契約成立だ。…そう言った彼の声が忘れられない。新しいおもちゃを甚振るような目でを見たあの目も。彼が飽きたら終わりなのだ。何の取り柄もない、目立ちもしない自分をいつまでも構い続けるはずがない。 「、一体何だったの?あなたが何かしたんじゃないかって私、心配したのよ」 ルシウスの元から帰って来たを見たは声を掛けて来た。私が何かしたことが前提なのか、と苦笑いが漏れたが、生憎とルシウスは監督生でもあるため、彼女が心配するのも無理はないのだ。しかし、の胸に結ばれたネクタイを見て事情を察したかのように「あら」と声を小さく漏らす。先輩が届けてくれたのね、という言葉が続いたが、流石に昨夜あったことまで察したようではないらしい。当然だろう、片やかのマルフォイ家の人物、片や純血とは言えほぼ庶民。彼にも選ぶ権利はある、だ。 けれどは悩んでいた。この友人に自分とルシウスとの間に起こったことを話すべきか否か。話した所で何か変わる訳ではないことは分かっている。それどころか、彼女さえも自分を軽蔑するかも知れない――――そう思うと怖くて仕方がない。は結局、彼女に何も言い出せなかった。 「それにしても、どうしてマルフォイ先輩がのネクタイを?」 「か…隠されていたのを見つけて下さったみたい」 「隠されて?ああもう、きっとまたグリフィンドールの奴らね!気にしなくて良いのよ、あいつらってば本当暇なんだから」 「ありがとう、あまり気にしてないから大丈夫よ」 本当は自分の過失だ。無実の罪を着せられたグリフィンドール生に少し申し訳ないと思いつつ、後輩をいつも虐めてくれていると言うことでこれくらいの罪を擦り付けたって構わないだろうと自己完結する。彼女はパンを頬張りながらグリフィンドールのテーブルをぎろりと睨んでいた。 あらゆることに無頓着なは、寮同士のいがみ合いにはあまり興味がなかった。家も純血の一族であり、あのブラック家とも血縁関係にあるものの、今や繋がりが辛うじてあると言う程度の遠縁だ。先祖を辿れば純血だ何だにうるさかったそうだが、の両親は純血であることに特に拘りを持ってはいなかった。どういう因果か結ばれた相手が純血だっただけ、と言っているのである。そんな両親の元で育ったため、もまた無頓着だった。 けれど手を出してはいけない領域くらいは分かっている。無頓着なりに身分を弁えることくらいは分かっているのだ。間違いなく、今回マルフォイ家の人間と関係を持ってしまったことはの間違いだった。…朝から止まない頭痛に頭を抱えながら、これからの日々をどうすればいいのかということをひたすら悩んでいた。 ![]() 「」 涼しいその声にどきりと、いや、ぎくりとする。次の授業の教室へ移動中、後ろからかけられた声には立ち止まった。呼び止めれば立ち止まり、振り返れば良い――――あの契約から数日、初めて呼び掛けられたは、息も止めたままゆっくりと後ろを振り返った。そこには当然、ルシウス・マルフォイの姿がある。このまま今後一度も彼と関わることなく過ごせたら、というの望みは見事に打ち砕かれてしまった。一瞬躊躇った後、けれどの方から口を開く。 「…何、でしょうか」 「約束を覚えていてくれたようだね」 「ええ、まあ…」 約束なんて生温いものではないだろうと思いつつ、は目を逸らしたまま返事をする。意外にも彼は一人だった。いつも取り巻きと一緒にいる所しか見ていないため不思議な感じがする。いや、複数人でいるのに呼びとめられても竦んでしまうが、どの道、廊下でルシウス・マルフォイに声を掛けられれば周りの注目を受けない訳がなかった。ちくちくと刺さるような視線は興味本位のものであったり、訝しげなものであったりと様々だ。用があるならさっさと済ませて欲しいと思いながらも、まさかそのようなことが言えるはずがない。 ルシウスは張り付けたような笑みを湛えながら、ずっと背の低いを見下ろす。その視線に居心地の悪さを感じながら、は逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。けれどその場に縫いつけられたかのように足は動かない。いや、動いたとしても逃げ出せなどしないのだが。沈黙ののち、「家と言えば…」とルシウスが切り出した。 「ブラック家に劣らず長く続く家だと聞くが」 「家系…を辿れば、分家のようなものです。今では遠縁ですし、その…」 関わって出て来るメリットなどない。脅した所で傷が付くような家でもない。ただ、何かありもしない噂を流されれば魔法界で住みにくくなるだろうから、それだけは避けたいのだが。そんな本心を見透かしているらしいルシウスは、焦るの顔を見ておかしそうに唇を歪めた。