は学生時代から図書館が好きだ。静かで落ち着ける、好きな書物のためなら一日を潰せるほどに好きだ。元々読書が好きだが、やはりホグワーツの図書館の蔵書量は違う。研究に使えそうなものから小説まで揃っているこの図書館はきっと一生飽きない。教師としてこの学校に戻ることになり、また図書館に足が運べるのだと思うとそれは嬉しいことだった。 「先生、また図書館ですか?」 「え?ええ…」 図書館のカウンターの前を通ると、司書のキセに声を掛けられる。毎週休みにはほぼ毎度ここを訪れているは、すっかり顔馴染みだった。彼女も仕事が忙しく、図書館で長々と世間話という訳にも行かないため、なかなかゆっくり話すタイミングを掴めずにいるが、ここに来るといつもお世話にはなっている。しかし今日は本の返却のために来ただけで、この後で所用があるため長居はできない。 早速三冊の本をキセに渡すと、その内の一冊を手にとって動作を止める。どうしたのかと思えば、「この本…」とぽつりと零す。はぎくりとした。キセが手に取った本は闇の魔術に対する防衛術のテキストだったのだ。一気に気まずくなる。動揺して目線を彷徨わせると、キセは小さく笑った。 「教えてもらえばいいのに、“ルーピン先生”に」 「そういう訳にはいかないから勉強してるんです…」 「でもこういう科目って実践が大事でしょ?」 「それなら付き合って下さいよキセさん」 「先生に怪我させたら後が怖いから嫌よ」 淡々と答えて返却処理をして行く。…は学生時代から実技が苦手だった。呪文学や闇の魔術に対する防衛術は人が二回でできることでも五回六回、ともすれば十回はしなければならない程度には苦手だった。それでも試験に引っ掛かったり笑われるのは嫌で、予習復習に明けくれた学生時代のことは忘れやしない。お陰である程度は使えるが、教師にしては得意分野が偏っているのだ。キセはどれも大抵こなしてしまうというし、レベッカに至っては主席で卒業しており、後輩ながらより余程魔女として出来が良い。コンプレックスを感じている訳ではないが、研究所で研究だけをしていれば良いだけだった頃とは違い、教員ともなればある程度のラインは越えなければならないと思っている。そう言う訳で、自分の担当である魔法生物飼育学よりも他の科目の方が勉強時間に占める割合が高くなっていた。まさかまたこう言った勉強をしなければならない日が来るとは、自身も思いもよらなかった。 「だって、あまりの出来なさに笑われてしまうわ…」 「リーマスはそんな人じゃないと思うけど。彼の専門だし、教えるのが仕事だよ。ねえ先生?」 「こんな所で私の噂話かい?」 突如背後から聞こえた声に振り返ると、まさに今話題に上っていたリーマスが数冊の書物を手にして立っていた。彼もと同じく本の返却の図書館を訪れたらしい。は慌ててキセの手から先程の本を引っ手繰ると、他の本の中に紛れ込ませて隠す。何でもないです、と返すと今度はキセから小さな溜め息が聞こえた。 確かに、隠す必要はないのかも知れない。誰にでも得手不得手はあり、リーマスも魔法薬学があまり得意でないと聞く。それでもキセの話によれば学生時代の成績はやはり優秀だったと言うのだ。釣り合いたいと思うのは傲慢だろうか―――ちくりと小さな棘の刺さった心。コンプレックスを感じてない、なんていうのは真っ赤な嘘だ。本当はいつだってプレッシャーにも押し潰されそうになっている。専門分野だけに没頭できた研究員時代に戻りたいとさえ思うことは未だにある。 「リーマス、自分の恋人の面倒はちゃんと見ないと」 「そのつもりだったんだけど、何かお世話にでもなった?」 「キセさんっ!これ!残りの本、返却処理お願いしますね!」 逃げるように早足で図書館を出て行く。キセとリーマスに呼びとめられた気がするが、振り切って自室へと足を進めた。すれ違う生徒に挨拶をされても、かなり早口で返してしまった。こういう所がまだ、自分は大人になりきれていないのだ。自分の感情に左右される。ここではそう、完全にスイッチをオフにできることがないのだ。気を緩めてしまえばボロが出る。いつ生徒と遭遇するか分からないここでは、いつだって“教師”で在らなければならない。それが、には少し苦しいことだった。勉強は嫌いではない、寧ろ好きだ。分からないことが分かるのは楽しいし、新しい発見は面白い。けれどホグワーツともなれば、オールマイティにこなす教師陣に囲まれ、それだけでもプレッシャーだと言うのに、後輩まで優秀だと身の置き場がないと感じることは珍しいことではなかった。 乱暴にドアを閉めて、足早にベッドに向かうとばたりと倒れ込む。そして乱れた息を整えながら「こんなはずじゃなかった」と一人ごちた。色んなことが上手く行かないのだ。ホグワーツの教員になって三カ月、は自分の話し下手をここまで恨んだことはなかった。教員は向いていない、と思うことは何度もある。研究員をしていたからには、知識だけはある。それだけはの自信だった。ただそれを上手く伝えることができないのはあまりにも悔しく、辛いことだった。生徒は正直だから、顔色一つで分かる。自分の授業を終えた後の生徒たちの顔、リーマスの授業を終えた後の生徒たちの顔はあまりにも違った。十年分の差はあるとはいえ、今年新任として入職したのは同じなのに―――比べること自体烏滸がましいことは分かっていつつ、比べずにはいられなかった。