アトリエ * 02



「ルシウス…それが私の名前なのか」
「ここにそう書いてあるんだもの」

 彼の着ていたジャケットらしきものを漁ってみたが、特に身元の判明するものは所持していなかった。しかし唯一の持ち物であったステッキには、彼の名前と思しき名前が彫られていた。そのステッキも上等なもので、私の手では触れることも憚られるような気がした。名前がないのも不便なため、彼をとりあえずはルシウスと呼ぶことにした。彼も構わないようで、軽く了承してくれた。

 驚いたのは、彼は家事の一切ができないことである。コンロのつけ方も知らず、冷蔵庫を「これは何だ」といい、果てには、電気のつけ方も知らなかった。これは、一緒に生活するには大変どころか、ますます彼に疑念を抱かざるを得なくなった。高貴な身分どころか、本当に中世からタイムスリップして来たのではないかというファンタジーな妄想に拍車がかかるばかりである。そんな現実離れしたことがこの世で起こっていいはずがない。しかし、それを信じるしかないほどに、ルシウスは何も知らないのだ。

「服も貸すわね。そんな格好じゃ動きづらいだろうし、ボロボロでしょう。直せるところは直すから後で貸してちょうだい」
「すまない」

 あちこち破れた元は上等であっただろう服は脱ぐように伝える。すると早速その場で脱ぎ始めるルシウス。慌てて私は目を背けるが、彼は何も気にしていないようで、呑気に「どうしたんだ」などと問う。いくら記憶がないといえど、恥じらいくらい持って頂きたい。いや、記憶をなくしている間が一番人間の素が出やすいと何かの本で読んだことがある。とすると、彼はもとより人前で服を脱ぐことに慣れていたのだろうか。そこまで考えて、人前で脱ぐことに慣れているってどういう生活だ、と考えを改める。…チェストの中を探りながらちらりと後ろを見ると、確かに色は白いし引き締まった無駄のない身体をしてはいる。学生時代にはさぞかし女子生徒から人気があったのだろう、と想像し、自分は意外と妄想が激しいことに気付いてしまった。

「男物の服を持っているのか」
「兄のものよ。同じくらいのサイズだと思うのだけれど」
「ああ、大丈夫だろう」

 言いながら、適当に探し出したYシャツとジーンズを手渡す。恐らく、普段の彼ならこのようなラフな格好はしないだろう。渡した兄の服と引き換えに、彼の着ていた服を受け取る。コートの方はかなり上等な生地だが、破れや穴が酷く私の手では修復は不可能だろう。中のシャツは、これもまた上等なものだが、コートが厚手だったお陰か、あまり目立った破損はない。ただし、血液の汚れが酷く、きれいに落ちるかどうかはやってみないと分からない。とりあえず、時間が経つほど落ちにくくなるため、私は早速洗濯することにした。やがて、シャワー室でシミを落としていた所へルシウスが現れた。意外とそのラフな格好が似合うことにも驚きだが、プラチナブロンドの長い髪はあまりにもミスマッチだ。そもそも今の時代、ここまで髪を伸ばしている男性もそう見かけない。しかし初対面で髪を切れというのも気が引けるので、何も言わないことにした。

「小屋にしては随分凝っているのだな」
「貰い物ですけどね」
「ほう」
「兄の友人が譲ってくれたんです。かなり裕福な家の人だったので…」
「なるほど」

 正確には、兄が国を離れる友人に譲ってくれるよう頼んでくれたのだ。夏休みだけでなく、普通の生活もできる程度には設備も整えられているのである。別荘というには小さいかも知れないが、およそ同じようなものだろう。部屋も二部屋あるため、片方をアトリエにし、もう片方を寝室にセッティングしていた。ここで私は、夏休みの間だけ一人暮らしを満喫しているのだ。山奥といえど、自転車を飛ばせば十五分程度で街に出られ、立地も上等。更には、兄が来た時に使っていた簡易ベッドまで残して置いたのは正解だった。これでルシウスと私が寝る場所に困らなくて済む。

 こういった小屋もルシウスは珍しいらしく、あちこちをきょろきょろと見渡す。特に見られて困るものはないため、私は洗濯に勤しむことにした。こつこつという靴音が遠ざかる。恐らく他の部屋を見に行ったのだろう。ドアが開いては閉まり、開いては閉まる音がする。そして、ある一つのドアを開けて、そこで足音は止まった。きっとあのアトリエを見たのだ。絵の具のにおいで充満するあの部屋。いくつものいくつもの絵が置かれているあの部屋。「私のアトリエよ」思った通りの部屋の前にいたルシウスに声をかける。

「絵を描くのか」
「美大生だもの」
「ビダイセイ?」
「えーと…美術の学校よ。私は絵画の学科の生徒なの」
は絵描きになるのか?」
「狭き門だから分からないわ。コンクールでもたくさん賞とらないと難しいしね」

 ルシウスはやはり、よく分からないというような顔をしている。しかし、部屋にゆっくりと入って、壁に掛けてある絵や、無造作に置いてある描きかけの絵などをまじまじと見つめた。

 頭の良い兄とは違い、ぱっとしない成績だった私に、絵を描いてみてはと勧めたのは兄だった。確かに小さい頃からお絵かきは好きで、その延長で美術の成績も良かった。私に絵を習わせてくれと両親に頼んでくれたのも兄だ。今こうして、美術の世界にいるのは、全て兄がきっかけだった。けれど今は連絡を取れずにいる。いや、私が取らずにいると言った方が良いのだろうか。…急に黙った私を不思議に思ったのか、ルシウスは私の頭を撫でた。その容姿とは裏腹に、やや荒っぽい。そのギャップにおかしさを感じて思わず噴き出したが、当然、彼は何に私が笑っているのか分からなかったらしい。すると面白くないルシウスはむっとして、話題を変えようとしたのか「腹が減った」などと言い出す。そう言えば、倒れているところを発見してから彼は何も口にしてないのだった。元の部屋へ案内し、とりあえずはスープ温め直す。もうそろそろお昼でもあり、その間に準備をしてしまおうと冷蔵庫を開けた。

「私には絵のことは分からないが」
「え?」
の絵は好きだと思う」
「それって直感じゃない」
「色使いや雰囲気は好きだぞ」
「…ありがとうね」

 綺麗だとか、美しいだとか、そういった言葉ではなく“好き”という言葉は何よりも嬉しい。少し照れながら礼を言うと、ルシウスも小さく笑った。その表情の美しさに、時が止まったかと思った。そのままでも十分ではあるが、消えそうな笑い方をする彼は、この小屋に場違いな美しさを持っている。思わず私は息を呑む。すると私の視線に気付いたルシウスはこちらを向き、「手が止まっているぞ」などと偉そうにも指摘する。けれどそれにさえ「あ、ああ、うん」とぎこちなく返事をするしかない程、どきっとしてしまった。異世界を感じさせる彼の纏う雰囲気に距離を感じつつも、好奇心も生まれる。まだ少し速い鼓動を感じながら、私は再び冷蔵庫の中から野菜を取り出したのだった。





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(2012/09/06)