優しい声に甘い言葉。それらが自分のために用意されたものなのだと思うと、まだどこか面映ゆい感じがする。友人と言うのは厚かましく、知り合いというには知り過ぎている。とリーマスがそんな微妙な関係から脱したのはまだ最近の話だ。流石に十も年が離れていると、七年の付き合いがあるとはいえ何を考えているのか分からないことがある。がまだ学生の時に出会ったからか、今も子ども扱いされることがあるのだ。彼の笑った顔は好きだけれど、いつまでも子どもじゃなくて対等に並びたい、なんて、それこそ傲慢だろうか。何はともあれ、十年分の経験の差というのはかなり大きい。だからこそ好きなったのだとしても。…はティーカップをテーブルに戻すと小さな溜め息をついた。


「悩みごとですか?」


 の部屋にまで本を借りに来ていたレベッカは、そんな小さな溜め息をも聞き逃さなかった。「ええ、ちょっと」と苦笑しながら返す。ようやく教員としての一日の流れにも慣れ、前の職場から引き継いでいた研究発表も終わった。そういう意味での忙しさは研究発表が終わったことでぐっと少なくなった。けれど、仕事による悩みが減ると、その余裕のできた隙間にはまた違う悩みが生まれると言うもの。はもう一度瞼裏に恋人の姿を思い描いた。

 今日も今日ではリーマスと気まずい雰囲気になっていた。喧嘩とまでは行かないが、が一方的に暴走してしまった結果である。いや、最初に暴走したのは自分ではないのだが、と頭を振る。思い出すだけで顔が熱くなるのを感じた。それを見たレベッカは「ああ…」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「なるほど、そういうことですか。また授業のことで悩んでいるのかと思いました。それで、喧嘩ですか?」
「勝手に想像しないで頂戴、レベッカ…。喧嘩ってほどのことじゃないのよ」
「じゃあ今回は一体どういう…」


 本を全て選び終えたらしく、レベッカは本棚を離れの元まで近付いて来る。…喧嘩ではない、けれどこのままでは夕食の席で顔を合わせた時に気まずいことになる。は考えていることが顔に出やすいことを自覚している。あまりぎくしゃくしていては他の教員や生徒たちからも怪しまれるだろう。いくらレベッカが可愛い後輩でも流石に今回のことは話しにくく、「大丈夫、何でもないわ」と誤魔化す。それでもやはり聞きたそうにはしていたが、次の授業が始まると彼女を促せば、大人しくの教室から退室して行った。

 一人になった教室で、は机の引き出しを開けてみた。一番上の引き出しには一枚の写真が入っている。彼女がリーマスと出会った夏に記念にと撮った写真だ。制服を着た学生時代の自分の笑顔は大層ぎこちなく、どれだけ緊張していたのだろうかと、おかしくて思わず笑みがこぼれる。当時はまだ恋心を自覚したばかりで、十五にして初めての恋を経験したは戸惑うことばかりだった。まさかあの頃のは将来リーマスとこういった関係になることなど夢にも思っていなかっただろう。


(下らないことなのだろうけど…)


 自分でも下らないと思うのだから、喧嘩未遂となった原因をリーマスは以上に下らないと思っているだろう。殆ど冷めた紅茶が自分をどんどん冷静にして行く。腹立たしいやら恥ずかしいやらで考えの纏まらなかったは、何度目か分からない溜め息をつくと、机に突っ伏した。

 が授業で使う教室と、防衛術の教室は比較的近い。の教室は突き当たりにあるため、どこに行くにしろ防衛術で使用する教室の前を通らなければならないのだ。先程も所用で教室を離れたは、自分の教室へ帰ってくる途中に偶然リーマスと遭遇した。同じ方向へ行くのだから並んで歩いていても別段おかしいことはない。今日の授業はあと幾つだとか、明日はこういう授業をする予定だとか、何でもない話をしながら足を進めていた。生徒たちともすれ違うが、特に不審な目で見られることはない。二人の気さくな性格を考えれば談笑していても違和感がないのだ。また年齢差のこともあって誰もそういう(・・・・)目で二人を見る人間はいない。隠す気はなくても隠れている、そう言うのが正しいだろう。

