ホグワーツ中に花の香りが漂う。二月十四日、それがその理由を示していた。校舎のあちこちで女子生徒が花―――多くが薔薇の花を手にしていた。可愛い教え子たちが嬉しそうにはにかみながら廊下を歩いている姿を見ると、の頬も自然と緩む。自分の学生時代もこの日はやはり雰囲気が違ったと、在学生の頃を思い出すと懐かしい。尤もには花を贈られるような相手はいなかったのだが、やはりいつの時代ものように縁のない生徒がいれば、山ほど贈り物を受け取る生徒はいるようだ。 しかし、そのようなイベントのある日も授業があることは変わらない。は束の間の休憩にといれた紅茶のカップを片付けながら、次の授業の準備について考えていた。そんな時、授業の始まるよりも随分と早くに数人の女子生徒が入って来た。何やらにこにこと嬉しそうにしながらに近付いて来る。一瞬身構えるに対し、声を弾ませて声を掛けて来る。 「先生!今、先生とお話しても良いですか?」 「え、ええ、良いけれど…あなたたち授業は?」 「次は空き時間なんです」 教員の中でもは生徒たちと年が近いこともあり、よくこうして授業以外の時間に生徒たちと話す。授業のことを聞かれたり、何てことのない雑談であったりするのだが、今の彼女らの表情を見るに間違いなく後者だろう。好奇心で輝く目をこちらに向け、を逃すまいとしている。何を聞かれるのかと思いきや、唐突に「もう届きました?」と訊かれる。果たして、今日は何か自分に荷物でも届く日だっただろうか。思い返してみても心当たりがない。返事の代わりに首を傾げてみれば、 「マクレーンさんから届きましたか!?」 「え…?」 「だから、マクレーンさんからですよ!花束!先生と彼、恋人同士なのでしょう?」 「……だ、だれと、だれがって…?」 聞き間違いだと思いたい―――顔を引き攣らせながら再度聞き返すも、返って来た言葉は同じ。一体いつ、自分とエルバート・マクレーンは恋人同士になったと言うのだろう。根も葉もないただの噂に尾ひれも背びれもついてしまった。もしそんな噂がかの闇の魔術に対する防衛術教師の耳にでも入ったら、また彼は機嫌を悪くしてしまうではないか。も初めて耳にした話であったため、目の前で楽しそうに「マクレーンさんってどんな人なんですか?」「先生には優しいんですか?」などと聞いて来る彼女らには何と返せばいいのか分からない。とりあえず言えることは、ここで何が何でも否定しなければ後々面倒なことになりかねない、ということだ。 盛大な勘違いを解こうと「あのね、それは――」そう言いかけた時、教室の窓を何かがコンコンと叩く。後ろを振り返ってみると、見覚えのないフクロウが外から窓を嘴で突いていた。早くしてくれと言わんばかりにじっと見つめて来る栗の色をしたフクロウは、何か荷物を運んで来たらしい。 (ああ、なんだか…なんだか嫌な予感がするわ…) ちょっと待ってて、と女子生徒たちに声を掛けては窓に駆け寄り、フクロウを招き入れる。その瞬間、部屋中に噎せかえるような薔薇の香りが教室を覆った。フクロウは大きな赤い薔薇の花束を運んで来たのだ。 は目眩を覚えた。以前、あんなにもプレゼントを拒んだと言うのに彼もなかなか粘り強いと言うか、諦めが悪いと言うか。届け役のフクロウは一頻り教室を旋回した後、の腕の中にその大きな花束を落としてすぐに去って行った。添えられていたカードには当然名前などない。しかもが突き返す隙もなく帰って行くだなんて、なんと優秀なことか。きっとマクレーンがそう命じたに違いない。あの時、プレゼントを突き返したことを根に持っているのだろう。 「ほら先生!やっぱりマクレーンさんとは恋人同士なんですね!」 「え、えっと、あの、これはね、」 「大輪の薔薇だなんて素敵…ああ、私もこんな風に花束を届けられたいなあ…」 うっとりと語る彼女らには悪いが、それは盛大な勘違いなのだ。もう否定することは困難だろうと諦め、苦笑いと曖昧な言葉で彼女らを軽くあしらう。ようやく静かになると、昼間の日当たりが悪いこの教室に不釣り合いな真っ赤な薔薇の花束を見つめ、は小さな溜め息をついた。が本当に花束を贈られたい相手―――リーマスを思うと、益々この花束をどうすべきか悩む。既に頭痛までして来た。 花束でなくてもいい。けれど、リーマスのことが絡むと意外と自分が欲張りであることに気付かされる。無欲とまでは行かないが、自分ではあまり欲のない方だと思っていたのだ。それなのにリーマスに恋をしてから、そしてリーマスと恋人同士となってからは一層、欲は少しずつ大きくなって行く。高価な薔薇の花束でなくて良い、リッチなディナーでなくて良い。いや、寧ろそんなものはは要らないのだ。彼のいれてくれたお茶を飲んだり、他愛もない会話をしたりする―――ただゆっくりと時間の流れる空間を共有したいのだ。彼の時間が欲しいのだと、そう思った。 だから、マクレーンには悪いがこの花束は自室にまで持ち帰る訳には行かない。極力目立たないよう、縮小呪文を掛けて教室の隅の花瓶に挿して飾ることにした。 *** 今日は実にハードな一日だった。本来であれば授業のない時間に急遽授業が二つ入ったことが原因だ。