に入る。人数の問題で、一年の時からずっと二人部屋だった彼女とは、何も言わなくても互いのことを察することができるようにはなっていた。

、私ね」
「うん」
「私、わたし…」
「…言わなくても良いのよ」

 静かに涙が頬を伝う。の頭を抱え、は優しく「良いのよ」と繰り返した。

 辛くないはずがなかった。苦しくないはずがなかった。痛くないはずがなかったのだ。自分でどれほど不釣り合いだと分かっていても、あれほどまでに憎悪の目を向けられて、胸が痛まないはずがなかった。同時に、自分は余りにも愚かだったことを思い知る。ルシウスの隣にいる時に感じる浮遊感、現実味のないあの感覚、あれこそが恋をしている感覚だった。本来ならばそれは幸せと受け取るべき感覚だったのだ。髪に触れられる指、重ねる唇、直に肌で感じる彼の体温、それらはこんなにも身体が鮮明に感じ取っている。これが現実でなければ何が現実だと言うのだろう。

 こんなにも、自分が思っている以上にルシウスに気持ちが傾いていると言うことに気付くのが遅かった。それと同時に気付いてしまった、自分はとんでもないことをしてしまったのだと。自分のせいで傷付く女の子がいることは知っていた。けれど、いざその怒りや悲しみを向けられて、自分のしたことの重大さを思い知ってしまった。自分では、駄目だったのだと。





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(2012/1/4)