さよならを告げに来た。











 飾ることをしないといるのは、とても心地が良かった。何の確証もなく、とはこのままでいられるのだと、そう信じた時期もあった。卒業も見えて来た七年生、互いに進路の話をしたことがなかったのは、薄々感じていたからだ。各々の道を歩まなければならにと。私たちの道は、卒業と同時に違えてしまうのだと。口にしてしまえば、今すぐにもを手離さなければならないような気がして、何も話すことができなかった。

 自分が間違いを犯していることに気付きながら、を離さなかった私は誰よりも罪深いのだろう。彼女は私を傷付けたと思っているようだが、それは違う。彼女がそうせざるを得ない状況に追い込んだのは他でもない私なのだ。

、君を選んだことを後悔したことは一度もない。君が私の学生生活を彩ってくれた」
「私も同じよ。私のたった一人の大切な人を見つけられたこと、とても幸せに思っている」
「運命とは無慈悲なものだな」

 しゃくり上げるを優しく抱き寄せ、腕の中に閉じ込める。もうこれが最後なのだと自分に言い聞かせながら。このままでは誰もが不幸になるばかりだ。も、ナルシッサも、皆が不幸になってしまう。私の間違った選択一つでこんなにも拗れてしまった関係、後を引き摺った痛み。欲しいもの全てを手に入れるなど、並大抵ではできないことなのだ。この先、私が力をつけて行けばまた別なのかも知れないが、それはが望むことではない。彼女は真っ直ぐな人間だから、力ずくで奪い取ることを良しとしないだろう。だからここで終わらせなければならない。どれだけ惜しかろうと、どれだけ彼女を愛していようと、外れた路線をゆくことは許されないのだ。

「ねえルシウス、家族を愛してあげて。きっと、愛した分だけ愛してくれるから」
「ああ」
「私だったら、自分という婚約者がいながら他の女性を思われるのは辛いもの。だから、ね」

 精一杯の強がりで笑う彼女は、儚くも美しい。そして何より、したたかだった。そんな彼女に、私は何度助けられただろうか。「いつも私が甘えてばかりね」と、いつだったかが零したことがあったが、それは違う。彼女にいつも甘えていたのは自分の方だった。彼女の手を引いて歩かなければならないはずの私が、幾度となく彼女に手を差し伸べられ、その手を取り歩いて来た。そして最後に、彼女に最も辛い選択をさせてしまったのだ。今だってそう、が本当はそんな言葉を言いたいはずがない。だから今度は私の番だ。彼女が彼女だけの未来を、これから歩んで行けるように。

「私なんかよりずっと幸せになってくれ。君にはその資格がある」
「…うん」
「私を忘れてくれて良い。その代わり私だけは永遠、君を覚えているよ」

 そっと手を離し、扉に手をかける。扉の閉まる小さな音は、私たちの終わりを告げる合図だ。もう、この扉の向こうには帰れない。例え、何度彼女が私の名を呼ぼうとも、そこで涙を流していようと。…けれど、どこかで期待をしていたのかも知れない。に逃げられようと追いかけた私のように、彼女が私を追い掛けてくれるのではないかと。扉を開けて、走って追いかけて来てくれるのではないかと。だから、わざと姿くらましを使わなかった。私も大概諦めの悪い男だ、口ではああ言ってもやはり彼女が惜しくて仕方がない。本当は、別れを言うためだけに彼女を追って来た訳ではないのだ。はなから無理強いをするつもりはなかった。けれど。

「っルシウス!!」

 乱暴に扉を開ける音がしたかと思えば、ドン、と背中に走る衝撃。後ろから回された腕は震えており、しかし苦しいほどに私を締めつけている。その力の強さに、離したくない気持ちは互いに同じなのだと感じ、不謹慎だが嬉しくなってしまった。…このままこの場に足を縫い止められ、動けなくなれば良い。いや、このまま時間が止まってしまえばいい。二人で共に消えてしまえればいい。けれど死を選ぶことだけはできなかった。それだけの勇気も度胸も、私たちにはないのだ。「離しなさい」「…いやだ」「、どこにも行かないから離しなさい」「………」渋々と行った様子で私を離す。後ろを振り返れば、ぼろぼろと涙をこぼしているがいた。真っ赤な目で私を見上げ、「行かないで」と訴えている。

「君を愛したことは嘘ではない」
「ルシ、…っ」
「いや、本当は今も……愛している」

 両手での顔を引き寄せる。今にも唇が重なりそうな距離で、やっと言いたかった言葉を告げる。愛している、その言葉の重さを今ようやく理解する。言うことに躊躇ったのは、彼女を縛る言葉に他ならないからだ。いや、そう思いながら実際は保身を図っていた。いつでも手を離せるように、諦められるように、彼女を探し始めて以来決して口にしなかった言葉。

 その後はもう、言葉など何も要らず、そんなものは無意味だった。まるで互いの息を止めようとでもするかのように、酸素を奪い合うかのように、深い口接けを何度も繰り返す。互いの唾液が混じり合い、どちらのものか分からなく程に何度も。卒業してからたかだか二ヶ月、けれど永遠にも等しい二カ月だった。まだ人生に絶望する歳ではないと、周りの大人たちは笑うのだろう。だがこれ以上ない絶望を垣間見るほどに、のいない二ヶ月は地獄のようだった。まるで生きている心地がしない、生き地獄のようだったのだ。

、あと一度だけ」

 すっかり息の上がってしまったは、言葉もなくただ頷く。彼女の肩を抱き、私は先程出たばかりの扉の内側へと足を踏み入れる。その罪の重さを思い知らせるように、やけに扉は重い音を立てて閉まった。

 あと一度だけ―――なんて卑怯な言葉だろうか。けれどそんな卑怯な言葉を私から発せられることを、きっとは望んでいた。彼女が追いかけて来た時に、それを感じていたのだ。本当は後悔だらけの私たちが、何もなく大人しく離れられる訳がない。だからこれきりだ、彼女の肌に触れるのは、彼女の体温を感じるのは。この腕に彼女を抱くのは、今夜が最後だ。彼女の目も、声も、手も、声も、温度も、何一つ忘れぬよう、この脳に、身体に刻みつけるように彼女を抱いた。彼女が初めて、気を失うほどに。

「来世というものがあるなら、、今度こそ私は君を選ぶだろう」

 眠る彼女に声をかける。身じろぎ一つせず、一定のリズムで落ち着いた呼吸を繰り返す。その髪を撫で、別れの挨拶にと額に口接けてようやく彼女の元を離れる。本当は朝までいてやりたいが、それではいよいよきりがない。

 もうが追いかけて来られないよう一つ魔法をかけて、私は一人暗い夜の中へ戻る。冬のように寒い風に背中を押されながら。





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(2012/8/10)