結局、昼休みを潰して授業の準備をしていたりしたため、リーマスとは全く会うことができなかった。少しでも話せたなら気持ちも軽くなっただろうに、疲労ばかりが積もりに積もって、本日最後の授業では少しおかしなテンションで内容を進めてしまった。中には冷やかな目でを見ていた生徒もいた気がするが、生憎と二月十四日ということで生徒たちもいつもとは違うのハイな授業について来てくれたのは唯一の救いだろう。 重い自室のドアを開ける。テキストを机の上に放り出すと、まずはベッドに倒れ込んだ。もう夕飯を食べに行く気力すらない。しかも明日は休日だ、このまま眠って明日の朝シャワーを浴びたって構わないのではないか。そんな思いが頭をよぎれば、みるみる重くなる瞼。うとうととしかけたその時、ホー、とフクロウの控えめな鳴き声がした。ゆっくりと首をめぐらせると、机の上にまだ小さな子どものフクロウがちょこんと置物のように停まっている。 「ごめんね、もうそっちへ行く気力もないのよ…」 おいで、と手招きをすると、フクロウはを呼ぶために一度机に置いた一通の手紙を咥え、伸べられたの腕に舞い降りる。手紙を受け取り、撫でてやると気持ち良さそうに目を細める。まだ小さなフクロウに癒されながら改めて手紙を見れば、その字はリーマスのもの。差出人は例により書かれていないが、恋人の字を間違えるはずがないのだ。飛び起きてフクロウを膝に乗せると、杖を一振りしてハサミを呼び寄せ、中身まで切ってしまわないよう慎重に封筒にハサミを入れる。 たった一通の手紙。中身もまた、便箋一枚だった。けれど封を開けた途端、優しい花の香りが漂い始めた。何かと思い封筒の中を覗き込んでみれば、まだもう一枚、紙切れのようなものが入っている。逆さまにしてそれを取り出してみれば、香りの犯人は押し花の栞だった。嬉しくて泣きそうになりながら手紙を開く。滑るような、けれど丁寧な字で書かれた手紙は、普段なかなか彼の口から聞けないようなことばかり。花の香りと同じく優しい言葉を敷き詰められた手紙にとうとう泣いてしまうと、膝の上のフクロウは心配したのか、の肩に乗り頬ずりをする。 「大丈夫よ、嬉しいの。嬉しくて泣いてるの」 もう一度労わるように撫でてやり、窓の外へと戻してやる。飛び立つ寸前、まだ心配そうにを振り返ったが、「ありがとう」と笑って手を振れば暗い空の向こうへ飛び立って行った。 さて、どうしよう。こんな赤い目で彼の元を訪れればからかわれるだろうか。それとも、今日くらいは「また泣いていたのかい」なんて呆れながら笑って、優しく髪を撫でてくれるだろうか。少し熱を持った目元に触れて思案する。けれどこうしている間も彼は待っているかも知れない。が息を切らして彼の部屋に飛び込んで行くのを楽しみにしているのかも知れない。そう思うと赤くなった目元なんて気にしている場合じゃない。…は手紙を丁寧に封筒に戻し、大事に机の引き出しにしまう。そして走らないよう、出来る限りの早足で彼の部屋へ向かう。 会ったら最初になんて言おうか。何を言えば、彼をびっくりさせることができるだろうか。いつもびっくりさせられてばかりの自分が、彼をびっくりさせるにはどうすればいいだろうか。結論も出ないまま、あっという間に部屋の前。肩で息をしながら、数回深呼吸をいて息を整える。寒さではない震えで上手く言うことを聞かない右手で、そっとドアをノックする。 「ルーピン先生、です」 「どうぞ、開いてるよ」 ドアの向こう、彼は一体どんな顔をして待っているのだろう。緊張しながらドアノブを回した。ゆっくりゆっくりとドアを開ければ、部屋の中には穏やかな笑みを浮かべてリーマスが立っていた。そろそろ来ると思っていた、とでも言いたげに。「ルーピン先生、私…」「…うん」「わたし……っ」手紙を思い出し、また涙が溢れ出す。伝えたいことは彼の顔を見た途端に決まった。それなのに、肝心の言葉が上手く出て来ない。喉でつっかえてしまって言葉にならないのだ。 の心の中は今、リーマスでいっぱいになっている。自分の気持ちの一から十まで全てを彼に捧げたいと思うほどに。全て欲しいと言われれば全て差し出せる。けれど代わりにも全てが欲しい。単純なことのはずなのに、出て来るのは嗚咽ばかりで伝わらない。そんなにリーマスは近寄ると、優しく涙を拭って頬を両手で包んだ。 「大丈夫、ゆっくり言ってごらん」 「…私、も」 「うん」 「世界で、一番、幸せです」 「私もだよ、」 これ以上ないほど優しく柔らかな声で言うと、の左手を掬い上げ、薬指に唇を落とす。手紙の最後に書かれていた一文が、ずっと頭の中で繰り返される。本当に良いのだろうか、自分なんかで良いのだろうか―――彼を前にしてまだほんの少しそんな思いはあるけれど、それ以上に幸せが溢れて止まない。涙でぐしゃぐしゃになった酷い顔だけれど、めいいっぱい笑って見せた。すると同じようにリーマスも笑って返す。は少し背伸びをして、リーマスの首に腕を絡めた。次に耳元で囁かれたのは、頭を占めるその言葉。 「、君がいるならこの先もずっと幸せだ」 Back 手を繋いで背伸び。 Next (2012/02/14) |