翌日、いつもより早く僻地支部へ出勤すると、まだ支部にはルーピンさんと私、それにちらほら役人がいるだけだった。メリンダさんはいつも始業ギリギリに出勤してくるため、当然いない。ルーピンさんもいつもであればこんな時間にはまだ出勤して来ていない。…何だかとても気まずい。どう声をかければいいのだろうか。昨夜は思い余って抱き締めたり、生意気なことをたくさん言ったり、それに―――。 (抱き締められたのなんて初めて…) ルーピンさんの肩越しに見えた半月は涙のせいで少し滲んで見えた。細く見えるのに意外と強かった腕に、私は改めてルーピンさんは男の人なのだと意識してしまった。腕の力とは裏腹に震えた弱い声を聞き、私は彼の行為に抵抗することなどできなかった。いや、しなかった、の方が正しいかも知れない。かあ、と途端に熱くなる頬。平常心、平常心、と自分に言い聞かせながらゆっくり自分に宛がわれたデスクに近付き、恐る恐る声を掛ける。「…おはようございます」「おはよう、さん」こっちの気が抜けるほどにルーピンさんはいつもと変わりがない。それもそうだ、ルーピンさんと私は十も年が違うのだから、私なんかよりもずっと色々な経験をしていることだろう。誰かと付き合った経験がない私が珍しいのだ、意識してしまうのは私だけ。それでも少し複雑な気持ちを抱きながら引き出しの中からネームプレートを取り出す。…と、ここまで来てようやくルーピンさんのデスクが昨日よりもすっきりしていることに気付く。代わりに床に置かれているいくつかの箱。不思議に思いそれらを眺めていると、何でもないことのようにルーピンさんは言った。 「僕も八月いっぱいで異動が決まったんだ」 「え?」 「ここも安定して来たからもう少し経験の浅い魔法使いでも大丈夫だろうってことになってね」 「…また、治安の悪い土地へ?」 「仕方ないよ」 苦笑いをして杖を一振りすると、本や書類が綺麗に箱に詰められて行く。それはもう手慣れたもので、彼の異動の多さも察することができた。…ちらりと、右の袖口から包帯が覗く。昨夜の仕事の際に負った怪我に違いない。昨夜少し見えただけでも、腕以外に他にもたくさんあったし出血も少なくはなかった。けれど今になって聞くなんて遅いのだ。なぜ私はもっと他者のことを見ることができないのだろう。自分に何かができるだなんて思ってはいない。だけど少なくとも私はルーピンさんに話を聞いてもらっただけで前向きになることができた。さみしいという気持ちを吐き出し、それを受け止めてくれたことは何よりも心強かった。だからルーピンさんも背負い込まずに感情をぶつける場所があれば、そんな悲しそうに笑うことなんてなくなるのではないか。そう思うことすら、私の独り善がりで傲慢な考えなのかも知れないけれど。 「そんな顔しなくても、さんの研修は最後まで僕が責任もって担当するよ。寂しがる暇なんてないくらい扱き使ってあげるから」 「さ、寂しいだなんて誰も言ってません!」 「はは、そっか」 私が寂しいのではないのだ。やっと馴染んだ、やっと打ち解けたと思った矢先、すぐに別の土地へ異動を命じられる。それはルーピンさんの仕事の特徴なんだということくらい、まだまだ子どもの私でも十分分かっている。仕方ないこと程、自分ではどうにもできないことだって分かっている。現実を享受しなければならない致し方ない事情、それを私が聞く筋合いなんてないけれど、本当は一番ルーピンさんが各地を転々としなければならない仕事を受け入れられないのではないだろうか。ある程度一定の場所に留まれば愛着も湧く、それはこの夏休みという短い期間ここにいた私だって同じなのだから。私よりもずっと長くここに居るルーピンさんは、離れがたい何かを感じているのではないだろうか。 だけどそれらの疑問のどれ一つ聞けないまま。そこから先は研修担当者と研修生の領域ではない。この人はこの人なりに割り切ってやっているのだろう。一つの場所に拘ってはいけないと、そう言い聞かせもして来たのだろう。もしかすると人生において大切な出会いもあったかも知れない、その土地だけでなく、離れがたい人も居たかも知れない。…全て私の憶測に過ぎないけれど、そういった様々なことを考えると私の方が感傷的になってしまった。 「さんがロンドンへ戻る日、一緒に戻るよ」 「ロンドンまでルーピンさんと…?」 「僕じゃ不満かな」 「まさか!」 めいいっぱい否定すると、おかしそうに笑うルーピンさん。こんな風に笑う人だったんだ、と今更になって思う。これまでもルーピンさんは私に優しくしてくれたことはあった。昨夜は除くとして、私の前ではいつだって笑顔だった。けれど改めて彼のことを分析してしまうのは、やはり昨日の出来事のせい。彼の弱い部分に僅かでも触れてしまったから。そんな私を柔らかく拒絶するのもまた、彼の得意なことなのだ。 「じゃあ仕事の準備でもしようか」 今度は仕事用の笑顔を貼りつけて私に声を掛ける。こんなことまで自然と見分けられるようになってしまった。もしかすると私は、もっと前から無意識下でルーピンさんを意識していたのかも知れない。 *** 研修の最終日は、意外とあっさりと終わった。研修期間中はルーピンさんにずっとくっついていた訳だし、他の役員さんとは休憩時間や帰宅時に少し関わる程度だったから当然と言えば当然だ。