泣き止んだ私は、想像以上に困惑していた。熱でどうかしていたとは言え、信じられない言葉と共に、勢いに任せてとんでもないカミングアウトをしてしまった。それなのにルーピンさんは避難も何もせず、それどころか私の手は綺麗だなどと言う。それら全てが嬉しくて、恥ずかしくて、なかなか顔を上げられずにいる。ルーピンさんもまた、私の肩を抱き寄せたまま何も言わずに居てくれるのだ。これでは離れようにも離れられない。…そこまで考えた所で、私は今更大事なことに気がついた。なぜ、ルーピンさんがワーズワースさんの家にいるのか。近所だとは聞いていたけれど、ワーズワース夫妻の口から彼が来るだなんて一言も聞いていないし、彼の名前が会話に出たこともなかった。すると、まるで心を読んだかのようにルーピンさんが「ワーズワースさんなら君のために薬を貰いに行ったよ」と言う。そっと離れて表情を窺えば、彼はいつも通りに笑みを浮かべていた。


「薬……」
「ワーズワースさんが家を出る時に偶然会ってね、君を頼むと言われたんだ。そろそろ帰って来る頃じゃないかな」
「そ、う…ですか……」
「そういう訳だから、僕もそろそろ帰ることにするよ。…それとも、もう少し居て欲しい?」
「……はい」


 彼が冗談で聞いたことは分かっていた。彼もまた、「大丈夫です」と私が言うと思っていたのだろう。けれど、少し躊躇いがちに「はい」なんて返事をした私を、彼は驚いた様子で見る。それもそうだ、いつもならからかわれる度に「そんなことない」と反論して来ただけに、予想外の返答だったのだろう。私もまた、自分で返事をした癖に驚いていた。


「あ、あの、嘘です、ごめんなさい、ルーピンさんも忙しいでしょうし大丈夫です」
「いや、でも…」
「大丈夫です、本当に、大丈夫…」
「本当に大丈夫な子はそんな顔しないよね」


 あやすように私の髪をくしゃりと撫でる。それは昨日の帰り道のように。…こんなにも惜しみない優しさを、私は知らない。偽善なら何度も味わったことがある。けれど、彼からはそんなものが微塵にも感じられなくて余計困惑する。どうして彼が研修の外でここまでしてくれるのか、私には分からない。あの僻地支部内ではまだ分かる、研修生担当なのだから面倒を見るのは仕事の内だ。今は違う。研修外なのだから、私の体調なんて、プライベートなことなんて放っておけばいいのだ。それなのにどうして、ここまで裏のない優しさを人に注ぐことができるのだろう。

 髪を撫でその毛先まで指を通す―――まるで髪を愛でるような指先に、胸が締め付けられる感覚を覚えた。全てを見透かすような目から視線が離せない。そのまま固定されてしまったかのようだ。ルーピンさんもまた、決して目を逸らそうとせず、じっと私を見つめた。髪に触れていた手が肩へ、腕を辿って最終的にまた手へと辿り着く。


「ルーピンさんだって、大丈夫じゃないでしょう?」
「君と僕は違うと言ったはずだよ」
「………………」


 そのやり方は私にそっくりだった。じわじわと近付きながら、でもある一定のラインを引く。膜のように薄く、透明で、でも確かに作られた隔壁を築くのだ。誰も入って来られないように、踏み込めないように、けれどこちらからは踏み込みながら。卑怯だと分かっていながらも、そんな風にしか人付き合いができない自分、そしてルーピンさん。ただ、彼よりも私の方がガードを緩めてしまったから、彼がより私の中に踏み込みやすかっただけ。彼のガードは何も変わっちゃいない。魔法なんかじゃ消せやしない目に見えない隔壁。

 きっと私は一方的なシンパシーを感じていた。私と共通することがあるのではないか、分かり合える部分があるのではないか、…私と近い人なのではないか。しかしそれはいとも簡単に悉く打ち砕かれる。柔らかい声音で、けれど突き放すかのようにきっぱりと言い切った、「君と僕は違う」と。その一言にずきりと胸が痛む。近付いたようで離れたままなのだと、それは私に気付かせたに他ならなかった。




