ルーピンさんが柔らかく拒絶を示すその訳を知ったのは、突然だった。



 研修は何事もなく進み、長い長い夏休みも、とうとうあと一週間。ホグワーツへ向かう前日にはロンドンに入り、ダイアゴン横丁で一泊する予定なので、実質ここにいるのはあと六日。カレンダーを見て小さく息をつく。…ルーピンさんには、日増しに惹かれて行った。最早、あの微妙なラインを引き続ける姿勢も含め、どうしようもなく大きな存在となってしまったのだ。無視することも誤魔化すこともできない気持ち。初めて抱いた他者への恋情に、最初は戸惑った、掻き消そうとした。それも無駄だと気付いてからは、幸と不幸の波に呑まれに呑まれた。ルーピンさんの言動に一喜一憂だ、恋というのは忙しい。

 時に充実感を味わいながら、けれど拭い去れない虚無感を抱えながら、私はこの研修期間中に彼を見つめ続けた。決して触れ合うことのない手と手、けれど呼べば振りむいてくれる、そんな些細なことに私は小さな満足感を見出していた。それはいつも痛みを伴うものではあったけれど、意地悪やからかいの中に時折忍ばせる優しさで、心のひび割れた部分を少しずつ治して行くようにした。


(最初から分かっていたことじゃない…)


 この夏休みだけの関係。それが終わればもう、連絡だって取ることはないのだ。理由がない、口実がない、だって私はただの研修生でまだほんの十六歳。彼から見れば十分子どもなのだ。恋愛に年齢は関係ないと言ったのはどこの誰だ。関係あるじゃないか。だって、年齢差だけでこんなにも彼が遠い。そこへ何か想像もつかない秘密があるとなれば、もう踏み込める領域ではないのだ。それでもなお、近付きたいと願ってしまうのは致し方ないにしても、愚か極まりないのだろう。

 部屋の中では息が詰まる。生憎まだシャワーもまだだし、少し外の空気を吸いに行こう。ベッドに腰掛けていた私は立ち上がり、何も持たずに部屋を出る。…そこで、そう言えばここへ来てすぐに夜間は出歩かない方がいいと言われたことを思い出す。しかしこの家の周囲だけだ。さほど遠くへ行く訳でもないし大丈夫だろう。この辺はそう距離もおかずに民家もある訳だし、何かあれば飛び込んで行けばいい。が、念のために杖を持って行くことにした。


(…空気が生温い)


 降って来るような星空を見ながら、ぼんやりと浮かんだのはそんな言葉だった。「綺麗」でも「すごい」でもなく、空気が生温い。感傷的になってしまっている今の私では、感動を口にすることはできないらしい。誰かを恋慕う感情に振り回される、それは自分の気持ちの手綱を握れないのも同じだった。コントロールできない恋心は、他の感情までも巻き添えにする。モチベーション、表情、言葉、それら全てに影響を及ぼすのだ。

 低い柵に囲われたワーズワース家の庭を出れば、僻地支部に続く一本道が延びている。田舎らしく適度に舗装され、適度に野草の茂っている道は、母と過ごした“最後の家”のあった村を彷彿とさせた。ゆっくりと歩き出せば、ビルにも何にも邪魔されない風が私の髪の間も通り抜けて行く。肩まで伸びた髪は、頬を叩いて視界の邪魔をした。…一人で歩くと、いろんなことを考えてしまう。ルーピンさんのことは勿論だけど、これからの私の進路についてもだ。私のことを知っている人は知っている。だから、表立った所への就職は難しい。やはりここのような僻地しかないか―――。

 その時、そんな髪の隙間から、少し遠くに黒い影が見えた。夜目には分からないそれに、思わず背中がぞっとした。耳を澄ましてもその影からは何の声も聞こえない。どうやら、私は思ったよりもワーズワース家から離れてしまったらしく、今や家の明かりが遠い。「…そうそう、さん。夜は出歩かないように気を付けること、いいね?」―――そんなルーピンさんの声が今更になって頭の中に響く。まずい、もう遅い。背中を嫌な汗が伝い、けれど顔からは血の気が引く。私が後退する度に近付いて来る得体の知れないそれに恐怖は増すばかり。声を上げることもできず、今にももつれそうな足では走り出すことすらできない。


(どうしようどうしようどうしよう)


 ルーピンさんの忠告をもっと真面目に受け止めておくべきだった。ここで私は命を落とすのだろうか。決して幸せなばかりの人生じゃなかったけれど、十六年は短すぎやしないか。明るい希望のある将来が約束されている訳でもないが、それでも小さいながらやり残したことがあるというのに。いくら私が世間から嫌われる素性の者でも、はいそうですかと命を投げ出せるということではないのだ。

 黒い影がにじり寄る、後ずさる足も竦んで動かない。どうしよう、どうすればいい、杖はあるけれど何の呪文も浮かんで来ない。息が詰まる、呼吸ができない、心臓がうるさい、助けて、誰か助けて―――影が私に触れるか否かという瞬間、


