ホグワーツを卒業して二ヶ月間のことを、私は何も覚えていない。まるで自分に忘却術をかけたかのように、空白の二ヶ月間が存在するのだ。私は、気がつけば自宅のベッドの上にいた。するとそこには両親がいて、両目いっぱいに涙を溜めて私を見ていた。二人は何も語らない。「目を覚ましてくれて良かった」とそれだけだったのだ。聞かない方が良いのだろうと察した私は、結局その二ヶ月間、私がどこにいたのかも聞くことができなかった。 本来ならばその空白の時間は私に空虚を作るはずなのに、私はなぜかとても清々しい気持ちでいた。私の知らない二ヶ月の間に、何かとても大切なものを手離した気がする。それが何かも分からないのに、大切だったはずなのに、これでよかったのだと思える自分がいた。 (あー…良い天気…) もう十月も半ばだと言うのに、今日はなぜかとても穏やかな気候の日だ。最初こそさすがに体調を崩していた私だったけれど、気持ちも少しずつ前の自分の取り戻して来た私は、ようやく就職先を見つけ、仕事も始めた。休日にはこうしてふらりと買い物にもでかけるようになった。お土産のパンを抱えて、ふと私は空を見上げた。空は確かに秋の色だ。けれど軽い上着で十分なほど、日差しは温かい。呑気にも人混みの中で余所事を考えながらぼうっと歩いていれば、どん、と正面から強い衝撃を受ける。 「す、すみません…!」 前から来た人にぶつかるだなんて、私はどれだけ間抜けなのか。ぶつかった瞬間、相手の抱えていた本が地面にちらばってしまった。周囲の視線を浴びながら慌ててそれを拾っていると、相手も膝をついて制止の手を伸べた。 「構わないよ」 この温かい日に、夜のような暗い色のジャケットを羽織った男性。奇妙な格好だと思いながら、彼の手が本を集めて行く様をじっと見ていた。俯けば肩から流れたプラチナブロンドの髪はまるで絹糸のようで、女が悔しがるほどである。こんな人の隣を歩くには余程の美人でなければ務まらないだろう。自分のような人間にはどう考えても無理である。恐らく同じ年頃だが、こんなに目立つ人ならホグワーツの頃にきっと知っているはずなのに覚えがない。もしや他の魔法学校に通っていたのだろうか。 最後に、私が持っていた一冊を彼が手に取れば、元通り。先程は制した手を、今度は私が立ち上がるために差し伸べてくれた。そこでようやく彼の顔をしっかりと認識した。…アイスブルーの瞳は冷たそうに見えるが、私を見て微笑むとそんな印象は一瞬で消え去った。「あ…ありがとう」「いや、こちらこそ手間をかけさせたね」彼が言葉を発する度に、私の周りの空気が澄んで行くようだ。この感覚を、なぜか私は知っている気がした。 「…何か?」 「私…あなたのことを知っている気がする」 言ってから、はっとした私は自分の口を覆った。初対面に違いないはずなのに、こんなことを言うなんて気持ち悪い以外の何物でもないではないか。…しかし、目の前の彼はおかしそうに笑うだけで気分を害した訳ではなさそうだ。その笑い方を見て、やはりどこか懐かしい、どこか知っていると感じた。どこで見たのだろう、なぜそんな気持ちになるのだろう。 「知っているとも。君の後輩、ナルシッサの婚約者だからね」 「なるほど、それで会ったことがあるのね!」 しかし、少しも覚えていないなんて私の記憶力のなんと弱いことか。試験前で頭がいっぱいになっていたのだろうか。ナルシッサにも彼にも悪いと思いながら、納得した私は言葉を続けた。 「ナルシッサはとても良い子よ。幸せにしてあげてね」 「ああ、そう約束したからな」 彼は目を細めて私を見た。何を考えているのかはよく分からないけれど、ナルシッサならこの人と並んでもなんら遜色ないだろう。それどころか、美男美女夫婦になるに違いない。この人ならきっと可愛い後輩を幸せにしてくれるはずだと、少ししか話していないのに確信した。…いつまでも引き止めていては悪いと、「それじゃ、これで…」と彼を通り過ぎようとした。その時、ぐっと腕を掴まれる。驚いて彼を見上げれば、一瞬、ほんの一瞬だけ悲しみをその目に映し、すぐに微笑んだ。その僅かな表情の動きに、私は失恋したかのような痛みをちくりと胸に感じる。 「あ、の…?」 「いや、すまない。長々とすまなかったね」 「こちらこそごめんなさい」 何かもやっとしたものを残しつつ、私は彼と別れた。…名前も知らないのに、どこかで知っているような彼。なぜか安心感を覚えた笑み。懐かしい響きを含んだ声。やはりどこかで私は彼と会っているのではないだろうか。ナルシッサに紹介されただなんて、ただそれだけの関係ではなく、もっと何か強い繋がりがあったのではないか。 「待……っ!!」 さっきまでいた場所を振り返ったけれど、そこにはあの黒い後ろ姿はない。ただ、知らない顔が行き来するだけ。彼は、奇妙な胸の疼きだけを私に残して消えてしまった。どこかで会ったことがあるのでしょう?―――単純な問い、けれどその答えを聞いてしまえば、私の望んだものであれ逆であれ絶望しか残らないような、そんな気がする。予感とか、勘とか、そんな不確かなものから関係を憶測することは許されないことだ。…やめよう、変なことを考えるのは。せっかく体調も戻って来た、仕事も軌道に乗って来た、それに今日はこんなにも天気が良い。こんな穏やかな日に暗い悩みごとなんて似合わない。何か歌でも口ずさみながら帰ろう。 「I knew... that I never came in the winter that we spent...... I knew that the snow which we watched never fell...」 こんな春みたいな秋の日には、優しい旋律の別れを歌いながら。 |