こういう時、はどうすればいいのか分からなかった。事後の雰囲気というものも、会話も、何も分からなくて黙り込む。何かを考えることすら億劫で身体に力の入らないは、座り込んだままルシウスの肩に凭れた。甘えたい気持ちがある訳ではない、何かを支えにしないと座位すら保てないほど疲れ切っていた。そんなの髪を、先程までの僅かに乱暴さを含んだ行為とは違い優しく梳く指先に、つい錯覚しそうになる。自分はこの人に恋をしているのではないか、と。嘲笑一つ漏らせば、涙が一粒零れ落ちた。 「なぜ泣く?」 頭の上から降って来る声もまた優しく、まるで小さな子どもをあやすかのようだ。分からない、と呟いて投げ出した手をぎゅっと握る。彼の手も、彼の声も、決して自分のものにはなり得ない。自分もまたいっときの遊び相手であり、時間が来ればこの関係は終わり。それで良いはずなのに、それを望んでいたはずなのに、なぜか痛む胸の奥。薄いガラスがひび割れて行くような感覚に苛まれながら、は変わり始めた自分の気持ちに戸惑いと恐れを感じていた。 ![]() ルシウスが最初に提案した通り、は落ち着いてから医務室へ一人早足で向かう。真っ青な顔をしたを見たマダム・ポンフリーは有無を言わさずすぐさまをベッドへ寝かせた。 身体も心も蝕まれて行くこの状況を何とかして食い止めたい。引き返せない所にまで来てしまう前に、ルシウスとの関係を断ち切りたいと思う。けれどそれは本心から願っていることなのだろうかと、時折自問することがある。本気で彼との関係を断ちたいのなら、名前を呼ばれても振り返らなければ良いだけだ。彼の視線から逃げて逃げて逃げ切って、あの手をめいいっぱいの力で振り払えばいい。結局は彼を拒めないのは家がどうの、一族がどうのと自分の気持ちに気付かない振りをしているからではないか。責任転嫁しているだけなのではないか。 (泣いちゃだめ、泣いちゃだめよ) けれど目の端を伝う冷たさに、自分は泣いているのだと認めざるを得ない。これまではこんなにも頻回に泣くことなどなかった。ルシウスとの関わりがを大きく変えてしまったのだ。その一挙一動には戸惑い、困惑し、動揺する。気持ちの振れ幅など大きければ大きいほど面倒だと言うのに、それなのに今も本当は期待をしている。期待の先にあるのが落胆や失望だとしても。こうして目を閉じ、眠りについた後、次に起きた時にはすぐそこにルシウスが居てくれるのではないかと思ってしまう。決して特別な存在などではない自分のために、授業を一つ潰してまで居てくれるはずがないのに、冷たい中に僅かに優しさを含ませたりなんてするから、期待をしてしまう。それが例えの恋愛経験の少なさを利用した行為であっても、その経験の少なさゆえに愚かな希望を抱いてしまうのだ。 今度こそ眠ってしまおうと、半ば乱暴に目を擦る。疲れてしまい、考えることを放棄すればやって来る睡魔。それに素直に従いながらは目を閉じた。 *** 一時間ほど眠ったのだろうか。の目覚めは突然だった。夢も見ないほど深く眠っていたらしく、目を開けているのにまだ半分眠っているようだ。腫れているのだろうか、目に違和感も感じる。すると、視界の右端にプラチナブロンドを捉え、ゆっくりと首を巡らせた。こんなにも綺麗な髪を持つ人物を、はホグワーツでただ一人しか知らない。冷たくも美しいアイスブルーの目も、心当たりは一人しかいない。 「よく眠っていたようだな」 「先輩…どうして…」 ルシウスは読んでいたらしい本を閉じると、組んでいた足も戻しての方を向く。もまた半身を起こせば、丁度ルシウスと目線の高さが同じになった。有り得るはずがないと思った光景が今、目の前にある。 だから嫌だったのに、と頭の中で繰り返した。こんな風に、が少しでも期待してしまったことを実際彼はやってしまうから、おかしな期待を抱いてしまうのだ。拘るのは名前を呼ばれた時だけでいいのに、課題を見てくれたり、医務室までわざわざ来てくれたり、そんなことはしないで欲しい。彼はどこまで人の心を揺らせば気が済むのかと思うと苦しくなり、はぎゅっとシーツを握り締めた。唇を噛み締めて涙を堪えるも、その最後の意地をも決壊させんとばかりに、長い指での頬をなぞるルシウス。