あの時、もう少し早く寮に戻っていたら。挨拶だけしてすぐに部屋に入っていたら。考えても無駄なことを何度も考える。起きてしまったことをなかったことにはできないのに。

(朝…じゃない……まだ暗い…)

 ゆっくりと体を起こすと、身体のあちこちに痛みが走ると共に、肩から何かが滑り落ちた。…見慣れないローブだ。一体誰が――――そして思い出す、昨夜の出来事を。自分はあってはならない過ちを犯してしまった。これからこのスリザリンで一体どう過ごして行けばいいのだろうか、まだあと二年はここにいなければならないというのに。とりあえず、この部屋の主がいない間に退散するしかない。は床に散らばった自分の制服を掻き集め、掛け違えていても構わずカッターシャツに袖を通し、タイツや靴は履かず回収だけしてドアへ向かう。しかし。

「どこへ行く?」
「………っ」

 いないと思っていた部屋の主。しかし、後ろからかかった声は間違いなく彼のもの。が恐る恐る振り返れば、まだ朝日の上る気配のない暗い空をバックに、窓に凭れた彼がいた。どくん、と心臓が鳴る。全身の血液がすごい勢いで駆け巡っているような気がした。強張る身体、固まる表情、出せない声。そんなに彼は微笑み、そして迷うことなく近寄って来たと思えば、の髪をひと房手にすると、そこへ口付ける。かあっと顔が熱くなる。彼女とは逆に冷たい眼を向けた彼は、追いつめるように言った。

「忘れられない日になっただろう?」
「っはなし、て…!」

 ぱしん、と乾いた音がする。は動揺から彼の手を振り払ったのだ。そして二、三歩後ろへ下がり、ドアノブに触れるとそのまま後ろ手にドアを開け、一気に男子寮の階段を駆け降りる。全速力で女子寮へ帰ると、ドアに凭れたままそのままずりずりと座り込む。寒さからではない震えが止まらず、ぎゅっと自分の身体を抱き締める。

 訳が分からない。どうしてあんなことになってしまったのか、自分でも訳が分からない。どうすればいい、明日から自分はどうやって振る舞えばいい。目立たぬよう、騒ぎを起こさぬようこれまで過ごしてきたというのに、学生生活も半分をとうに過ぎ、残り僅か二年という所でこのような失態、どこかに漏れてしまえばもう自分はここでの平和な生活が崩されてしまう。

「だって…、まさか…っ」

 まさか、あのルシウス・マルフォイと寝ただなんて。









 忘れ物をしたことに気付いたのは、その日の朝だった。自室に戻ったあの後、色んな意味で熟睡などできるはずがなく、魘されながら何度も寝返りを打って朝になるのを待った。横になればましになるかと思ったが、身体的な辛さはとれるはずがなく、寧ろ起きると余計悪化しているような気さえした。憂鬱な気分では着替える。彼女の顔を見た同室の友人は驚いて今日は休むように言ったのだが、そういう所で変に真面目なは欠席はしないと言い張った。ルシウス・マルフォイと顔を合わせることより、授業に遅れるのが嫌だと言う方が、僅かに上回ったのだ。しかし、大変なことに気がついた。

「ネクタイがない…」
、あなたそんなものどこで忘れて来るのよ」
「分からない…昨日帰って来るまではして……」

 の小さな呟きを聞き逃さなかった友人のは呆れたように言う。…外したのは、あの時(・・・)しかない。そう言えば、彼の部屋を出る時にネクタイを拾った覚えがない。あんなもの悠長に結んでいる余裕なんてなかったのだ。ということは、運が悪ければのネクタイは彼が持っていることになる。十中八九、階段や談話室には落ちていないだろう。

 何ということだろう、一番顔を合わせたくない人物に自分のネクタイの行方を聞かなければならないなんて。いっそこっそり梟便でも飛ばしてくれれば有り難いが、そのようなことをしてくれる人物ではないだろう。だが、周りから見れば接点など全くなかった二人が急に話を始めればおかしなことになる。少なくともスリザリン内では。しかも彼の周りに人がいないことがないため、そんな彼に「私のネクタイ知りませんか」など聞けるはずがないのだ。諦めて新しいものを買う方が賢明のようだ。今日先生に何か言われたら事情を説明しよう――――はそう決めた。

 そう決めたのに、悉く計画をへし折って行くのだ、ルシウス・マルフォイという男は。と話がしたい、と友人を追い払うと、ルシウスはを連れ出し、程近い空き教室へと誘導した。そして改めて彼はを振り返る。

「御機嫌いかがかな、
「………え、と…」
「そのような顔をしなくとも、私は別に君を取って食ったりはしない」

 そう、昨晩のようにはね。耳元でそっと、最後の一言を付け加えられる。かかった吐息が余計昨夜のことを思い出させて羞恥でいっぱいになったは、真っ赤な顔を隠すかのように前髪を必死で撫でつけた。俯けば黒い髪がさらりと落ちて来て、その表情を隠す。

「君の忘れ物を届けに来ただけだよ。ほら、ないと困るだろう」
「あ…」

 差し出されたそれは、紛うことなきのネクタイだ。やはり彼の部屋にあったらしい。朝からとんでもない目に遭ってしまった訳だが、わざわざこれを渡してくれたことには感謝しなくてはならない。ありがとうございます、と言いながら綺麗に畳まれたネクタイを受け取ろうとした。しかし、手を伸ばした瞬間にすいっとそれを取り上げられる。よりずっと背の高いルシウスが手を上げてしまえば届くはずがない。その腕の動きを目で追えば、自然と上を向く顔。後ろへ流れた黒髪が、彼女の丸くした目を曝け出してしまう。その隙を突いて左手での顎を掴むと、唇が触れそうなほどに顔を近付け、甘ったるい、けれど冷たい響きを含んだ声で彼は言った。

「ただでは返さないよ。相応の見返りを要求させてもらおう」
「相応の、要求…」
「そう…」

 言いながら、親指での唇をなぞる。ぴくりと目元が強張った。右へ左へと視線を彷徨わせるも、ルシウスが離れる気配はない。「何を…」と震える声で訊ねれば、ふ、と唇を歪める。簡単なことだ、と彼は言った。

「今後、私の呼び掛けに君が応えれば良い」
「呼び掛け…」
「呼び止めれば立ち止まり、振り返る。それで良い。簡単だろう?」

 とは言うものの、彼の意図が全く読めない。しかし有無を言わさず頷くことしか認めないような口ぶりに、は訝しげに彼を見上げながらも一度だけ小さく頷く。そんなに「良い子だ」と耳元で囁きながら微笑めば、そのまま耳朶を食み、ぺろりと舐める。あまりに突然の出来事に声にならない叫びを上げ、あらん限りの力で目の前の身体を押し返す。自分で触れればそこは何ともないのに、酷く熱を持った気がした。

 相変わらず目の前の男は冷えた笑みを浮かべてを見るばかり。愉快そうに歪められた唇は、平気で彼女を追い詰めた。

「契約成立だ」

 差し出されたネクタイに手を伸ばす。その瞬間、逃げられないとは悟ってしまった。





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(2011/10/27)