さん動かないで!」


 そう、ルーピンさんの声と共に眩い閃光が走り、思わずぎゅっと目を瞑る。ごう、と突風が吹いたかと思えばすぐに静まり返り、さっきまでの嫌な空気は一掃された。そしてそっと目を開けると、ルーピンさんが追い打ちをかけるように影に向かってさっきと同様の閃光を放つ。するとそれはすぐに退散したらしく、そこにはまた元のようにただ支部へ続く道だけが続いているだけとなった。脱力してへなへなとその場に座り込んでしまうと、ルーピンさんは振り返って私を見た。その目はまるで射るかのように鋭く、見たことのない彼の厳しい表情に私はまた竦んだ。そして低い声で私を咎める。


「夜は出歩かないようにって言ったはずだ。何があるか分からないから出歩かないようにと。聞いていなかったかい?」
「聞、いて…ました…」
「ではなぜ出歩いたんだ!」
「……っきゃ、」


 私の肩を強く掴み、らしくもない、殆ど感情任せにルーピンさんは叫んでいるようだった。血走ったような目に私は恐怖を覚える。よく見るとルーピンさんの服はあちこち破けており、所々に血のようなシミがついていることが、暗順応した私の目では分かってしまった。そして恐らく、彼自身も怪我を負っている。返り血だけではないだろう。

 一体何をしているというの。…ルーピンさんに睨まれながらも、私の頭はそんなことを考えていた。破れた服、返り血、夜で歩いてはいけない町、非正規採用―――ぽつりぽつりとこれまで得ていた情報が繋がって行く。ぼんやりとした輪郭がはっきりとしたその時、一つの結論へと辿り着く。簡単には答えを貰えないことは分かっていつつ、恐る恐る私は尋ねた。「ルーピンさんこそ、一体何を…?」寒いわけではないのに声が震える。こんな状況下でよく質問し返せたものだと、意外な自分の勇気に感心する。


「この辺は夜活発に活動する危険な生物が多い」
「はい…」
「今はまだましだ、けれど僕がここに来たばかりの頃は生活に支障を来すほど酷かった。それこそ住民にも手に負えないような生物もいる」


 そう言えば授業でも習った。訓練された魔法使いや魔女でないと危険な生物もいると。街中で遭遇することはないが、こういった田舎や森の中には多く生息しているのだ。けれど中には一人で対処するには難しい生物がいたり、とても危険な仕事だと聞いている。母が家に残した書物の中にもそういった危険生物が多く書かれていた。人間を狙う生物もいる、よって命を落とす者もいる。あまり好まれる職ではない上、然程良い見返りがある訳でもないとも聞いた。まさにハイリスクローリターンと言う言葉がぴったりではないか。そんな仕事を彼はしているというのだろうか。


「いつだったか、僕は支部の正規採用ではないと言った。つまり、そういうことだ」
「危険生物の、処分…」
「誰もやりたがらない、けれどやるしかない。僕の生活を繋ぐためにはね。分かっただろう、僕はこういうやつだ」


 でも、それが何だと言うの、私には分からないわ。…そんな言葉をぐっと飲み込む。あまりにもルーピンさんが自分を軽蔑するような表情だったからだ。知っている、私はその表情を知っている、そんな表情をしてしまう気持ちも知っている。どれもこれも、私がそうだからだ。自分には何の価値もないと自嘲する笑み。こうなっても仕方ないのだと諦めの色ばかりが染みついて消えてくれない毎日。けれどそれは違う、それを気付かせてくれたのはルーピンさんなのに。私は私、フォーガスは関係ないのだと言ってくれた。他の誰でもない、という人間だけを見てくれた。あのたった一言で、これまでどうやっても剥がれなかった自分への軽蔑の心が静まって言ったというのに、彼はそれを自分に言ってあげることはできないのだろうか。それもまた、「君と僕は違う」なんて言葉で片付けてしまうのだろうか。


「分かったなら早く―――」


 そんなの、悲しい。私はルーピンさんに手を伸ばした。すると彼の服に付着した何かの生物の血の匂いが鼻をつく。それは決して気分のいいものではなかったけれど、そんなことどうでもよかった。このままこの人を一人で返してはいけない気がしたのだ。出来る限りの力で彼を抱き締める。そこには私がこの人に惹かれているからなんて理由は存在しなかった。本能的にそうしなければいけないと思った。泣いてなどいないのに、まるで泣いているようだったから。その声も、表情も、全てが泣いているかのように見えた。私の思い込みかも知れない、素直にそれを言ってしまえば笑われるかもしれない。それこそ冷たく突き放されたり、馬鹿にされるかも知れない。

 けれど、私の直感は当たる。だから思った通りだったのかも知れない。「君も汚れるよ」そうは言ったものの、やろうと思えばできるはずなのに私を引き剥がそうとしない。「汚れても構いません」と返せば、ルーピンさんは小さく笑ったようで、耳にかかった吐息が擽ったかった。






   



(だって、どうすればよかったの)







 

(2011/9/23)