目を覚ませば、本当にそこにはルーピンさんが居てくれた。私の手を握りながら、目線は小さな本へと注がれている。宙に浮いた本は、手を使わずともゆっくりとページがめくられて行く。しかし、私が目を覚ましたことに気付くと、ルーピンさんは読書を止めて私に向き直った。「気分はどうだい」「少し落ち着きました」夢も見ないほど深い眠りについていた私は、どうしようもなく安心感を覚える。ほっとして手を緩めるが、逆に彼に握り返されてしまった。不思議に思って彼の表情を窺えば、珍しく真剣な表情をして私を見ていた。一瞬、私は呼吸を忘れ、彼の瞳に吸い込まれそうになる。 「あ、あの、」 「魘されていたけど、本当に大丈夫?」 「今は何ともありませんけど…」 「…そう。それならいいんだ」 またいつものように微笑み、するりと私の手を離す。それを少し惜しいと思いながら、離れて行く手を、そして久しぶりに外気に触れた自分の手を交互に見遣った。…しかし、言われてみれば確かに顔も体も、握られていた手も汗でべっとりしている。それは、熱のせいで汗をかいたというにはあまりに発汗量が多い。ここまで汗をかくほどの熱も出ていないのだ。せいぜい微熱の少し上程度だろう。ずっとここにいてくれたルーピンさんがこんなにも深刻そうに言うのだから、魘されていたというのは本当なのだろう。だとすれば、一体何に対して魘されていたと言うのだろうか。眠りの中で見た夢も何も覚えていない。それを思い出す術などないのだから、答えは永久に闇の中と言うことか。 けれど、何となく見当はついた。昔からそうだ、私が悩まされることと言えばたった一つ。夢の中でさえそれに追われ、休まることのない時期だってあった。そんな夢を今更見るなんて、本当に今年の夏はどうしたことか。ぐっと深く眠ったことで少しすっきりしたけれど、逆に心に靄がかかったようだ。頭が痛い訳ではないが、奥で何かがガンガンと鳴って止まない。煩わしくて額に手背を宛がえば、やはり汗でじっとりとしていた。そんな私に彼はぽつりと零した。 「フォーガスって、誰だい?」 「え………」 「魘されながら何度か口にしていたよ」 彼の口から飛び出した名前に、今度こそ私は呼吸を忘れた。呼吸だけでなく瞬きも忘れ、思考も全てまるで時間を止められたかのように停止する。首を彼の方へ巡らせることすらできず、ただその名前を何度も何度も頭の中で繰り返した。…その名を持つ男こそが、私を今も尚縛りつける人物だ。もう二度と生きて会うことはないが、それでも私を、母を長年苦しめた人物。彼により人生は狂わされ、私の心には歪が生じている。人との間に見えない壁を作ってしまうことも、さみしいと泣き叫ぶ心も、原点はそこだ。ずっと誰にも、友人にすら言うことができなかったそれは、真新しい羊皮紙にインクを零したかのように真っ黒で、消すこともなかったことにすることもできない。 このまま全て打ち明けてしまいたい―――いやそんなことをしてはならない。この人ならきっと大丈夫だ受け入れてくれる―――いやそんなはずがない。過去、私たち母娘を遠ざけ、忌み嫌った者たちと同じように、まるで“そこにいないもの”のように振る舞うようになるかも知れない。様々な相反する気持ちが巡り巡る。信じたい、信じられない、知って欲しい、知って欲しくない。そうやってこれまでも、全て後者を選んで来た。ああ、だから希薄な人間関係しか築けなかったのではないか。けれど、もう十何年とそうやって生きて来た、今更そう簡単に人を信じられるはずがなかった。 (嘘、本当は信じたい癖に) だからさっき、眠る前だってあんな風に泣いてしまったのではないか。そんな私を見ても、ルーピンさんは笑わないでいてくれた。それどころか、「さみしくないよ」と言ってずっと手を握っていてくれた。せっかくの休日の半分を潰すことになってしまったと言うのに、嫌な顔一つせず、私を心配してくれた。普段あれだけ多くの仕事を支持したり、からかったり、時に意地悪を言ったりしたりする彼と同一人物だとは、俄かに信じがたい。けれど間違いなくこの人はルーピンさんで、彼の日頃の私への関わり方の底辺には、決して単にからかってやろうという気持ちだけではないことも、私はまた感じとっていた。そして、どこか私と同じ空気を持っている―――笑みの下に多くのものを隠している。だから一瞬でも「大丈夫なのではないか」と思ったのだろう。 緊張で口の中がカラカラに渇いている。