談話室も嫌いではない。キャロライナは羽根ペンを進めながら思った。スリザリンの寮は基本的には静かだ。他寮のように騒がしいことは稀である。スリザリン生の気質からか、監督生が監督生だからか。理由は同にしろ、キャロライナにとっては有り難いことだった。お陰でこうして談話室で課題に励むことができる。談話室の隅、居るのか居ないのか分からないような片隅が談話室でのキャロライナの定位置だ。地下にあるスリザリンの寮は確かに薄暗く寒いが、慣れてしまえば案外居心地のいいものである。 (アメジストの粉が……) 教科書をなぞりながら課題の答えを探す。あと少しの所で躓いていたキャロライナは、先程からページを行ったり来たりしている。どうやら手持ちの本だけでは無理そうだ。閉館間際だが今から図書館へ向かうか、急ぎの課題でもないからまた明日やり直すか――――悩んでいる間にもどんどん時間はなくなって行く。諦めたキャロライナは、小さくため息をつくと教科書を閉じた。すると、不意に頭上から影がかかる。顔を上げれば、アイスブルーの双眸がキャロライナを見下ろしていた。 「お困りのようだね、キャロライナ」 「…いえ、別に」 少なくともキャロライナがこの課題を半分ほど進めた頃までは、彼はここにいなかった。最近ではルシウスに監視されているような気分になっていたキャロライナは、途端に気が沈む。すぐに手元の羊皮紙に視線を戻し、席を立とうとしたのだが、この場をすぐに去りたいと言う願いも虚しく、ルシウスは椅子を杖一振りで呼び寄せるとキャロライナの前に腰を下ろした。手元に視線を感じると思えば、キャロライナのやりかけの課題をじっと見つめている。恥ずかしくなったキャロライナは、小さな机に広げたそれらを掻き集めて勢いよく立ち上がる。「お、おやすみなさい!」そう告げてルシウスに背を向けた。けれど。 「キャロライナ」 それは何の呪いだろうか。ただ名前を呼ばれただけで体が動かなくなる。思考は正常に働いているはずなのに、体は言うことを聞いてくれない。数え切れないほどの人に、数え切れないほど呼ばれて来た自分の名前だ。それなのに彼の声で呼ばれれば、それはまるで自分のものではないような錯覚にまで陥る。硬直したキャロライナは壊れたおもちゃのようなぎこちない動きで振り返ると、冷たくも美しい微笑みを湛えたルシウスが少しも動かずそこにいた。キャロライナ、と再度名前を呼ばれる。何を考えているのか少しも想像のつかない瞳に囚われて、キャロライナは自由を失った。見えない束縛がぎりぎりと締めつけて来るのは一体なぜ。 「こちらへ来なさい」 「は、い……」 ただ、ここでは彼の思い通りにならないことはないのだということだけ、はっきりと分かる。自分の意思とは最早関係がない。純血の本能と言えばいいのだろうか。キャロライナは純血を特別視している訳ではないが、それ以外に考えられなかった。いや、それ以外に理由があるなんて考えたくなかったのかも知れない。認めたくない何かがあるのかも知れない。…純血に逆らうなと、キャロライナの中の血が騒いでいる気がした。 大人しく元の椅子に座れば、満足げに唇を歪めるルシウス。俯いて顔を隠そうとしたのに、長い髪でも耳に掛けていたせいで表情を隠してなどくれなかった。 ![]() 「おはようキャロル、課題は終わった?」 翌朝、大広間で会ったローナは眠そうな目を擦りながらキャロライナに問いかけた。彼女もどうやら昨夜は課題に追われていたらしい。赤く充血している目が痛々しかった。終わったわ、と言えば、「私も一応…」と欠伸まじりに返って来る。ただキャロライナの場合は、ルシウスに手伝ってもらってしまったという出来事がある分、彼女には申し訳ない気持ちになった。 あの後は結局、自力でこなしていた課題にざっと目を通され、添削までされてしまった。いや、お陰で課題は完璧に仕上がったのだが、その間中に感じていた視線が痛かった。目立たないようにと談話室の隅にいたというのに、ルシウスがやって来てしまっては嫌でも寮生たちの目に留まる。彼とは違った意味で有名なキャロライナにとっては、とても居心地の悪いものだった。なぜあんな子が――――言葉はなくとも感じ取れた鋭い棘の数々に、課題が終わる頃にはキャロライナの精神はかなり削られていた。