***




 土曜日曜としっかり休養を取り、月曜の朝にはすっかり体調もよくなっていた。休養と、あのとんでもない味の薬のお陰だろう。シロップタイプの薬は見た目からして怪しげな色をしていたが、薬の入った小瓶の蓋を開ければまた鼻を刺すようなにおいがし、口に含めば涙が出、噎せ込むほどに酷い味だった。良薬口に苦しとはよく言ったもので、その薬を朝昼晩と飲むごとに体は軽くなるかのように良くなったのだが、できることならもう二度とあの薬のお世話にはなりたくないと思った。忘れたくても忘れられない味とはあれのことを言うのだろう。どれだけ水を飲んだところで暫く消えない後味に、これはなんの拷問かと思ってしまったほどだ。

 そんな薬との闘いもあり、今日はまたこうして僻地支部に研修にやって来ることができた。ルーピンさんとの間にあったことを考えると来づらい所もあったが、それはそれ、これはこれだ。割り切ってしっかり研修を受けなければ(これが研修と言えるかどうかは別として)。


「…お、おはようございます」
「おはよう、体調はもう良いみたいだね。随分顔色が良い」
「ええ、お陰さまですっかり…」
「どうかしたかい?」
「……いいえ」


 私よりルーピンさんの顔色の方がどこか悪く見えた。一昨日見た時とは明らかに違う。まるで徹夜でもしたかのように目に元気がない。けれど、それを追求したい気持ちをぐっと抑えて言葉を呑み込む。彼の返事は決まって一つ、「大丈夫、君が気にする必要はない」だろう。彼は大人、自分のことは自分でやってのけるのだ、まだ未成年―――子どもである自分とは違って。…自虐に皮肉、それは彼に近付きたい、けれど近付けないという私の中のもどかしさから形成されているものだと、私は理解していた。


(……近付きたい?)


 何を、何を馬鹿なことを。少し優しくされたくらいで思い上がってはいけない。あの優しさは彼の元々の性格と、大人としての責任と、研修担当者としての義務だ。それ以外の何物でもない、勘違いしてはいけない。ただ舞い上がっているだけだ、あんな風に無償の優しさを与えられたことなど数えるほどしかない。だからほんの少し、幸せを感じてしまっただけ、たったそれだけ。だって、そうでなければこんな指の隙間からすり抜けて行くような心を持っている人を追いかけるのはただただ辛い。手に入らないものを掴もうとするのは想像以上に苦しい。

 解錠呪文で開く扉のように、人の心は簡単ではない。私より十年、固く扉を閉ざして来た彼の心は簡単ではないのだ。深入りしてはいけない、知ろうだなんて思ってはいけない、近付きたいだなんて、触れたいだなんて思ってはいけない。分かっている、分かっているのに。


「ルーピンさん」
「なんだい?」
「手のひらを出して下さい」
「こうかい?」
「はい」


 私は鞄の中から小さなチョコレートの包みを四つ取り出し、右手に軽く握り締めた。右の手のひらを上に向け、差し出したルーピンさんは不思議そうな顔をしている。そんな彼の手のひらに、ばらばらと四つのチョコレートを落とす。夏休みに入る前、最後にホグズミードへ行った時に買ったものだ。アイスチョコレートドリンクを自分で作るくらいだから、甘いものが嫌いと言うことはないだろう。それに、この間ちらりと見えた彼の引き出しの中に板チョコが入っていたことを私は知っている。だからと言って、このチョコレートを彼に渡すために持って来たわけではない、ただの思いつきだ。


「足りないかも知れないけど、土曜日のお礼です。美味しいですし、元気になると思います」
「ありがとうさん、このチョコレート好きなんだ」
「それは、良かったです」


 何の思惑も疑いもない笑みを向けられ、またずきりずきりと胸が痛む。私は痛みも何も悟られないように、極力いつもと変わらない笑みを作って返す。


「じゃあ今日もよろしくね」
「病み上がりなので手加減よろしくお願いします」
「そうだね、がんばるよ」


 何もかも理解できているのに、どんどんと心がこの人に引っ張られて行くことは、私の力ではどうすることもできなかった。






   



(もう、どうしようもない)







 

(2011/9/20)