「二番倉庫から登録簿持って来て」

「七番書庫にこれ全部返して来てくれるかな」

「五番倉庫の書棚、崩れかけてたよ」

「十番倉庫から取って来て欲しいものがあるんだけど」

「え、なかった?ああ、ごめん、一番書庫だったよ」






 これは新手のいじめかと問いたい。魔法省の僻地支部にてワーキングホリデイ五日目の私は、終業間際にはげっそりしていた。連日フロアと倉庫・書庫の行き来を繰り返し、座っての仕事なんて一つもない。あっちへ走り、こっちへ走り、しかも手には本や紙束など重いものを必ず抱えている。しかも仕事を命じるのは決まってルーピンさん。他の人から何か仕事を命じられたことはこの五日間、ない。初日から私の中で“絵に描いたような要注意好青年”のレッテルを貼られている彼だが、ここまで人使いが荒いだなんて誰が想像しただろう。或いは、彼の友人なら、学生時代の恩師なら、分かり切ったことだったのだろうか。だとしたらダンブルドア校長、相当人が悪いです。


「疲れたわ……っ」


 終業のベルが鳴り響くと共に、十番倉庫に凭れかかり、そのままズルズルと床にしゃがみ込んだ。膝に顔を埋めて「はあああ…」と大きな溜め息を吐き出す。フロアに戻る度、右隣デスクのビスケットお姉さんことメリンダさんに気の毒そうな目で見られ、ビスケットを勧められるも食べる暇などありやしない。甘やかさなくて良いんですよと言わんばかりに命じられるこの仕事量、研修生の仕事量ではない。

 慣れないパンプスで足も痛み、浮腫んで仕方がない。早くステイ先に帰って足を伸ばしたい、一刻も早くだ。そう思い、のろのろと体を起こしてフロアに戻れば、初日と何ら変わりない爽やかな笑顔で「今日もお疲れ様」とルーピンさんに言われた。負けじと笑顔で「お疲れ様です」と返したものの、思いの外疲れた声が出て自分でも焦った。これにはさすがの彼も驚いたらしく、私のデスクに座るよう勧めると、逆に彼が立ち上がりどこかへ消えて行った。ひとまず座ることができた幸せに浸り、デスクに突っ伏していると、やがて彼は二つのグラスを手に戻って来た。


「疲れた時には甘いものを口にするといい」
「これ…アイスチョコレートドリンク?」
「味には自信があるんだ」
「お、お手製…」


 意外だ、甘いものが好きなのだろうか。目の前に置かれたグラスに手を伸ばし、一口啜る。途端、口の中に広がるのは甘いミルクチョコレートの味。しかも走り回って汗をかいた体には嬉しい冷たさだ。至福の一時とはまさにこのようなことを言うのだろうか。確かに疲れた時には甘いものが一番である。甘いものを食べればそれだけで幸せな気持ちにもなる、元気も出る。…実は気が利くのだな、と失礼なことを考えた。

 一気に半分ほど飲んでしまった所で、何か左から視線を感じ、私もそちらを見る。もちろんそこには微笑を浮かべたルーピンさんしかいない。彼はずっと私を見ていたらしく、まだ自分の入れたアイスチョコレートドリンクに口を付けていないようだ。そんなに凝視されるようなおかしな飲み方をしていただろうか。じっと見つめ合っているにも拘らず、会話のない私とルーピンさん。私だけが気まずくなって、思わず生唾を飲み込んだ。やがて耐えきれなくなり、「何ですか」と問えば、「美味しい?」と逆に問われる。


「…美味しいです」
「それは良かった。じゃあ帰ろうか。せっかくの休日前に定時越えてまで仕事はしたくないからね」
「は、はあ…」


 真面目なのか不真面目なのか、いや、真面目なのだろうが。生返事をすると、ルーピンさんはグラスの中身を一気に飲み干す。私も慌てて残りを流し込むと、さすがに胸やけを起こしそうになった。




***




 彼と帰路につくのは二回目だ。一回目はここへ来た初日。それからは時間の合った他の役員さんと帰ったり、昨日は一人で帰った。さほど難しい道のりではないため、すぐに覚えることもできたのだ。そしてたった今分かったことは、ルーピンさんは私のステイ先のすぐ近くに現在住んでいると言うこと、彼自身正規採用された役員ではないと言うことだ。採用については何か事情がありそうなので深くは追求しなかったが、彼もホグワーツのグリフィンドール出身ということを知り、彼の学生時代には興味が湧いた。監督生だったということを聞き、なんだかそれっぽいなあ、と一人当時のルーピンさんを想像してみたり…


(って、違うわよ!)