無言で視線を送って来るくらいなら、ルシウスに声を掛けてどこへでも連れて行って欲しいとさえ思ったほどだ。 「酷いわよね、あの課題。一部は私たちの学年じゃ習わない内容だったのよ」 「え?」 「図書館で荒れ狂ってたら先輩が教えてくれたの。キャロルも誰かに教えてもらったの?」 「ええ。…ああ、だから教科書には載ってなかったのね」 あの課題の内容を見た時、ルシウスが小さく笑った理由が分かった。あの時はキャロライナの課題の出来の悪さを哂ったのかと思ったが、どうやら違うらしい。心のどこかでほっとしながらコップに口をつけたすると。まだ半分ほど眠気の残っていた頭が、冷たい水ですっと冷えて行く。その冷たさにまたルシウスを思い出し、先程の安堵を掻き消すようにキャロライナを寒気が襲った。最近では何か暗示でも掛けられたかのように、ことあるごとに彼を思い出してしまう。その度に気持ちは酷く沈み、頭痛を覚える。 こんな生活はいつまで続くのだろうか。ルシウスが飽きてくれればそこで終わりなのだろうが、もし飽きなければこの先どうなるというのだろう。呼ばれれば振り返り、返事をする――――契約はそれだけだったはずなのに、最早それだけでは済んでいない。もちろんあの夜以来、彼と関係を持ったことは一度としてない。それなのにまるで監視されているような、それでいて細い糸で縛られているような感覚がある。束縛のようなあからさまなものではないのに、束縛よりも余程効力を持っているのだ。 俯けば流れて来る髪を耳に掛け直し、パンを千切る。けれど最近めっきり食欲の失せてしまったキャロライナは、三口ほど千切って口に入れただけでパンを皿の上へ戻した。それを見たローナは「食べないなら貰うわよ」とキャロライナのお皿に手を伸ばす。キャロライナに元気がないことには彼女なら気付いているだろう。それでもキャロライナから言わない限り聞いて来ないのは彼女の優しさだった。 「ああ、そうだわキャロル。これを貴女にあげようと思って」 ペーパーで手を拭くと、スカートのポケットをごそごそと探るローナ。そうして差し出されたのは可愛らしい花の装飾のついたバレッタだった。きらきらと輝くそれは、まさか自分がつけてもいいようなものとは思えない。困惑しているキャロライナの手にバレッタを握らせ、彼女はにこりと笑う。 「最近、鬱陶しそうに髪を耳に掛けてるでしょ?使いなさいよ」 「でもこんな綺麗な…」 「今日はキャロルの誕生日じゃない、私が貰ってって言ってるの。ほら、あっち向いて。つけてあげるから」 ローナはキャロライナの肩を掴むと勢いよく体を反転させた。そして器用に上半分の髪を掬い、ハーフアップにすると後ろをバレッタで留める。耳が外気に触れて不思議な感じがした。首元も風が通って行くようで擽ったい。何より視界が普段より広がった気がして落ち着かなかった。無駄だと分かりながらも前髪を押さえつけ、少しでも顔を隠そうとする。そんなキャロライナに彼女は「貴女ねえ…」と苦笑いした。慣れるまでは暫く、この髪に落ち着かないことだろう。 本当は顔なんて隠していたい。俯いていたいし、視界も狭くて良い、聞こえる声は少なくて良い。キャロライナはそう思っていた。それを壊したのは他の誰でもないルシウスだ。彼の命令がなければずっとキャロライナは俯いているつもりだった。この学校の中にしか世界のない彼女にとってはそれで十分だったのだ。…今度は少し寒い首元を押さえながら寮へ向かう。大広間から出て行く時も、スリザリンのテーブルに残っていた生徒たちにちらちらと見られ、居心地は頗る悪かった。その視線が何を意味しているかは分からない、知りたいとも思わないが。 「キャロライナ、おはよう」 こんな時に限って、一番顔を合わせたくない人物に出会ってしまうものだ。抗うことのできない声に、いつも通り足を止めて振り返ると、表情もなくキャロライナは返した。 「…おはようございます、先輩」 自分からは決して声を掛けることのない相手。呼ばれた時にのみ反応すれば良い。振り返り、返事をする。そして彼の要求に応える。この関係を一体なんと言えばいいのだろうか。主従と呼ぶにはあまりに薄く、ただの先輩後輩にしては密約がある。名前を呼ばれる度、触れられる度に頭がおかしくなる。