二年、三年と恋人関係が続いた相手がいた。そこに終止符を打ったのは私で、別れを告げたのは卒業式だった。彼、ルシウスはなぜか、多くの女子生徒の中から私を選んだ。私が女関係の派手な男は嫌いだと言えば、ぴたりと女絡みの噂は途絶えた。こいつは馬鹿なのかと思いながらも、私に対してこれ以上ないほど誠実に向き合ってくれた彼に絆されたのは私。今思えばあれも策略の内だったのかと思う。 一か月持つか、いや、一週間持つのかどうか自分の中で賭けをしていた訳だが、気付けば学年を二つ上がった。ホグワーツ最後の年、私はいつ彼に別れを切り出すかということばかりを考えていた。けれどいつしか心地好くなっていたルシウスの隣を、誰か違う女の子に引き渡さなければならないのかと思うとどうしても嫌で仕方なかった。私の目の届く範囲でルシウスが他の女子生徒と歩いている所なんて見たくなかった。結局そんな下らない意地を張り続けた私は、卒業式当日になるまで言い出せずにいた。 なぜ別れようと思ったのか。それを問われれば簡単に答えられるものではない。恋人としてはルシウスはとてつもなく魅力的な人間だった。私が心を砕けば砕いた分だけ返してくれた。求めた分だけ与えられ、求められた分だけ与える、私にとってはとても心地の良い距離感とバランスだったのだ。けれどその先を考えた時、私は感覚的に何もないと思った。いや、そもそも私にはルシウスとの未来はないと思ったのだ。 卒業から二カ月、一方的に別れを押しつけて早二ヶ月だ。その間ルシウスからの音沙汰は一切ない。というのも、私の今いる場所が場所だからだと思う。 「、元気がないじゃないか」 「そりゃあ私だって人間だもの、本調子じゃない時くらいあるわ」 声を掛けられて振り返れば、ここの常連客の一人であるおじさんがカップを掲げてお代わりを頼んだ。…私は今、マグルの世界で生活している。それも限られた人しか来ないような細い路地の一角にある小さな小さなカフェだ。決して賃金は高くないけれど、住み込みで働かせてもらっているのだから贅沢は言えない。幼い頃から突拍子のないことばかりをして来た私に家族は、行き先を告げずに家を出ることも今更驚かなかった。時々梟便で手紙を送っているけれど、住所は決して書いていない。 それほどまでに、私の逃走は本気なのだ。ルシウスが絶対に追い掛けて来ないような場所と言えば、純血主義の人間なら絶対に近付かないような場所―――マグルの住む世界である。それにはここはあまりにぴったりだった。 「じゃあ今日はの歌声は聞けないってか」 「お望みならば歌うけれど、今日は高くつくわよ?」 「すっかり商売上手になったもんだ。ほら、これでどうだ」 紙幣を私の手にくしゃりと握らせると、歯を見せておじさんは笑う。そんな私たちのやり取りを見ていた他の客たちも色めき立って来た。狭い店内だ、客と店員の会話なんて嫌でも耳に入る。そんなアットホームな所が好きなのだが、今日ばかりはやれやれと苦笑いをすると、髪を縛っていたリボンをほどき、エプロンを店長に預けた。カウンターの前に立つと、ぱらぱらと拍手が起こった。その中でただ一人一生懸命拍手をしているのは私に声をかけたおじさんだけだ。 一度肺の中の空気を全て吐き出し、そして大きく吸う。 「It......It was a cold day. When it snows, disappear again...」 声と歌にだけは自信のあった私は、こうしてお店で歌うことがある。それはお店の記念パーティーだったり、お客さんにリクエストをされた時などだ。最初は私が鼻唄を歌っていただけだった。それが一人の客の耳に止まり、いつしかこうして歌うようになっていた。 「Though I promised that it must become strong many times, it was no use again...」 最後のワンフレーズを歌い終えると、今度は大きな拍手が起こる。ステージの上にいるかのようにお辞儀をすると、更に拍手が起こった。…私がこのお店に採用された理由の一つにはこの歌があったのだ。こんな小さな店になぜ私のような卒業したての女の子が、と店長は訝しんで不採用にしようとしていたのだが、唯一の特技である歌を披露し見事採用されたのであった。店長は私の身の上について深くは聞かないでいてくれるのだが、冷たいのではなくむしろ情に厚い人物だ。そんな店長にひかれるのか、ここの客もみな良い人ばかりだった。そして誰もが何かを抱えながら、ここにひと時の安堵を求めにやって来る。そこに私の歌は合っているのだと店長は言ってくれた。 「だが、そんな良い声持ってんなら早く恋人の一人や二人作れば良いんだ」 「できればとっくにしてるわよ」 「俺があと十年、いや、二十年若ければなあ」 「お前さんみたいなやつ、三十年若くてもには相手にされやしねぇ」 「んなこたぁねえだろうよ、なあ?」 