 頭を二、三度振り、雑念を追い払う。こんなの、気持ちの悪い妄想だ。不思議そうな顔で見られたため、「あはは…」と笑って誤魔化した。…確かに、ルーピンさんの最初の印象はいい。先生受けも良かったであろうことは容易に想像ができる。成績も優秀だったのだろうとか、監督生・模範生となるような生徒だったのだろうとか、色々と想像できてしまう。しかし逆に、この五日間で感じた彼の意地悪さは学生時代からもあったのだろうということもまた、想像に難くない。


「所で、さんはどうしてこんな僻地への研修を希望したんだい?」
「人より自然の多い場所の方が、過ごしやすくて」
「学校は息が詰まる?」
「息が詰まるって言うか…人が多いほど気を遣わないといけませんし」


 学校生活で人間関係に縺れが生じたことは今の所、ない。頼りにできる友人はいるし、また自分を頼ってくれる友人もいる。可愛い後輩もいる、憧れの先輩もいる。けれど、あれだけ多くの人間がいる場所に居ると、少なからず怯えなければならないことがある。恐怖に思ってしまうことがある。私は、私の血筋が表に出てしまうことを何よりも恐れている。その、頼りにできる友人でさえも知らない秘密があるのだ。隠し通すことは苦しい、辛い。けれど、知られてしまえばもう学校にいられなくなるのではないかという恐怖が、常について回っている。

 暑さと、ルーピンさんとの会話をどう続けて良いか分からないのとで、背中を汗が伝った。そしてまた訪れる沈黙。この気まずさなんて知る由もない空は、抜けるような青さで、どこまでも広がる緑の景色は気持ちがいい。それなのに、会話が会話なお陰で気分はちっとも晴れやかではなかった。…研修の希望理由なんて私も適当に答えれば良いものを、嘘をつけないのはルーピンさんだからだろうか。大人、ましてや要注意好青年である彼の観察力は確かだ。これもこの五日間で私の学んだことである。彼には嘘も誤魔化しも通用しない(誰にも気付かれなかった片頭痛に気付いたのもルーピンさんだけだ)。

 今度は、沈黙を破ったのはルーピンさんの方だった。


さんは、自分一人で抱え込み過ぎるきらいがあるんじゃないかな」
「……………………」
「…何かおかしなことでも言った?」
「いえ、ただ…」
「ただ?」


 きっと、そういう性質に気付くのは自分がそうだからだ。まるで鏡を見ているみたいに同じだから気付くのではないのだろうか。…ここへ来て五日、確かに仕事量は多いけれど何とかやって来た。毎日へとへとになりながら、それでも翌日は出勤する。文句なんて言ったこともない。上手く立ち回るのは得意な方だ。学校でだってそう、大変でも大丈夫だと笑って言えば周りは納得する。「そうね、なら大丈夫よね」と。だから、これまで“一人で抱え込み過ぎていないか”なんて言われたことがなかった。器用にやっているつもりだった。…だとしたら、見抜いた彼もまた、同じように生きていると言うことではないだろうか。


「……何でもないです」
「すごく気になる間を作ったね」
「何でもないです」


 私の直感は良く当たる。試験に出る範囲もよく当たる。だからきっと今回も当たっているのだ。十も年上の大人相手にだけど、きっとそうだ。この人もその爽やかな笑顔の下に何かを隠して生きている。器用に生きることで様々なことを上手くかわして来ている。だから、生意気を承知で小さく呟いた。


「ルーピンさんこそ、抱え込んじゃ辛いですよ」


 風が吹いた瞬間に、聞こえるか聞こえないかの声量で言ったにも拘らず、その言葉はしっかり届いていたようで、私の隣を歩くルーピンさんはその大きな手のひらでくしゃりと私の頭を撫でた。その手がどこか悲しくて、昔よく撫でてもらったような悲しい手で、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。…こんなはずじゃなかった、センチメンタルに浸るつもりじゃなかった。普段の私はいつも笑顔だし、ポジティブな発言をたくさんするし、こんな風にいきなり気持ちが沈むことなんてない。それなのに、それは脆い殻なのだとでも言うように、剥がれて中身が顔を出す。

 あれだけ彼に対し要注意のレッテルを貼った癖に、どうやら私は簡単に心を許しかけているようだった。ルーピンさんに話せば楽なのだろうか、と。






   



(それは、思い込み)







 

(2011/9/9)