何度も何度も捨てようとした。











 お店に戻っても、私は仕事に身が入らなかった。店長は私を店の奥に引っ込ませ、伝票処理など一人で打ち込める仕事をくれたが、いつもの何倍も時間がかかってしまう。やがて店を閉める時間になると、店長は最後に一杯の紅茶をいれてくれた。店長の紅茶は温かい。優しさで溢れた味がする。人柄というのは、味にも出るらしい。だから、これ以上は迷惑を掛けられない。ルシウスが現れた今、個人的ないざこざに店を巻き込みかねないだろう。感謝の気持ちしかないというのに、今以上の迷惑をかけてしまうのならば、私はここを離れるべきだ。

 魔法界を飛び出したのが間違いだったのだろうか。所詮生粋の魔女は魔法界でしか生きられない、そういうことだろうか―――水仕事で随分と荒れた両手を見つめ、後悔する。

(それとも、ちゃんとルシウスと話を付けるべきだった?)

 無理矢理彼を振り切るのではなく、互いが納得した上で別れるべきだったのだろうか。あの時はただ、ルシウスの前から姿を消すことに精一杯で、後のことなど考えていなかったのだ。マグルの世界へ逃げ込めば、きっとルシウスは追って来ないと信じていた。彼のマグル嫌いと私への気持ちなんて、比べるようなものではないと思っていた。

 ルシウスが二度、私に聞いた言葉を思い返す。「私の好意は迷惑か」―――迷惑な訳がない。嬉しくない訳がないのだ。迷惑だったらこんなにも悩んだりなんてしない。嬉しいと認めてはいけないはずなのに、どうしても嬉しいと思ってしまう自分がいる。どちらも本音だ、だから板挟みになってこんなにも苦しい。もし、あのまま彼の腕の中へ飛び込んで行けたなら、どれだけ良かっただろう。全てを捨てる覚悟で彼に縋りつけたなら、どれだけ幸せだっただろう。

(たとえ、その先に地獄が待っていたとしても…)

 ルシウスがいるなら、耐えられたとでも言うのだろうか。それこそ浅はかだ。一時の感情に任せてしまえば、後に残るのは後悔だけ。ほんの一瞬だけの幸せなら、後悔や罪悪感の方が大きいなら、私はもう傷付きたくはない。自分勝手だと言われようと、ルシウスとはもう関わりを持たないと決めた私なりのけじめなのだ。

「......It was a cold day......When it snows, disappear again...」

 彼との始まりは、しんしんと雪の降る日だった。ホグワーツの庭は真っ白な世界と化していて、私はその真ん中で一人、止むことのない雪の生まれる空見上げていたのだ。そんな私に声をかけて来たのがルシウスだった。







「風邪をひくぞ、
「あなたに心配されるほどか弱くないわよ」
「どうだか」

 頼んでもいないのに、彼は自分のマフラーを私に巻いた。自分のと、彼のと、二重に巻かれて息苦しいが、確かに首に触れる冷たい空気が少なくなった。ついでに彼は、私の頭や肩に薄く積もった雪を払う。

「女の子にはみんなそう(・・)なの?」
「どういうことだ?」
「普通の女の子たちなら勘違いするでしょう。私はしないけど」
「それは残念。だが勘違いする方が悪い」

 外面のいい彼には、必ず何か別の顔があるとは思っていた。誰もかもに優しいだなんて、そんなのは嘘だ。私は常日頃から彼の微笑みは胡散臭いと感じていた。それでも、指摘されれば否定すると思っていたと言うのに、こんなにもあっさり彼から暴露するとは驚きだ。私は少なからず動揺を隠せなかった。そんな私をおかしそうに喉を鳴らして彼は笑った。

「…なんだ、ちゃんと笑うんじゃない」
「君は私をなんだと思っているのだ」
「気取った金持ち」
「そういう真っ直ぐな所を気に入っている」
「いや、訳が分からないんだけど」

 呆れた私の顔の輪郭を、冷たい指先がなぞって行く。けれど私の頬も十分冷え切っていたため、別段驚くようなことはない。薄く笑う彼は、すると、ゆっくりと顔を近付けて私の目を覗き込んだ。彼の行動の真意が分からず眉根を寄せれば、ふ、と笑って冷たい唇を重ねて来た。私はさして驚きもせず、抵抗もせず、ただ棒立ちになったまま彼の唇を受け入れる。何かを考えるよりも先に、ゆっくりと瞼を下ろしていた。

「簡単なことだ、嫌でも分かる」

 目を閉じる瞬間、私の視界に映っていたのはけがれを知らない真っ白な雪ではなく、新たな獲物を狙うかのようなアイスブルーの瞳。あの目と視線が交わった瞬間から、私の運命は決まっていたのだろうか。







 どうやら転寝をしてしまっていたらしい。頭の下敷きになっていた腕がじんじんと痛む。…懐かしい夢を見てしまった、と私は更に自分を責めたい気持ちでいっぱいになった。もう何年前の話になるのだろう。三、四年くらいだろうか。まだ、あの時の私はその後のことなど何も考えていなかったのだ。自分だけを見てくれるルシウスに、私もまた心を傾けた、気持ちを注いだ。私もまた盲目なほどにルシウスしか見えていなかったのだと思う。恋は盲目とはよく言ったものだ。本当にその通りだからどうしようもない。

(私は馬鹿だわ…)

 もう死んでしまったはずの恋が、こんなにも簡単に息を吹き返すなんて。だからルシウスには会いたくなかったのに。会えばきっと思い出してしまう、期待してしまう、また何度でも何度でも心を砕いてしまう。好きなのだと叫ぶ心、それを抑えられずに彼の元へ走って行ってしまいそうな自分が怖い。手離さなければならないと頭では分かっているのに、言うことを聞いてくれない私の心。別れを告げたあの日に枯れたと思っていた涙が、再び一粒だけぽろりと落ちた。

 だめだ、まだ私はルシウスを思ってしまっている。





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(2012/6/7)