ステイ先のワーズワース家は旦那さんと奥さんの二人暮らしである。子どもは三人いたそうだが、既に独立しているため私の滞在も快く引き受けて下さった。寝泊まりさせてもらっている長女さんの部屋は、時折帰省するらしく綺麗に片付けられており、棚が埃を被っている様子もない。この家の子どもたちは大切に育てられて来たのだということが、部屋の具合一つとるだけでよく分かる。

 元々世話好きなのだというワーズワース夫人には研修先で食べる昼食を作ってもらったり、洗濯までしてもらっているのだが、今日はまた一つお世話になることになってしまった。せっかく初めての休日だというのに、不運にも熱を出してしまったのだ。


「きっと疲れが溜まったのね、心配することはないわ」
「すみません…」
が謝る必要ないわよ。今日はゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます」


 疲れて熱を出すだなんてまるで小さな子どもだ。ここ何年も熱なんて出していなかったし、もうすぐ十七だというのに恥ずかしい。「薬を持って来るわね」というと、ワーズワース夫人は再度私の額に手の平を当て、その熱を確かめた。さほど熱は高くないのだが、如何せん体がだるい。寝返り一つに疲労を感じる。もうこうなれば今日はしっかり寝て、明日には治し、明後日はまた研修に行けるように体調を整えなければ。研修先に迷惑も心配もかけるわけには行かないのだから。雑用係のような仕事ばかりでも、無駄ではないはずだ。もしかしたら、もしかするとルーピンさんだって何か考えがあってあれだけの仕事を私に与えるのかも知れない。


(ルーピンさんか……)


 昨日、ルーピン先生が別れ際に見せた困ったような笑みが頭を掠める。困ったような、そしてどこか寂しげな笑みだった。それが何を意味していたのかは私には図りかねるけれど、私が失言紛いのことをしてしまったことに違いはないのではないか。そう思うと、明後日また彼と顔を合わせるのが少し気まずい。けれどその半面、気にもなる。あの表情にはどんな意味があったのか、何を言いたかったのか、そして彼は私が昨日思ったように色々なものをあの笑顔の下に押し込んでいるのか。知りたい、そう思う。

 こんな時にぼんやりする頭で考えることは極端だ。あれだけ“要注意好青年”だと思って来た彼のことばかり、今こうして考えてしまう。いや、きっと学校を離れて考えることがないからだろう。考えることがない訳ではない、宿題は例年通りたくさんあるし、進路のことだって考えなければならない。けれど、今どうしても会いたい友人が私にはいるだろうか。


「…さみしい」


 口にすれば余計にその思いは募る。どうしようもできない一つのライン、それを引いたのは私。周囲の人間との間に壁を造り上げたのも私。自業自得ではないか、休暇の度に一人で過ごすことになっているのは、全て自分がそうなるように振る舞ったせいではないか。「来年も研修に来てくれ」と言われながら、同じ場所へ二度目の研修に行くことがないのも、そこにいる人たちに私の素性を知られてしまうのが怖いから。怯えが全ての元凶だ、周囲を信じることができないから怯えになる、そしてそれが猜疑心を生み、希薄な人間関係しか生まない。

 きっとここでもそうだ。ワーズワース夫妻とも、ルーピンさんとも、ビスケットのお姉さんとも、この夏だけの付き合い。ホグワーツの皆とも卒業したらお別れ。…だとしたら私は、あらゆる職を短いスパンで転々とする人生を送らなければならないのだろうか。そうして最後は誰にも知られないまま、ひっそりと息を引き取るのだろうか。あの、母と過ごした家のようなさみしい場所で。「さみしいよ…」もう一度掠れた声で呟く。


