どうかもう一度だけ。











 ホグワーツ入学当時の私は、あまり何も知らなくて、ルシウスにも他の人たちと同じように接していた。けれど世間の色々なことが見えて来て、いつしかあまりにも住む世界の違う人と認識するようになっていた。

(でも、もう遅かったんだ)

 彼を別世界の人と割り切るには、自分の中の小さな恋心は育ち過ぎていた。これまで通りに接することに罪悪を感じながら、他の女の子たちとは違って私は彼を特別扱いしないのだという自分だけのスタンスに、自ら溺れていた。そして、そんな私に飾らない態度で彼が接してくれることには幸せを感じていた。そんな思いを一度してしまえば、一体どうやって割り切ることができると言うのだろう。駄目だと分かっていながら、引き際を失ってしまった私は、ただ彼を見つめた。彼だけを想い、彼だけに触れた。

 だが、彼はもう私だけに触れる訳ではない。私だけを思い、私だけを守ってくれる訳ではない。…私は、手元にある日刊予言者新聞を手に取った。真面目な魔法界についての記事から、下らないゴシップ記事もある中、私の目にとまった一つの記事は。

(“ルシウス・マルフォイ、ナルシッサ・ブラックと婚約”―――)

 仲睦まじく肩を寄せ合い、微笑む二人。それを見た瞬間、私は涙が出るよりも先に激しい嘔気に襲われた。新聞を放り投げて洗面台へ駆け込むも、暫く水以外をお腹に入れていないため、出て来るのは嗚咽ばかり。動悸に胸が苦しくなり、その場に崩れ落ちてしまった。何度も荒い息を繰り返し、落ち着いたかと思えばまた嘔気が込み上げて来る。何度もそれを繰り返し、ようやく落ち着いたものの、私はもう限界だった。人の幸せな記事を見て嘔気がするなど、失礼な話だ。けれど、ここまでに拒絶反応を程に私はルシウスを他の誰にもとられたくなかったのだと実感した。

 本当は、マグルの世界まで追い掛けて来てくれたことは泣くほど嬉しかった。あれほどマグルを嫌っていた彼が、なりふり構わず私のためだけに来てくれた、それが嬉しくない訳がないだろう。私だって、彼に駆け寄って、抱き締めて、本当はまだ好きなのだと叫びたいほどに、私は彼を今でも想っている。けれどそれは認められない。世間はそれを許しはしないだろう。いくら自由な時代とはいえ、しきたりや慣習、血筋を重んじる家はごまんとある。

(いつになったら終わるの…)

 マグルの世界に逃げるだけでは簡単に見つかってしまう。だから今度は海を越えた。さすがにフランスまで来れば追って来ないだろう。こうして彼には晴れて婚約者もできたのだ。そう自由には過ごせるはずがない。こうしてイギリスの魔法界と疎遠になれば、時間と共に忘れられる。記憶も薄れて行き、思い出も過ぎ去って行ってくれる。いつしか傷は癒え、また明るく過ごせる日はきっと来る―――私はそう願って止まない。いや、そう信じたいのかも知れない。

 けれど、私は汚い。私は愚かだ。もしかしたら、海を越えてもなお、追って来てくれるのではないかと心のどこかで期待している自分がいる。ナルシッサは在学中から私を慕ってくれていた可愛い後輩だ。優しくて、可愛くて、家柄も良い。ルシウスの親が、そして世間が見とめるのはナルシッサのようなお嬢様なのだ。私は血筋や家柄に興味はないし、自分の家を愛せど恨んだことなど一度もないが、血筋のせいで許されない恋なのだと思い知り、初めて良家の純血というものを恨んだ。

 覚束ない足取りでベッドまで辿り着くと、私はベッドに倒れ込んだ。イギリス魔法界と隔絶された世界―――この小さな無音の部屋は、寂しさを増幅させる。きっとどこにいてもそうなのだろうけど、この部屋のドアをルシウスがノックしてくれることを期待せずにはいられない。ここに届くのは日刊予言者新聞と、ごくたまに訳の分からない勧誘のチラシ、そしてさっき、新聞と共に両親からの手紙が届いた。家の梟は優秀だ。外国にいたって私の居場所を突き止めてしまうのだから。…籠に入っている灰色の凛々しい梟を見遣ると、長旅で疲れたらしく目を閉じて眠っていた。その姿に少し癒されながら、私はようやく両親からの手紙を開封した。愛する娘、へ―――そんな書き出しから始まった手紙。懐かしい母の字を見て、それだけで涙が込み上げて来るようだった。

 ―――ちゃんとご飯は食べていますか。出て行くから探さないで欲しいと頭を下げて頼まれてから、お母さんとお父さんはあなたが心配で心配でなりません。いくら成人してもあなたは大切な娘です。私とあなたは親子ですから、事情は何となく分かります。、あなたは優しく聡い子ですから、きっとお母さんとお父さんが言った“人を傷付けるような人間になってはいけない”という言葉を真面目に受け止め過ぎたのでしょうね。自分の気持ちを抑えるようなことをする必要はないのですよ。あなたの恋人を知った時、いつかこんな時が来るのではないかと思っていました。けれど、時には思うように動いてみなさい。我儘を言って困らせてみても、新たに見えて来る答えがあるかも知れませんよ。そして、帰って来たい時にはいつでも帰って来なさい。泣いていようが笑っていようが、いつでもあなたを抱きとめることはできますからね。  あなたの両親より―――