自分の中の何かが麻痺して行くような感覚に、キャロライナは頭を振った。 それこそが彼の狙いなのだと何度も言い聞かせる。彼は、ルシウスは女性なら誰にでも同じようなことをする。あの夜もきっと自分でなくとも良かったのだ。誰にでも微笑みかけるし、誰にでも容易く触れ、髪を梳き、甘い言葉を囁く。その表情が魅力的だ、と誘惑する。それを分かっていても嵌って行くのは愚かな証拠だ、自分は決してそうはならない――――固く自分に言い聞かせるのに、こんなにも心が疼いてしまうのは一体なぜ。昨日課題を手伝ってくれたことも、同じ寮生ですら蔑むキャロライナに近付き、触れて来るのも全て彼の暇つぶしや気まぐれに過ぎない。それが分からないほど馬鹿な人間じゃないのに。 「髪、言われたようにしているようで何より」 「これは、その、友人がくれたもので…さっき無理につけられただけです」 「そうか…今日はキャロライナの誕生日だったね」 「そう、です」 「ならば…」 意味ありげな笑みを浮かべると、攫うようにキャロライナの手を引き、いつかのように最も近い空き教室に連れ込む。まだ多くの生徒が大広間で朝食を摂っているのか、廊下に人は少ない。それでも最近しばしば噂されているルシウスとキャロライナが揃って廊下を、しかもルシウスがキャロライナの手を引いて歩いていたとなれば誰もが振り返る。キャロライナは青くなりながら、早足の彼に着いて行くのに必死になった。空き教室に着く頃には肩で呼吸をしていて、けれどルシウスはそのようなこと気にも留めない。壁際までキャロライナを追い詰めると、長く綺麗な指で彼女の顎に手を添え、上を向かせた。今度は赤くなるキャロライナを見て、「忙しいやつだ」などと言うが、それどころではない。 「授業があります…っ」 「だから、何だ?」 そのようなこと関係ないとも言いたげに冷たく言い放つと、有無を言わさず唇を重ねられる。深く深く、キャロライナの内側を探るような口接けにくらくらと目眩がする。最初は抵抗してルシウスの体を押し返していたキャロライナだったが、それも無駄だと分かると抵抗できなくなってしまった。代わりに目の前の制服をぎゅっと掴み、息苦しさに必死に耐える。唇を噛んで無理矢理終わらせるだけの勇気はキャロライナにはない。離れたかと思えばまた角度を変えて何度も繰り返すそれに、どんどん思考が正常に働かなくなる。これは彼の遊びなのだ、誰にでも簡単にこれくらいするのだと、それすら薄らいでいく。ただ自分の身に起こっている出来事を受け入れるしかできない。ネクタイに手を掛けられた瞬間、身体を固くしたキャロライナを嗤うルシウス。ようやくまともな呼吸ができるほど互いの唇が離れれば、「怖いのか?」と低い声で耳元に囁きかけて来る。 「そういう問題じゃ、」 「そういう問題だ。授業を放棄すること、私と居ること、これからすること、その先にある周囲の目、取り巻く噂…キャロライナ、君はいつでも恐怖でいっぱいだ」 否定することができず、黙りこくるキャロライナ。反論の術など最初から持ってなどなかった。何もかも分かっている、分かっているのに回避する方法だけが分からない。…再び触れるだけの口接けを交わすと、ルシウスの右手がキャロライナのバレッタを取り去った。 「君は優秀だ、この後医務室へ行けば誰も仮病だなどと思うまい」 「やだ……っ」 「拒否権はないと、何度言わせれば気が済む?」 瞬間、きつく掴まれた左手首に痛みが走る。ごめんなさい、と涙声で言えば、すぐにその痛みは消えた。…外されたネクタイが床に落ちる音がする。バレッタの外された髪はいつも通りに流れ、首を隠す。目の前の現実も、目の前の人物も受け入れるしかないのだと諦めても、どうやってこの涙を止めれば良い。痛みの走る身体、その痛みの理由すら分からない。繰り返せば麻痺したように感じなくなるのだろうか。 誰に聞くこともできない。誰かに終わりを頼むことすらできない。意図的に隠されたかのような迷路の解答を握っているのはルシウスだ。何の合図もなく始まったこの関係の上では、なぜ自分だったのかということを聞くことも許されないのだ。落ちて行く先など見えないまま、今はただ身体を委ねるしかなかった。 Back The poison of the strelitzia Next (2011/11/19) |