成績は良い癖に、いつも自信なさげに俯いている生徒がいる。グリフィンドール生らしくない陰気な顔で、授業中はいつも後方に座るのだ。憎むべき寮の生徒を気にかけてやる必要はないのだが、その生徒を見ていると無性に苛立って来る。彼は実力があるにも拘わらず自信を持っていない人間は嫌いだ。それは一重に、彼自身の学生時代と重なるからかも知れない。・―――彼女自身と教員だけが共有している秘密が、彼女を俯かせているということを知っていたとしても。 「Ms.、今日課題にしたレポートを全員分集め、来週の授業終了後に我輩に提出したまえ」 息を潜めて後方に座っていたは一度びくりと肩を震わせ、目を丸くして教壇にいるスネイプを見る。視線が合うと怯えたように目を逸らし、よく耳を済まさなければ聞こえないような声で「はい」と返事をした。…長いのは何も前髪だけではない。明るい髪色だというのに肩より下まである長い髪が顔に影を作り、それが一層彼女を近付きがたい存在に変えていた。しかしそれは生徒だけで、教員には通用しない。深い藍色の目はまだ動揺の色を滲ませながら、再度前髪の隙間からこちらを見る。今度はそれに気付かない振りをいて視線を振り払い、スネイプは授業の終わりを告げた。 他の生徒たちは本日最後の授業が終わり、急いで教室を出て行く。そんな中、一人その波に逆らい教室に残る生徒がいた。・だ。何かを言いたげにしているものの、その目は左右に泳ぎ、落ち着きがない。カーディガンの裾をぎゅっと握り、薄く口を開いているものの、言葉が紡がれることはない。 「言いたいことがあるならはっきり言うことだな、Ms.。我輩も暇ではない」 「いえ、あの、何でもありません、失礼します」 「待て」 「は、はい…っ!」 誤魔化し、出て行こうとしたを呼び止める。何も取って食う訳でもないというのに、過剰に反応して見せる。「Ms.」名を呼べばまた肩を震わす。ゆっくりと振り返る彼女に近付き、その目を覗き込んだ。不安どころか恐怖に揺れているようにも見える目は、流石にこの距離では逸らされることはない。しかし逸らすことを許すまいとスネイプが見れば、僅かに右足を後ろへ引いた。それに苛立ち、我慢ならなくなったためとうとう用件を伝える。 「その鬱陶しい前髪を切りたまえ、来週の我輩の授業までに」 「え…?」 「目が見えるまで前髪を切れと言ったのだ」 「で、でもこれは、」 「我輩に口答えする気か、Ms.」 いいえ、とか細い声で答える。返事とは裏腹に納得行かないような顔をしているが彼女のことだ、教師の言うことなら聞くだろう。用はそれだけだ自分の寮へ帰れ―――そう端的に伝えると、今度は困ったような顔をする。…黒のローブに映える明るい色の髪、あれはミルクティーの色と称するのが相応しいだろう。長い髪を揺らし出て行く彼女の後姿を見つめながら、何となくそんなことを思ったのだった。 成績だけ見れば・は優秀だ。悔しいことにどれだけレベルの高い課題やテストをしようと、グリフィンドールでは彼女のみが文句のつけようのない結果を出す。認めざるを得ないその出来に、毎度苦々しく思いながら成績をつけているのだ。時にはヒントをくれてやったスリザリンの優秀な生徒よりも良いレポートを出して来ることがある。だからだろうか、髪など別にどうでもよいのだが、あの生徒を困らせてやりたくなった。次の授業は明後日、その日が楽しみだな、などと思いながら彼もまた教室を後にした。 *** レポート提出を指示した日までにも魔法薬学の授業はあった。しかしその間、の前髪は短くなることはなく、後方の席で気配を消しながら授業を受けている姿も変わらなかった。来週まで、という猶予のために揺れているのだろう。それを眺めるのもまた面白い、だが同時にあの怯えるような態度には心底苛立った。他の生徒には怯えられようが何を言われようが構わないが、だけは違った。反抗する訳でもない、成績が悪い訳でもない、だが苛立つのだ。今日の授業中も目が合えばぱっと逸らし、授業が終われば我先にと教室を出て行ってしまった。スネイプに文句を言われることを恐れているのだろう。