けれどメリンダさんは忙しい中ずっと私を気にかけてくれており、いつもあっさりしている彼女に「寂しくなるわね、また遊びに来ると良いよ」と言われた時には少し驚きもした。そしてメリンダさん一押しだというキャラメルビスケットを三箱も頂いてしまった。支部長は「荷物になるだろう」と苦笑いしていたが、研修中にすっかりメリンダさんに餌付けされてしまった私は、有り難くビスケットを頂いたのだった。 ワーズワース夫人は最終日にはとても豪華なディナーをしてくれ、幸せと美味しい食事で心まで満たされた。ワーズワース夫婦に「またいつでも遊びにおいで」「もう私たちの子ども同然なのだから」と涙ぐみながら言われたため、私もうっかりもらい泣きしてしまった。子どもたちが独立し、広くなった家。そこへ快く私を受け入れてくれた二人には感謝してもしつくせない。また時々ホグワーツから手紙を送ろうと思う。私もまた、こんな温かい家庭を経験したことがなく、最初は戸惑ったし擽ったかった。「行って来ます」「ただいま」というのもどこか気恥ずかしかった。けれどいつしか研修から帰ればそんな挨拶は当たり前となっており、私は十五年生きて初めて家族の温かさを知ったのだ。 これまでの夏休みで経験した滞在研修も勿論有意義なものだった。元来勉強が嫌いではない私は、研究中心の施設研修は充実していた。逆に今回のような研修は初めてで、それにも戸惑ったものだ。けれど研究や実験で得た成果以上に、今回は得たものが大きかった。ワーズワース夫妻、支部長、メリンダさん、…そしてルーピンさん。こんなにも人と関わる研修は初めてだ。なんて環境に恵まれた夏休みだったのだろう。 (夏休みの終わりが寂しいなんて初めて…) 本当は、夏休みに入る前に家族の元へ帰る学校の皆が羨ましかった。私には帰りたいと思う家がないから。だから研修に没頭して、早く学校が始まればいいとずっと思っていた。私は、夏休みというものがあまり好きではなかったのだ。それなのに今年はこんなにも寂しいだなんて。良いことも悪いことも、今年は“初めて”を幾つも幾つも経験した。充実しているのに、満足もしているのに、有意義だったのに、それでも寂しくて悲しいのはなぜだろう。 ふと隣に立つルーピンさんの顔を横目で見た。彼は私の予定に合わせ、ホグワーツに発つ前日に一緒にダイアゴン横丁まで来てくれ、更には私同様宿を取り一泊して行くのだと言う。新しい教科書などを揃えるのも付き合ってくれ、まさに「最後まで責任を持って担当」してくれているようだ。だからと言って、購入したものを持ってもらうのは余りにも甘え過ぎな気もするのだが、なぜかルーピンさんが持つと言って譲らなかったため、三分の一を持ってもらうことで互いに落ち着いたのだった。私よりもこの人に重いものを持たせたら潰れてしまいそうなのだが。 「何か失礼なこと考えてない?」 「いえ、何も…」 「さんは顔に出るね」 「そ…んなに分かりやすいですか…」 「うん、とても」 今日は仕事用の笑顔じゃない。余りにも柔らかく笑いながら私を見るものだから、気恥ずかしくなって俯き、口を噤む。顔が熱いのは自分でも分かった。そんなに分かりやすいのなら、もうこの人は私が憧れ以上のきもちをこの人に抱いていることも気付いているのだろう。知りながら敢えて核心に触れず、こうしてぎりぎりの話をする大人は随分と狡い生き物だと思う。そうして私には肝心の気持ちを伝える隙すら与えてはくれないのだ。…そんな私の小さな葛藤など知るはずもないルーピンさんは、教科書の背表紙を見ながら「懐かしいなあ」と零す。 「あ、君の苦手な呪文学も新しい教科書だね。闇の魔術に対する防衛術もかな」 「言わないで下さい…今から不安なんです…」 「使わないで済む世界ならいいんだけどね。どこかの研究員になるにしてもある程度使いこなせないと」 「でも魔法薬学も呪文学も防衛術も、なんてそんな天才みたいなこと…あ、魔法薬学や魔法生物飼育学は好きなんですけど」 「スネイプ先生なんかはこなしているんじゃないか?」 「教師と生徒を一緒にしないで下さい…!……え、スネイプ先生?」 「彼とは同期なんだ」 言われて魔法薬学の教師を思い浮かべてみる。「へ、へえ…同期…」スネイプ先生の威厳や落ち着き具合から、まさかルーピンさんと同級生だとは思わなかった。スネイプ先生の方が先輩のように思えるのだ。まだ妙にどきどきしていると、「さんって本当に素直だね」と笑われてしまった。ああ、また見透かされてしまった。 そうして他愛のない会話をしながら宿へと戻る。ルーピンさんに預けていた教科書類も全て受け取ると、夕食の約束をして一旦別れた。私は部屋に入るとベッドに腰掛け、早速新しい教科書をぱらぱらと捲ってみると、新品独特の香りが鼻をついた。斜め読みをして見るけれど、全くもって集中できない。例年であれば新しい教科書は心の踊るものなのだが、他に考えてしまうことがあるからか、集中力散漫だ。 (…他のこと……) 割り切って教科書を全てトランクに詰める。代わりに取り出したのは便箋と羽根ペン。部屋にある机に向かうと、私は羽根ペンの先にインクを浸して便箋に文字を綴る。ルーピンさんへ―――緊張を落ち着けるように深呼吸をし、まずは一気にそうペンを走らせた。 |