そのようなこと期待していない、と。 「純血であることを軽視しているということはとても有名だ」 「こ、言葉を返すようですが、家には家の考え方が、あります」 「それはお聞かせ願いたい」 ずい、と一歩近寄ると、ルシウスはの顔を覗き込んだ。しまった、というような血の気の引いたに、ますます面白そうにする。恐怖に揺れる瞳は大きく見開かれ、ルシウスを映している。見上げることで後ろへ流れた髪が、影を落としていたの表情を顕わにした。そして右へ左へと視線を彷徨わせ言葉を探すが、ルシウスの神経を逆撫でしないようにと必死になっているのが見て取れる。あまりに考えていることが顔に出ており、これでは目の前の彼の機嫌を損ねるのも時間の問題かとは覚悟をし始めていた。 しかし彼はの言葉を聞くことなどなく、目線と共に下がった彼女の顔に手を添えると、もう一方の手で落ちて来た髪を耳に掛けた。そして耳の傍でそっと囁く。 「この方が表情がよく見えるだろう、」 「や……っ」 頬に触れている手を振り払おうとして、その手を逆に掴まれてしまった。相変わらずの冷たい眼には、を見下すばかりの色が滲んでいる。蛇に睨まれた蛙とはこのことを言うのだろうか、もう泣き出したい気持ちでいっぱいだというのに、まだルシウスはを解放してくれる気配はない。それどころか益々手首を掴む手に力が入る。逃げろ、逃げるな、真逆の二つの警鐘が頭の中で響き渡り、焦燥ばかりがを襲う。もう周りの目どころではない、目の前の状況をどう突破するかということでいっぱいいっぱいだ。それも打開策など見つからず、ただ受け入れるしかない現状にはあの夜の自分を激しく責めた。 そう、あの日だって享受するしかなかった。自分でも訳が分からないまま進んだ行為に、それでも溺れて行ったのは自分だ。冷静に考えれば、普段のなら絶対に有り得ないことなのに、なぜあのようなことになったのか今でも分からない。分別の付かない子どもではないのだ、その結果齎されることだって予測くらいできていた。例えばその後に万が一、自分がルシウスに惹かれることがあったとして、それが実ることはないということだって、当然理解していた。だから、強いて言うなら一時の気の迷いだったとしか言いようがない。彼にとってもまた、は“丁度そこにいた後輩”という認識でしかないのだ。都合良くそこにいたから部屋に招き入れただけのこと。 それなのに、この人に近寄られると顔が熱くなるのを止められない。けれどそれはきっと男慣れしていないせいだ、そう思いたい。面白がってからかわれているのだと、それさえも分かっているのに。 「これからはこうすること。…いいね」 「…………」 「、返事は?」 「わか…りました…」 震える声で求められた返事をする。脳がこんなにも拒絶をしているのに、身体だけはどうしても言うことを利かない。どんどんと暗がりへ落ちて行くのを、は感じていた。 *** を解放してやると、見計らったかのようにタイミング良く同級生の女子生徒が声を掛けて来た。 「地味子って呼ばれてるわよあの子」 「そうらしいな」 「ルシウス、知っていたの?」 「ああ」 腕を絡めて来る彼女に適当に返事をするが、それを知ってか知らずか離れようとはしない。きつい香水の匂いに、ルシウスは僅かに眉根を寄せた。香水なども、そういえば、という程度に使うならいいが、ここまで露骨に使うのは好まない。一度は遊んだ相手だが、もうどうでも良い相手であり、興味など最初から微塵にもないのだ。付き纏われて迷惑だと思っていたほどである。それでもめげずにやって来る女はとても面倒だ。こういう女はのような人間を毛嫌いする。蔑むような目で彼女の後ろ姿を見ながら「地味子ねぇ」などと言って嗤っている。 「どうしてあんな地味子に構うの?」 少なくともお前よりもの方がよほど面白みはある――――そう思ったが、言えばまた面倒なことになるので言わない。ルシウスは面倒なことが何よりも嫌いだ。ただ、せっかく見つけた新しいターゲットを他の人間に取られることはもっと嫌だった。我ながら幼稚だとは思いながら、を他の人間からターゲットにされない予防線を張りに入る。 「ただの暇潰しだ。手を出してくれるな」 どこか納得行かなさそうに片眉を上げる女。もうこれ以上はごめんだと思い、とうとう腕を中ば乱暴に振り払っての消えた廊下を同じく歩いて行く。後ろから追い掛けて来るような足音は聞こえない。けれどもうルシウスの頭には先程の女のことなどない。の怯えた顔を見るのは次はいつだろうかと思うと、自然と唇が綺麗な三日月の形に歪んだ。 Back The poison of the strelitzia Next (2011/11/4) |