それが益々、彼の苛立ちを増幅させているとも知らず。 そんな彼女に変化があったのはレポート提出日の前日だった。魔法薬学の授業のある日ではないが、廊下で偶然とすれ違ったのだ。まだ少し俯きがちではあるが、藍色の双眸は前髪というブラインドがなくなり宝石のように光った。また、肩の下まであった髪も肩ぎりぎりにまで切り揃えられている。重かった髪が短くなり、それは空気を孕んで歩く度に綺麗に揺れた。 「こ、こんにちはスネイプ教授…っ」 「…ご機嫌よう、Ms.」 声を聞かなければ、一瞬誰だかは判別できないだろう。イメージチェンジどころかまるで別人のようなに、流石のスネイプも目を瞠る。しかし飽くまで平静を保ち、挨拶を返す。しかし内心、髪を切るだけでこんなにも変わるものかと彼の方が驚愕した。挨拶だけすると彼女は逃げるように早足で去って行ったが、もし彼女が立ち止まっていれば一言二言何か言葉を交わしていたかも知れない。しかしどうせ明日には嫌でも顔を合わせることになる。レポートを提出する時に声をかけてやればいい。 しかし驚いたことに、翌日授業のため教室に入ってみれば、それまで後方の列で一人きりで授業を受けていたの周りには他の女子生徒がいた。しかも彼が現れたことに気付くまでは談笑していたのだ。「…授業が始まることが分かっていながら喧しく話をしているのかね」他の生徒など眼中に入らず、のいる女子生徒の集団に向かって声をかければ、一瞬で全員が真っ青になり口を噤む。すみませんでした、と言ったのはだけだ。それに免じて減点は避けてやった。 「今日は先週課題に出してあった薬の実習を行う。全員教科書三百五ページを開きたまえ」 雰囲気が変われば周囲の彼女に対する注目も違うらしい。これまでは二人一組での実習をさせる時には、は余った生徒と組んでいた。しかしどうやら今回はすんなりと相手を見つけたらしく、余っている生徒を探さなければならないと言う手間を省けたのだ。彼女もまた、相手が見つかったことにほっとしているように見える。しかし相変わらず誰かと話す際にはおろおろとしており、それが視界の端に映る度、彼は舌打ちしたい気分に駆られていた。 やがて今日は誰も調合に失敗する者がおらず、円滑に進んだ授業は終わりを迎えた。各自後片付けを終え、次々に教室を去っていく中、だけが教室に残っていた。余った材料を破棄していると、レポートを抱えてスネイプに近付いて来る。他の女子生徒には先に戻っていてくれとでも頼んだのだろう。勿論、彼女の用件は分かっていたが、敢えて気付かない振りをして彼からは何の声も掛けなかった。 「あ、あの、スネイプ教授、よろしいでしょうか」 「何かね」 「先週のレポートです。机に置いておきますね」 「ご苦労だったなMs.」 「……はい」 羊皮紙の束を受け取ると、一応労いの言葉をかける。他の生徒だったらここでさっさと退散するのだが、彼女は先週と同様、何かを話したそうにしている。薬草を処分する彼と、消えて行く材料を交互に見つめ、話しかけるタイミングを探っているようだった。とうとう彼はに聞こえないように小さく溜め息を付く。「用件があるなら言うように先週も言ったはずだが」意地の悪いことをしている自覚はあった。彼の言った通り、彼女は渋々ながら髪を切ったのだ。それなのに何の反応も見せないスネイプに、は何かもどかしく思ったのだろう。しかし思いもよらぬ彼の言葉に、とうとうは目いっぱいに涙を浮かべた。 「か…みを、切りました…」 「知っている」 「世界が、明るくなって…皆の表情も、よく見えて…こ、ここで、笑えるよ、に、なって…っ」 「………何が言いたいのかね」 「でも、切らなければよかった……っ」 最後は殆ど嗚咽で言葉になっていなかった。彼女はぼろぼろと大粒の涙を零し、走って教室を出て行く。その背を追いかけることもせず、材料の処分を続けるスネイプ。しかしやはり先程のが気になって来る。放っておけばいい、あれあただの自分勝手な疳癪だだろう、そう言い聞かせるも、彼を恨むでも憎むでもなく、ただ悲痛を浮かべた彼女の表情に責められた気分になる。