時折ルーピンさんは、酷く疲弊していた。それでも私を見ればにこりと笑って残酷なほどの仕事を言い渡す。だから見て見ぬふりをしていたのかも知れない。家でも仕事をしているのだろう、仕事が大変なのだろう―――けれどその仕事がまさか、こんな仕事だなんて誰が想像できよう。あのにこやかな青年である彼が、まさかこんな危険な仕事を請け負っているなんて、しかもその仕事こそが彼の本業だなんて、その現場を見るまで信じることなどできないだろう。


「…さん」
「あ、す、すみません!」


 暫く彼を抱き締めていたものの、名前を呼ばれてはっとする。今の私の行動に下心なんてものは一切なかったが、それでも彼から見れば十も年下の小娘であろう人間が生意気なことをしてしまった。慌てて体を引き剥がすと、急に恥ずかしさでいっぱいになる。「か、帰ります!」なぜか口から飛び出したのはそんな言葉で、勢いよく立ち上がれば両膝に鋭い痛みが走った。…膝立ちでルーピンさんを抱き締めたため、どうやら地面で擦り剥いたらしかった。蹲るほどではないが、予期せぬ痛みに思わず少しだけ膝が折れると、ルーピンさんは困ったように笑った。


「そのまま動かないで。…エピスキー」
「あ…りがとう、ございます」
「…生き物を処分したのと同じ杖でこんなこと、気持ち悪いかな」
「っそんなことない!」


 自虐的な笑みを浮かべるルーピンさん。気持ち悪いだなんて、そんなこと一瞬でも思わない。この人はどこまで自分を蔑めば気が済むのだろう。

 この世にはどうにもならないことがある。およそ、自らの努力ではどうすることもできないことだ。例えば私は、フォーガスの娘であることも、フォーガスの起こした事件が語り継がれてしまうことも、私の力では止めることも変えることもできない。きっとそれと同じだ。いや、それよりも深刻なのかも知れない。けれど、私の研修先に彼のいるこの支部を、そして彼を研修担当に選んだのはダンブルドア校長とマクゴナガル先生なのだと言うから、ルーピンさんがこのような仕事で生活をしている―――しなければならないことには、きっと事情があるはずだ。

 この仕事をしていることに口を挟むつもりは毛頭ない。私にはそんな筋合いはないのだから。けれど、彼が自分をこんなにも蔑み、自嘲する姿は許せなかった。何だかんだ研修ではよくお世話になっているし、最初の土曜日に熱を出した時だって、あんなにも親身になって話を聞いてくれた。それに今だって、ルーピンさんがいなければ私は命を落とす所だったのだ。感謝こそすれ、どうして彼を軽蔑しよう。…「少し話そうか」と言うとようやく彼は立ち上がり、徐に空を見上げた。


「個人的な事情で、まともな仕事には就けないんだ。職場も転々としてるし、短い時には一か月ともたない時もあった。ホグワーツを卒業してからずっとね」
「ずっと……」
「仕方ないんだ、どうすることもできない。最初こそ自分でも思いの外落ち込んだけれど、それももう慣れだよ。ここはもう一年だし、そろそろ異動になると思う」


 分かる気がした。どこへ行っても風潮が私たち母娘を追い込んだ。だから家を転々としなければならず、母が決して声を大にして言えないような仕事についていたことも幼いながらに分かっていた。その土地に馴染んだと思っても、馴染んだ傍から噂と言うのは立つものだ。だから結局、一つの場所に留まることができず、もうこれで終わりにしようと“最後の家”に選んだ場所は、周りに民家の一つもない場所。そうして世間から孤立して行き、切り離されて行く。いつの間にか消えていた所で、誰も気付きやしないのだ。そうしてルーピンさんも、ホグワーツ卒業後ひっそりと生きて来たのだろうか。