「違う、違うの…」

 人を傷付けたくないということは、即ち、人が傷付く様を見て自分が傷付きたくなかったのだ。けれど、ルシウスを選んだあの時、既に私はたくさんの人たちを傷付けた。ルシウスに恋をしていた女の子たち全てを傷付けたのだ。そして最後も。最後ばかりは望んで彼に冷たい言葉を放った。大切にしていた私から冷たい言葉で別れを告げられれば、彼にはきっと何かしら痕が残る。彼の記憶の中に私がきっと残ってくれる。結局、私は自分本位な人間なのだ。誰かに優しい訳でも、平等な訳でもない。自分が一番大切だった。

 ルシウスからは逃げられないのだと知った時、それでもイギリス魔法界に戻らなかったのは、彼と並ぶナルシッサを見たくなかったから。もう二度と彼と私が隣に並ぶ事はない。それを思うと、いくらナルシッサが可愛い後輩だろうと、私をどれだけ慕ってくれていようと、受け入れることも認めることもできない。たとえ過去の話であっても、彼の隣は私の場所なのだと思い込んでいたい。そういう愚かな女だ、私は。この先結ばれることがないことを理解しつつも、私以外の女のものになってしまうルシウスを、私は見たくないと思ってしまうのだ。

「私は、嘘だらけの女だわ…っ、ルシウス、あなたの好意が迷惑なわけないじゃない、会いに来てほしくない訳がないじゃない、探し出して欲しいに、決まってるじゃない…っ!」
「知っている」

 突如、背後から聞こえた声。嘘だ、まさか、そんなはずがない―――そう思いながらも、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、恐る恐る後ろを振り返る。そこには、今まさに望んだ人がいた。そんなにも急いで飛んで来てくれたのか、息は荒く、髪も乱れている。お互いにぼろぼろだ。

「君の嘘を、私が見抜けないとでも?」
「ごめん、なさ……!」
「謝らなくていい、それは私の台詞だ」

 つかつかと私の元まで歩み寄って来ると、私の手元に落ちている日刊予言者新聞を拾い上げ、何も言わずびりびりと引き裂く。そして最後に杖を取り出し、跡形もなく燃やしてしまった。再会の驚きが一変、その行動に呆然としてしまう。そのせいで涙も止まってしまった。今の私は大層間抜けな顔をしていることだろう。ホグワーツ在学中には決して彼が見たことのない、間抜けな顔を。それでも、そんな私でもルシウスは優しく微笑みかけ、冷えた指先で私の頬を撫でる。私の望んだ彼、私の望んだ指先、私の望んだ声、全てが今、私だけのもののような気がした。

「私にできることは何でもしたつもりだ。女遊びをやめ、だけを思い、を笑顔にするのも悲しくさせるのも全て私だった」
「そうだったわね…」
「けれど一つ、ただ一つだけは君に与えることができない。どうか、それを謝らせて欲しい」
「…いいの、分かっているわ」

 どれほどの財産よりも、どんな栄誉よりも、何よりも欲しかったもの。描くことさえ、もう許されないもの。それでもなお、子どものように欲しいと願ってしまうもの、望んでしまうもの。それきはきっと、私も彼も同じ。同じものを思い浮かべている。恋人同士になった当初は考えもしなかった、けれど時が経つにつれ考えざるを得なくなった。

「未来ね」

 私の未来に彼はいないし、彼の未来に私はいない。その現実を私たちは十分理解している。本当ならばこうして密かに会うことも許されないことだ。けれど世間の目も、恥も、外聞も、何もかも投げ捨ててでも、もう一度向かい合いたかった。私が一方的に終わらせたあの日を、ちゃんと終わらせることができれば、きっと今のように引き摺ることはない。嫌いになって別れを切り出した訳じゃない、本当はずっと傍にいたかった、けれどそれはもう割り切らなければならないこと。それならばせめて、嘘をついて消える以外の方法を他に考えればよかったのだ。二人で納得する方法を、二人で考えればよかったのだ。

「だが今だけは違う。今だけは君は私のもので、私は君のものだ」

 冷たい十月の風が窓を鳴らす。私が一人増幅させた寂しさと悲しみと孤独の影は、私を抱き締めてくれるルシウスが、半分背負ってくれた。だから今は寒くない。彼の温度をこの手で感じる内は、寂しさも、悲しみも、孤独も半分だ。

 人が傷付く所を見たくないと、ずっと思って来た。自分が傷付きたくなかったから。だけど今は思う、傷付かないで欲しいというよりも、幸せになって欲しいと。私といては、ルシウスは家からも叱責を受ける。それだけで済めば良いが、私を選ぶことで勘当されれば取り返しのつかないことになってしまう。彼に日陰は似合わない。もう、十分だろう。ここまで追って来てくれた、私との未来のことを一瞬でも考えてくれていた。それが分かっただけで十分だ。だから私はもう一度別れを告げよう。もう、駄々をこねるのはやめよう。彼には、マルフォイ家の当主らしい未来がきっと似合う。

「ルシウス、今日でお別れよ」
「……ああ」

 そして静かに目を閉じて、私は彼とキスをした。





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(2012/7/9)