 しかし、教師とは言え念願叶って恋人となったのだ。だってリーマスと二人きりで過ごしたい時はあるし、触れたい・触れられたいと思うこともある。だからってどこでも良いと言う訳ではない。理性云々の前に常識というものを考えればそうだろう。にも拘らず、誰が入って来るかも分からない彼の教室に引っ張り込まれたかと思えば、何も言わず急に抱き締めて来たのだ。


『せ、先生、あの、ここでは』
『授業が始まるまでまだ時間はあるよ』
『まだ勤務中です!』
『でも休み時間だ』


 屁理屈です!と小さな悲鳴を上げるが、自分よりずっと背の高い、ましてや男の人に真正面から抱き締められてしまえば抵抗なんて無意味に近い。すっぽりと腕の中に収まったを離す気のないらしいリーマスは、の話など聞こうともしない。ああ言えばこう言う、と心の中で叫んでみても、実際声に出すことなんて出来やしない。「まあでもこれくらいなら…」と反論したいのは山々ながら甘んじて受け入れていたら、次第にエスカレートする始末。髪を梳く指が顎に伸びたかと思えば、上を向かされ、次の瞬間には唇が重なる。そこでようやくはっとしたが遅い。押し返そうとすれば持っていた教科書がばさばさと音を立てて床に散らばる。しかしそんなこと知らないとでも言うように、腰に腕を回しての逃げ場をなくす。


『や…っ、せんせ、ん……っ、』


 必死で顔を背けてみてもすぐに捕まり、小さな抵抗は無駄に終わる。場所が場所であることもだが、男性との交際経験のないは、とうとう唇を割って舌が侵入して来たことに気付き、途端、頭が真っ白になる。突然のことに恐怖を感じたりはしないが、困惑や戸惑い、羞恥でいっぱいになり、無駄と分かっていても身をよじったり体を押し返したりと出来る限りの抵抗をした。どうしてこんなことになったんだっけ、生徒たちが入って来たらどうしよう、いやそれよりいつ終わるの、と色んな考えが頭を駆け巡るものの、この状況を打破する案は浮かばない。考えることすら疎い。…固く閉じていた瞼をうっすら開けてみれば、当然だが視界いっぱいにリーマスが映り、一層の心拍数は上昇する。目なんて開けなければよかったと思ってみても遅い。今度こそはめいいっぱい力を入れてリーマスを押し返す。すると思いの外すんなりと離れた身体。何が何だか分からないはもう涙目だ。


『さ……最低ですっ!!』


 散らばった教科書を急いで掻き集める。けれど、手が震えて拾い上げた端からまたばさばさと腕から零れ落ちた。それを見たリーマスは何も言わずに教科書を全て拾い、まとめてに渡すが、恥ずかしくて仕方がないは彼の方を見ることもできない。ずっと教科書に視線を落したまま引っ手繰るように教科書を受け取ると、何も言わず、振り向きもせず走って彼の教室を出た。そのまま全速力で自分の教室に戻る。勢いよくドアを開け、また乱暴に閉めると、扉に凭れてそのままずるずると座り込んでしまった。

 何を思っていきなりあんなことをしたのかは知れない。よりもずっと大人なはずの彼がなぜ今、時と場所を考えずあのようなことをしたのか。髪も、頬も、腕も、触れられた部分からどんどん熱を持って行くようだ。自分の唇にそっと触れてみる。唇の感触も熱もまだこんなにも鮮明に残っていて、先程のことを思い出すとまた顔が熱くなるのを感じた。


(最低、て、言っちゃった……どうしよう……)