「不幸だとは思わないのですか」
「不運だとは思うけどね」
「…何となく、分かります」
「ありがとう」


 どこか寂しそうだった横顔がこちらを向き、小さく笑う。核心を突くような話は出ないが、それでもこうして彼が自分のことを話してくれるだけで嬉しかった。嬉しかった、というのは少し違うだろうか。意外、そう表現する方がきっと正しい。するりと何でも上手くかわす彼が、こんな風に私に彼の事実を伝えてくれるとは思わなかったのだ。今日は思いがけない出来事が多い。けれど私は動揺も困惑せず、ただ静かな気持ちて聞いていた。意外だが、驚愕だとか怯えといった気持ちは浮かんで来ない。それどころか、まだ輪郭のおぼろげな話を聞いただけなのに、どうにかして私が彼を受け入れたいと、そう願い始めている。…それこそ生意気な話だ。

 何かついていたのか、不意に私の頭に手を伸ばそうとするルーピンさん。けれどそれは触れるか否かという距離で引っ込められてしまった。「触って下さい」その手が汚れているなんて、私は思わない。そんな私の言葉に目を丸くし、壊れものに触れるようにそっと指先が髪に触れる。


「葉っぱがついてた」
「ありがとうございます」
「君は不思議な子だね。怯えも気味悪がりもしない」
「だって理由がありません。ルーピンさんは優しい人です。それに…」
「それに?」


 言いかけて止める、その言葉をルーピンさんは繰り返した。似ていますから―――そう言おうとしたのだ。けれどやっぱり言えなくて口を噤む。そこでまた「違う」と拒まれれば流石の私もショックだ。仲間が欲しい訳じゃない、同情し合える誰かが欲しいわけでも、傷を舐め合いたい訳でもない。私が望むのはそんな薄っぺらいものではないのだ。ただ何か通じるものがあると、出会うべくして出会ったのではないかと、そういう運命的なものを感じている。不謹慎だろうが、そう思うのだ。

 一人で抱え込むのは苦しいことだと、そう私に指摘したのはルーピンさんではないか。その張本人がこれだけ一人で抱え込むなんて、私は我慢ならない。「たかだか十六の小娘が」と思われても、頼りなくても、誰にも吐露することのできない心の内を知りたい。近付きたいし、踏み込みたいと思ってしまう。彼があの日、私にしてくれたように。だって彼が踏み込んでくれたお陰で私はようやく気付けたのだ、一人は寂しい、と。…意を決して、ずっと押し込めていた気持ちを告げる。


「やっぱり似ています、私とルーピンさんは」
「…まだ言うかな、君は」
「困りますか?」
「そういう訳じゃない。だが、さんは僕よりずっと綺麗だ。君のその手が汚れている訳じゃない、僕と違ってね」
「そうやって、誰かを遠ざけるのは寂しいです」


 ぽつりと、もう殆ど聞こえないような声で呟く。だがしっかりルーピンさんの耳には入っていたようで、「君は優しいね」と言いながら、けれど困ったように笑った。この数週間、彼と関わって分かったことがある。返答に困った時、この人はこういう笑い方をする。ぼかすように、誤魔化すようにだ。…ああ、また拒まれた。ルーピンさんを見つめていた視線を、ゆっくりと地面へと落として行く。やっぱり私の言葉なんて一つも響いたりしないのだ。仕方ない、けれど寂しい。

 そう諦めかけた時、突然身体を引き寄せられる。ルーピンさんの腕が、私を引き寄せたのだ。さっきの私とは違う、力強いそれに一瞬何が起こったのか分からなくなる。後頭部と背中をぐっと支えられて、まるで彼の身体に押し付けられているかのよう。「ありがとう」耳元でそう囁かれる。掠れた声で、それは鼓膜を優しく震わせた。そこでようやく我に返り、止めていた呼吸が再開する。


「もう少し…もう少しだけ」
「は、い……」


 何を思ってルーピンさんがこんなことをしたのかは分からない。考えても考えても答えは出ないのだろう。私はもう難しいことは考えず、恐る恐るルーピンさんの背中に手を回す。服が汚れようが手が汚れようが構わない。気持ちだけは誰にも汚しようがないのだから。ルーピンさんだってそう、こんなにも弱々しい姿を見せたり、切ない声で縋ったりしているのに、どこが汚れていると言うのだろう。…今、この人がどんな表情をしているかは知れない。彼の肩越しに私は、欠けたる所のない丸におよそ近い月を見ていた。






   



(やっぱり、離せない)







 

(2011/9/23)