そしてまた卑屈になるのだ。 「研究所に戻りたい…」 「それは困るなあ」 「………………」 「が研究所に戻ってしまったら魔法生物飼育学は誰が担当するんだい?」 「ハグリッドはいい先生ですよ」 「……随分落ち込んでるみたいだ。さて、どうするかな…」 「慰めなんて要りません」 当然のように部屋に入って来たリーマスは、の倒れ込んでいるベッドに腰掛けた。ぎしりと、腰の辺りが沈む。背を向けたまま自棄になった返事をするに、リーマスは苦笑した。それでもの髪を撫でると、ぴくりと肩が動く。「慰めじゃないよ」「…………」「どうやったらに付け入ることができるか考えている」最悪じゃないですか、と言おうとしてやめる。これ以上何か言えば収拾がつかなくなりそうで、は口を閉じたまま身体を起こした。けれどまだ振り返れないまま。こんなにも情けない顔を、今にも泣きそうな顔をリーマスに見せることはできなかった。そんなの心情を察したのか、リーマスは無理に顔を自分の方に向けようとはせず、そのまま後ろから彼女を抱き締める。 「研究所に戻ったら、私はまたと一年に一度しか会えなくなるじゃないか」 「昨年まではそうでした」 「毎日顔を合わせるのが普通になったんだ、今更そんな生活に戻れるかい?」 「…慣れなんて、そんなものでしょう」 「、そんなこと本気で言ってるのか」 当然、本気な訳がない。それはリーマスもよく分かっている。けれど本気でないにしろ、の一言はリーマスの怒りに触れるには十分なものだった。たとえ涙を流しながらつい出てしまった言葉だったとしても。 「もう二度とそんなことを言わないでくれ」 「ルーピン先生、」 「お願いだ、」 肺を圧迫するほどの力で抱き締められたは、どうすれば良いか分からなくなった。さっきまで縋りたいのは自分の方だったのに、リーマスにそんなことを言われてしまえば、結局弱音の一つも吐き出せなくなる。狡い、といつも思う。生徒に対してはあれだけ完璧な大人であるのに、十も年下のに対してここまで弱みを見せられると、どうすれば良いか分からない。心を許されているのだと言えば聞こえはいいが、こういう時には自分の弱音をぐっと押し込まなければならない。普段甘やかされている分を差し引けばプラマイゼロにはなるのだろう。そうしなければ共倒れだ。どちらかが我慢を覚えなければ、落ちる所まで落ちてしまう。そんな関係になりたい訳ではなく、そうなってはならないことをは分かっていた。 でも、狡い。今は自分が弱音を吐き出したかったのに。 「がんばりたくても、どうしても辞めたいって思う時くらい、あるんですよ…っ」 「ごめん、軽率だったね」 そういう所が狡いのだ。自己の非を認め、謝ることのできるリーマス。余りにも自分は彼に不釣り合いな気がしてならない。これまでは見えなかった自分の短所が、毎日顔を合わせればどんどん露呈して行く。こうして冷たい言葉を平気で言ったり、度々卑屈になったり、そんな自分を見せることは彼との別れに繋がるのではないかと、は不安に思ってばかりいるのだ。…リーマスはそっとの体を反転させると、その腕に閉じ込めてあやすように背を優しく叩く。いやいやをするように身を捩っても離してはくれない。 「がコンプレックスを感じていることは知ってるよ。意外と卑屈な所やネガティブな所もね」 「…嫌になりましたか」 「いや、寧ろ逆だ。もっと君を好きになった」 「何ですか、それ」 「今みたいな時、私がついていてやらないと、と思うよ」 さらりと言ってのけるリーマスに、は言葉を失った。自惚れという言葉を知らないのか、と思う以上に、全くその通りだったからだ。大きなコンプレックスを感じている癖に、彼がいてくれないとどうにもならない。今も、一番会いたくないのに、一番会いたかったのだ。話したくないと思う癖に、背中を押して欲しいと思う。 弱っている所を見せる所も、欲しい時に欲しい言葉をくれることも、居て欲しい時に居てくれることも、全てが狡い。でもその狡さに惹かれ、傍にいたいと思うのもまた自分だ。…大人しくなったは彼の胸に顔を埋めて目を閉じる。頭の上で小さく笑う声が聞こえたけれど、言葉の代わりに何も言わずに手を背中に回した。ごめんなさい、と心の中で唱える。こんな私でごめんなさい―――それを口にすれば、またリーマスは怒るのだろう。自分だって自己を卑下するのに、が自身を卑下すれば怒るのだった。そんな、ようやく落ち着いたを見て、リーマスは「そう言えば」と話を切り出す。身体を離すとの頬をするりと撫でた。 「聞いたよ、闇の魔術に対する防衛術の勉強をしてるって」 「そ…っ、それだけじゃないですけど…!」 「が生徒ならいくらでも教えるけどね」 「こんな意地悪な人が先生だなんて私は嫌です…」 「本当は嬉しいってことくらい分かってるよ」 にこりと笑いながら言う彼に、はただ赤くなるしかない。誰もそんなこと言っていない、と大声で反論したかったが、本心を言い当てられてしまったはそれすら叶わない。他に何か反論しようと数回口をぱくぱくさせた後、言葉が見つからずリーマスに抱きついて誤魔化した。あんなにも卑屈になったのが嘘みたいに、穏やかな気持ちが舞い戻って来る。この人がいないとだめだ―――伝えられない言葉をは何度も頭の中で反芻した。 Back 手を繋いで背伸び。 Next (2011/10/31) |