そう、は責めるような言葉の一つも言っていない。彼女自身の後悔を語っただけだ。 ちっと小さく舌打ちをし、残りの片付けを放り出してスネイプは彼女の後を追った。しかし全速力で追うまでもなく、は地下牢を出てすぐの廊下で蹲っている。小さく肩を震わせ、しゃくり上げるいるのが聞こえた。辺りには教科書が散乱しているのを見て、恐らく階段の最後に躓いて転んだのであろうことが容易に想像できた。 「Ms.、貴様は頭が良いのか悪いのか分からん。よもやこのような所で転ぶとは、一体何年この学校にいるのだ」 彼女はしゃくり上げるのを止める。スネイプは彼女の前へ回り込み、片膝を付くと溜め息をついた。彼女の両膝は見事に擦り剥けており、じわりと血が滲んでいる。ひりひりするであろうその負傷部位に杖を翳せば、一瞬で傷は綺麗に癒えてしまった。それでもなお泣き止まない彼女は、更に彼の言葉を待つかのようにその場から動こうとしない。俯いたままの彼女の目から、また涙が落ちて廊下を濡らした。 「何を期待していたかは知らんが、少なくともグリフィンドールの生徒には色々と気の利く言葉をもらったのだろう」 「…は………き…った……」 「はっきり言いたまえ」 「私は、スネイプ教授から聞きたかった…!」 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて小さく叫ぶ。綺麗なはずの目は真っ赤になっており、痛々しい。このまま寝れば確実に明日は目が腫れるだろう――そんなどうでも良いことを考えたのは、彼女の言葉が深く突き刺さったからかも知れない。しゃくり上げる度に揺れる髪は相変わらず絹のように綺麗だ。徐にその髪へ手を伸ばし、涙のせいで頬に張り付いた髪をそっと耳に掛けてやった。すると驚いたように藍色の目を丸くする。反対側も同じように退けてやると、まるで壊れたかのようにぴたりと泣くのをやめた。呼吸さえしていないのではないかと心配になるほど、いきなり静かになったのだ。 そのまま髪を梳き、その指をすり抜けて行く感触を楽しんでいると、たちまち彼女は真っ赤になる。無言の空間に耐えられないのか、また徐々に伏し目がちになり、とうとう視線は床を向いた。 「あ、あの…」 「言葉を欲しておきながら目を逸らすとは、我儘な生徒ですな」 「ちが…っ」 「何が違うと、Ms.?」 顎を掴んで無理矢理上を向かせれば、藍色の海に浮かぶのは彼自身の姿。澄んだ瞳には一体どのように彼が映っているのか、それを窺い知ることはできない。だが恐らく、心底意地の悪い教師だと捉えているのだろう。彼は、取り乱すを見て半ば楽しんでいた。彼の言動に振り回されるのあらゆる感情に先立つものが彼であることに、何か優越感を抱いていた。ふ、と口の片端を持ち上げて不敵に笑うと、ぐっと距離を詰める。鼻がぶつかりそうな距離、互いの吐息をも感じるような至近距離だ。ここまで来れば、もうここには二人しか存在しないかのような錯覚に陥る。忙しなく瞬きを繰り返すは、何が起こったか分からないようだ。 「君のその目が見られるこの長さが丁度いい」 「え……」 「それに、泣いた顔も困った顔もよく見える」 「スネイプ教授、それ、は…」 「また前の長さに戻してみたまえ。休みの一日、我輩から罰則を受けることになりますぞ」 次の瞬間にはは目の前の教師を思いっきり押して引き剥がし、教科書を掻き集めると走ってグリフィンドール寮へ戻って行った。彼はさして驚きもせず立ち上がり、ローブの汚れを払うと、彼女の姿が見えなくなるまで見つめる。やがて足音さえも聞こえなくなった時、ようやく踵を返して自身の根城、地下牢へと下って行った。 今度の魔法薬学の授業には、どのような顔をして彼女は現れるのだろうか。いや、その前に今日の夕食でも顔を合わせるかも知れない。じっと彼女を見つめれば、どんな反応を示すだろう。先程のように真っ赤になって顔を逸らすだろうか、また目に涙を浮かべるだろうか、はたまた睨まれるだろうか。次に彼女と顔を合わせるのが大層楽しみだと、残りの実験の片付けをしながら彼の口は僅かに弧を描いたのだった。 (2011/9/27) |