「さあ、どうかしら?」 ホグワーツ在学中には、まさかマグルの世界で生活するなんてことは考えたこともなかった。魔法省みたいなとんでもない所で働くことはないにしろ、きっと私なりに魔法界の片隅ででも生きて行くのだろうと、そんな平凡な未来を想像していた。けれど実際はこんな薄暗いカフェで魔法を一切使わない仕事をしている。生まれる前から魔法界にいた私にとっては、魔法を一切使わない生活というのは不便ではあるが非常に刺激的だった。 何もかもを自分の手で行って行くという充実感を得ながらも、卒業して二ヶ月、風を時折冷たく感じながら心の中にも隙間風が通り抜けて行くのを感じていた。目覚めが悪かったのは、あのルシウスを夢で見たからかも知れない。夢の中で最後の別れだけが綺麗に再現されたのだ。終わりにしましょう、と言った私を、ルシウスはこれ以上ないほど目を見開いて見つめた。そして彼の言葉も待たないまま、私は「これでさよならよ」と背を向けたのだ。あれから二ヶ月、彼のことだからもう新しい恋人くらい出来たのかも知れない。それとも。 (ナルシッサ…) 私の後輩であり、ルシウスの婚約者であるナルシッサ。私が言えた立場ではないが、ちゃんと向き合ったのだろうか。最後の一人だった私を切って、ナルシッサに気持ちを向けたのだろうか。…そう思うと、やはり心が軋む。好きで別れた訳じゃない。嫌いになった訳じゃない。ただどうしようもなかった。だからこそ、心の虚は埋められないまま、なんとか他の何かで満たそうとしているのだ。けれど、どうやらそれすら上手く行ってないらしい。一気に熱気に包まれた店内、それなのに私は一人、壁一枚隔てた場所にいるような心地だった。 その時、新たな客を知らせる店のベルが鳴る。反射的にそちらを見て、私は呼吸が止まった。 「店長殿、こちらに・という者はいるか」 「は……?」 冬の朝のように静かで澄んだ声は、張り上げた訳でもないのに一瞬で店内を静かにした。古びた建物、良いとは言えない身なりの者ばかりが集まった店内、北向きな上に窓の少ないせいで昼間なのに薄暗く感じる造り、そこにはまるで似合わない、異質な人物。上等な黒のコートをドアからの風で靡かせ入って来たのは、今まさに思いを馳せていたルシウス。一目で良家の生まれだと分かるルシウスと、しがないカフェ店員の私を、客たちは交互に見る。店長が答えるまでもなく、彼は私をその目で捉える。 「……やっと見つけた」 つかつかと早足で私に近付くと、痛いほど強く私の手首を掴む。学生時代には見たことのない熱を持った目で真っ直ぐに見つめられ、私は息も瞬きも忘れてしまった。何かを言うこともできず、なぜ、どうしてと問うことはたくさんあるはずなのに、思考さえも正常に働かないようだ。 放心状態とはこのようなことを言うのだろうか。彼のなすがまま、私は店の外へ連れ出され、誰もいない閑散とした路地裏に連れ込まれた。その間ルシウスは一度も言葉を発さず、私は早足で歩く彼について行くことで精一杯だった。止まる頃には息も上がっていて、違う意味でまともに息もできやしない。それなのに構わずルシウスは私の両肩を強く掴むと、間髪入れずに抱き締めて来た。ようやく我に返りもがくも、彼の力になど叶うはずがない。それでも抵抗していると、急に加わっていた力がなくなり、簡単に彼の身体が離れる。反動で私も後ろへよろけてしまった。 「い…いい加減にして!」 「それはこちらの台詞だ、。なぜいきなり別れを告げた、なぜ姿を消した」 「理由を言って聞くあなたじゃないでしょう」 「当たり前だ」 「何も言わずに消えた理由はまさにそれよ。言って納得するような人間じゃないことくらい知ってる」 「お陰で二カ月かかった」 そんなの、知ったことか。心の中で毒づく。私の決死の覚悟を、ものの二ヶ月で踏みにじったのだ。知ったことか。別れると言う決断を下すのに一年悩んだと言うのに、たった二ヶ月、それがなんだというのだ。ぎり、と奥歯を噛み締める。どうしても顔を観ることができなくて、じっとアスファルトを睨んだ。 「ご苦労なことね。でも私は戻らないわ」 「、」 「帰ってよ!」 ぽたり。雨のようにアスファルトに涙が降った。すると、ゆらりと影が動き、何かと思う間もなく唇が重ねられる。二か月前までは何度も繰り返したその行為に嫌悪を感じ、必死で身を捩る。けれど壁際まで追い詰められた私に逃げ場はなく、もがこうが何をしようが離してくれそうにない。好ましくはないが、こうなっては仕方がない。私は一度、ぎゅっと右手を握ると、ルシウスの唇を噛んだ。そして離れた隙に右手を振り上げる。 「これはこれは…」 乾いた音が路地裏に響き、口の中にはじわりと嫌な鉄の味が広がった。 |