ルーピンさんはと言えば、まだ問いの答えを待っているようで、再び僅かにその視線に鋭さを滲ませてこちらを見ていた。ゆっくりとまだ気だるい身体を腕の力だけを支えに起こす。ごくりと、生唾を飲み込んだ。目は合わせないまま俯いて、殆ど聞こえないような掠れた声で自分からは決して言うことのなかった事実を紡ぎ出す。 「私の、父です。アズカバンに収監、されてる…」 「……そうか」 静かに相槌を打つルーピンさん。その眼は忌避するでも、同情するでもなく、ただ凪いだ水面のように静かだ。まるで、一切の感情を取り払ったような、けれど決して冷たい訳ではない。窺うように彼の表情を確認してみた所で、声に違わずその表情もまた、静か。 私はどんな言葉が欲しかったのだろう。何を期待して、どうして欲しかったのだろう。これまでに私と母を邪険に扱った人たちみたいに、汚いものでも見るような目をして欲しかった?同情の眼差しを向けて欲しかった?偉かったね、がんばったね、よく耐えたね、と言って欲しかった?酷い言葉を並べて罵って欲しかった?…恐らくその答えは一つではない。何の反応も返って来ないことを、何よりも恐れていた。何の興味も関心も持たず、何もなかったかのようにされることが、何よりの恐怖だと言うことを私は知っている。だから、「そうか」とただそれきり言葉を発さず、表情も変えないルーピンさんに、私の中のドロドロとした黒い感情が一気に溢れ出す。 「私は犯罪者の娘です」 「狂った犯罪者の娘です」 「その血を引いた私が狂わないとは限らない」 「誰かを呪うかも知れない、誰かを殺すかも知れない」 「ルーピンさん、貴方だっていつ私に殺されてもおかしくない!」 息をする隙すら与えまいとでも言うように、矢継ぎ早に言葉を並べた。最後はもう、悲鳴同然の声だった。 私は何を望んでいた?再度、自分に問いかける。いつもは笑顔で私を信用して接してくれる友人たちも、後輩も、私の素性を知ればどうなるか。忌み嫌われるに違いない、孤立するに違いない、結局どこへ行っても私は弾き飛ばされるのだと、そう高を括っていた。諦めていたのだ。こういう生まれなのだから仕方がないと、諦めていた。いつ、自分が隠れた狂気に内側から蝕まれるか分からない、そんな恐怖に怯えながら。本当に怖かったのは周りの目だけじゃない、自分も将来罪を犯し、収監されるような人間になるのではないか―――それこそに恐怖していた。犯罪者の子は所詮犯罪者の子、何かすれば「フォーガスの娘だから」と噂される。どれだけ普段良い子で大人しくしていても、ほんの少し間違っただけで冷たい視線に取って代わる。そうしていつからか私は私自身に見切りをつけていた。嫌われようと、風当たりが冷たかろうと仕方がない、だって私はフォーガスの娘だから、と。 眠る前とは比にならないような量の涙が、堰を切ったかのように流れ出た。悲しいのかも、さみしいのかも、苦しいのかも、悔しいのかも分からない。ただ、感情と言う感情が綯い交ぜになり、溢れて行く。思えば、物心ついた頃から今まで、こんなにも感情を吐き出したことなどあっただろうか。こんなにも声を上げて何かを訴えたことなどあっただろうか。答えは「ない」だ。だからこの高ぶった感情の収め方も、涙の止め方も分からない。そんな私にルーピンさんは動揺するでも困惑するでもなく、変わらず静かな声で言った。 「君は・だ」 「は……」 「君は誰も殺さないし、僕も君には殺されない」 「そんなこと…なんでそんなに…」 「自信持って言えるかって?君の手がこんなにも綺麗だからだよ。君は僕とは違う」 私の右手をそっと握り、宥めるように、言い聞かせるように言葉を紡いで行く。それは余りに不確かで頼りなもの。それなのに、深く深く、痛みを残さず私に突き刺さった気がした。これまでもらったどんな言葉よりも鋭く、深く、それなのに血の一滴も流さないような優しい言葉。心の内を土足で荒らす訳ではなく、素足でそっと分け入るような、そんな声。私よりいくつも年を重ねた彼の手は大きく、骨ばっていて、そしてまだ治りきっていない引っかき傷のようなものが見え隠れする。 この人も、あらゆるものを背負って来たのだと、その時確信する。きっと私なんかでは想像もできないような過酷な過去があるのだろう。私の血筋のことなんて、彼からすれば些末なことかも知れない。けれど今確かに感じる彼の体温を、優しさと言わずに何と言おう。こんなにも柔らかく温かい感情を、私は受け取ったことがない。 そのことに少し戸惑いながら、身体ごと彼に委ねて声を上げて泣いた。 |