「さみしくないよ」


 よく知った声が降って来ると共に、大きな手のひらが前髪を撫でつける。何度も何度も、ゆっくりと私の髪を撫でる。ゆるりと首を巡らせれば、あろうことかそこにはワーズワースさんでも奥さんでもない、ルーピンさんが居た。なぜ、どうして、目を見開き言葉もなく訴えるが、彼は何も言わない。いや、今はそんなことはどうでもいい。すぐそこに、手の届く位置に誰かが居てくれることに言い表せない安心感を覚えたのだ。もう十六、しかも五日目、けれど見知らぬ土地、そして体調不良――様々な要素が重なって、私は知らない内に参ってしまっていた。これまで六年間、ちゃんとできていたのに。長い休暇を一人で過ごすことくらい何ともなかったのに。どうして今になってこんなにも沈んでしまうのだろう、落ち込んでしまうのだろう。

 そうだ、この人のせいだ。この人が私の心の内を暴いていくから、氷を溶かすように尖った心を溶かして行くから、だから気付いてしまった。本当は寂しいと言いたかったのだと。本当のことを知ってくれる人が欲しい、誰かに聞いて欲しい、でもその後で避けられたらどうしよう、もう私と関わりたくないと思われたらどうしよう、無限にループを繰り返す心が、いつまで経っても私を前へ進めなくしていた。


「さみ、し…」
「さみしくない、ほら」


 さみしい、と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す私の言葉を、やんわりと否定するルーピンさん。優しく微笑み、私の手を取ると彼もまた繰り返す。さみしくないよ、と。私の手をすっぽりと包み込む手のひらは、なぜか涙腺を緩めて行く。涙を促すような言動に、弱っている私が耐えられるはずもなく、涙が一筋、こめかみを伝う。


「やっぱり抱え込んでたんだね、さん」
「誰にも、言えなくて」
「苦しかっただろう」


 苦しかった。そう返せばもう堰き止めるものは何もなくなって、嗚咽まじりで涙が溢れ出す。ルーピンさんもまた、何も言わずにただ手を握っていてくれるから、ぐしゃぐしゃになった顔は半分しか隠すことしかできない。みっともない、不細工な泣き顔。それでもずっと優しい表情で私を見る彼に、普段の人遣いの荒さや意地悪な言動は微塵にも感じさせない。ただ、受容してくれるだろうという根拠の不確かな確信があり、全てを吐き出したくなる。彼には怯えなんて感じず、握られた手を私も握り返した。

 人の体温はこんなにも温かいものなのだと、ほんの少し優しさに触れるだけでこんなにも寂しさが軽くなるのだと知った。離したくない―――初めての感情に少し戸惑いながら、けれど決して嘘のない一つの気持ち。寂しさの陰に見え隠れするそれは、その名前は。


「もう、大丈夫です」
「そっか」


 最後の一粒を優しく拭う指先。それが余りにも優しくて、温かくて、錯覚しそうになる。この人ならもしかすると、なんて思ってしまう。だけど今なら熱のせいにしてしまえばいい。何もかも話して、眠ってしまって、そして明日になったら熱のせいだと言い訳すればいい。熱のせいで正常な判断ができなかったのだと言えばいい。ルーピンさんに甘えて、そして眠りに沈んで行けばいいのだ。

 少し眠るといい。ルーピンさんがそう言うと、不思議と急に瞼が重くなり、眠気が襲って来る。…でも嫌だ、眠ってしまいたくない。目が覚めてそこに誰も居なかったら私はまたさみしくなる。せっかくルーピンさんが何か魔法でも使ったかのようにさみしさを拭い去ってくれたのに、また舞い戻って来てしまう。けれど半覚醒の頭では上手く伝えることができなくて、何かを言いかけたまま薄く開いた唇で浅い呼吸を繰り返すだけ。そんな私の心を読んだかのように、彼は人差し指をそっと私の唇に押し当てると、「ここに居るから眠っていいよ」と言った。そのたった一言で、ぷつりと糸が切れたかのように私は意識を手放した。深い深い、眠りの底へ落ちていく。やはり彼の言葉にはまるで、何か魔法がかけられているみたいだと思いながら。






   



(そして、衝突へ)







 

(2011/9/17)