 ともあれ、もうこの後は授業が一つも入っていないことに心底感謝をした。こんな状態じゃまともに授業などできるはずがない。そこを上手くコントロールできるほどの大人ではないと、ああだから子ども扱いをされるのかと思った。そのすぐ後にレベッカがやって来たわけだが、あまりにタイミングが良かったためリーマスに何か言われたのかと疑ってしまったのだ。

 そこまで思い出した所で、あまりに考えすぎたからか急に眠気が襲って来る。紅茶を飲んだはずなのに眠くなるなんて奇妙な話だ。しかし今は何をやってもきっと駄目だろうと、大人しくはその眠気に従うことにしたのだった。




***




 ふと目を覚ませば、よく知った匂いがを包んでいた。そして次にすっかり教室が暗くなっていることに気付き、勢いよく立ち上がる。と、同時に肩から誰のか知らないがローブが滑り落ちる。…いや、手に取ってみてすぐ分かった。これはリーマスのものだと。しかしなぜここに彼のローブがあるのだろうか。いや、ここにこれがあるということは彼がこの部屋に来たと言うことに外ならない訳だが、入って来る気配にまるで気が付かなかったのだ。


「目が覚めたかい、
「ルーピンせんせ…っ!」


 後ろから声がしたかと思えば、そこにはリーマスがいた。本棚に本を戻しながら、「いくらなんでも教室で転寝なんて風邪をひくよ」とにこやかに話す。まるで何もなかったかのように振る舞う彼にまたは戸惑った。なぜ当たり前のようにここにいるのか、彼は呆れたり怒ったりしていないのか、とうとう愛想尽かされたりはしたのではないか、いろんな不安がぐるぐると渦巻いていたと言うのに、彼は気にした風もなくの手から自身のローブを受け取った。


「なぜ、って顔をしているね」
「え…」
「おいで、


 手招きをするリーマスに、また一度だけ大きく心臓が跳ねる。怒っている訳ではないのだと分かってほっとしたが、どうにも警戒心が解けない。それでも何も言わずを見つめて待っているリーマスを見て、はゆっくり彼の元へ歩み寄った。さっと頬に朱の差すに小さく笑いながら、優しくその肩を抱き寄せた。そして恥ずかしそうに俯くは髪を愛でるように撫でられると、その手の心地好さにそっと目を閉じる。

 分かっている、彼が悪意や悪戯心からあのようなことをした訳ではないことくらい。十年というのはあまりにも大きな差で、埋めようのない溝なのだ。自分ばかりが受け身でいてもいけない、歩み寄りたいとも思う。けれど思うように行かないのが恋というもので、二つの相反する気持ちの狭間で揺れてばかりなのだ。進展したい、でも…という思いが、をスムーズに前へ進めてくれない。


「…怒ってないのですか?」
「何に?」
「最低、て言ったこと」
「まさか。あれくらいで怒りはしないよ」


 いつも通りの柔らかい声音でリーマスは言う。ようやくほっとしたは彼の肩に頭を預けた。するとすぐ頭の上で小さく笑う声が聞こえる。何かおかしなことでもしただろうか。顔を上げてリーマスを見上げれば、驚くほど優しい表情でを見ていた。つい言葉を失い、じっと見つめる。声や言葉、表情、触れる指先も全て、今は自分だけのものなのだ。五月蠅いほどに鳴る心臓は押さえられないのに、それとは逆に心は落ち着いて行く。言葉もなくただ見つめ合っていれば、リーマスが先に口を開いた。


「君があまりに可愛い反応をみせるものだから、つい意地悪したくなってしまうんだよ」
「な…っ!」


 恐ろしい一言を囁かれ、弾かれたようにリーマスから離れようとしたものの、腕を掴んで引きとめられる。結局またはリーマスの腕の中に収まってしまった。これじゃあどっちが子どもか分からない、と思いながらも、もう先程のように抵抗しないのは、勤務時間が終わったからというだけではないことも、は自覚していた。





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(2011/10/11)