身体の底から、何か言い表せない感覚がのぼりつめて来るようだ。 「忘れ物を届けに来ただけだ」 「バレッタ……」 今朝、友人にプレゼントされたばかりの花のバレッタを差し出される。そんなもの、ベッドサイドに置いておいてくれれば良かったではないか。が目を覚ますまでここに居ることなどしなくていいのだ。確かに彼に医務室へ行くよう言われたが、その後のことまで面倒をみる義務はない。苦しいを通り越して、全ての感情が怒りや苛立ちにでも変貌してしまいそうだ。それなのになぜ、「放っておいて」の一言を告げることができないのだろうか。 ルシウスは「後ろを向きなさい」と静かに言うと、の髪に触れる。…の気持ちの揺れを、彼は知っているのだろうか。何に葛藤し、何にもどかしい思いをしているのかを知っているのだろうか。知っていながらもこうしてからかい、思わせぶりな態度を取られる度に、は底なしの沼へと沈んで行くように思う。引き摺りこまれれば最後、戻ることはできない。知ってしまった世界を、もう知らないことにはできないのだ。苦しい、辛いと頭の中で叫びながらも、知ってしまった禁忌の領域。タブーにスリルを感じるだなんて馬鹿げている、傷付かず賢く生きたいなら、そこに興味を持ってはいけない。 (分かっていたはずだったのに…) 髪を梳く指先の優しさや、加えて慈しむように撫でられれば簡単に許してしまう。彼がどんどんと心に入りこんで来ることを許してしまう。これ以上自分の領域は侵させまいとしていても、指先一つでこじ開けるまでもなく扉は開く。知ってしまった、禁忌の味だ。 「、君の髪は美しい」 「そんなこと、」 「簡単に指の隙間からすり抜けて行く……まるで誰かの心のようだ」 それはこちらの台詞だ。けれど言葉にするよりも先に、後ろから手のひらで口を塞がれる。背中にルシウスの気配を感じたかと思えば、もう一方の手も腹部に回され、ぐっと引き寄せられる。所謂、後ろから抱き締められる形になった。尚もの口をふさいだまま、ルシウスは言葉を続ける。「私のものになるつもりはないか?」と。 何を今更――――そう叫びたい気持ちでいっぱいになる。けれど今のに発言権はない。イェスかノーか、彼が求めているのは単純な答えだ。…頷けば良いだろう、既に今だって殆ど彼の所有物のようなものではないか。拒めば明日からの生活が分からない。自分の本心は一体どちらなのだ。まだ禁忌の海に浸り、落ちる所まで落ちてしまいたいのか。足が泥だらけだろうと底なし沼から這い上がり、時間がかかってでも元の生活を取り戻したいのか。自分はどちらを選びたいのだろうか。…答えあぐねていれば、ふ、と彼は耳元で笑う。 「迷うほどに、君は心を許してくれているみたいだね」 「ち、違う…っ」 「ならば即答すれば良いだろう?あなたのものにはならない、と」 右手での唇をなぞり、左手は心臓の辺りに押し当てる。どくん、どくんと大きく拍動する心臓が、緊張を直に伝えていた。の動揺は、全て見透かされている。 その時、一層大きく心臓が跳ねた。ふわりと、女物の香水の匂いが鼻を掠めたのだ。と別れた後、次は誰と会っていたのか。その人にも自分にしたのと同じように髪を撫で、頬をなぞり、身体に触れ、甘い言葉を囁いたのだろうか。狙った獲物を闇の中へとおびき寄せるかのように。引き摺りこまれていると自覚していても抗えないというのに、彼の甘い言葉に騙されて落ちて行った人は一体何人いるのだろう。自分だけではない、自分だけが特別なのではない。それに、心の底からルシウスを求めている人だっているはずだ。求め合っていれば何も面倒なことにもならず、遠回りなこともしなくて良い。それなのに、只管怯えているを標的にする理由はどこにあるのか。 ちらつく女の人の影にまたずきりと心が痛む。もうこんな思いはしたくない。これ以上望みのない期待を抱きたくもない、禁断の領域にはまって行くこともしたくない。けれど、人というのはなぜ敢えて茨の道を歩こうとするのか。 「私が先輩だけのものになっても、先輩は私だけのものにはなってはくれないのでしょう?」 もう引き返せないことに、本当は気付いていた。 Back The poison of the strelitzia Next (2011/12/15) |