まだ太陽の昇る前の夏の早朝。私は絵を描きに外へ出た。山奥の小さな小屋―――私は毎年、夏休みはここで夏を過ごしている。人のいない山の中が、絵を描くには集中できる良い環境なのだ。時折街にも出るけれど、普段都心の大学に通っている分、こういった静かな場所で心身を落ち着ける時間は大切だ。ここで気持ちを浄化し、また新たな作品に取り組む。そうすることで私は毎年秋のコンクールで賞を貰って来た。けれどまだ一度も最優秀をとったことがない。今年こそは、と思っているが、未だ納得の行くアイデアが浮かばないのだ。 (そろそろ帰ろう……) 安いスケッチブックと鉛筆を手に、毎朝こうして軽いスケッチをしに小屋を出るのが日課だ。しかし今日はあまり筆が乗らない。きっと描き続けても同じ、きりがないだろう。片付けると小屋への道を再び辿る。さっきまでは清々しい朝だったのに、少し雲行きが怪しい。一日でこうも天気がころころ変わるのはイギリスの気候の特徴だが、生まれた時からイギリスで過ごしている私にとっては珍しいことではない。これが普通なのだ。大学で他国から来た友人は「やってられないわ!」と嘆いていたけれど。それに私はスポーツ選手ではなく、美術を専攻している学生だ。一年を通して中での作業の方が多い私の生活に、天気はそう支障を来さなかった。もちろん、湿度が高すぎると紙が湿気を含み、また少しばかり感覚も変わっては来る。荷物が多い日に雨は困るが、言っていても仕方ないのが天気というものだ。 ところで、今日はどうして過ごそうか。調子が良くても悪くても、コンクールの提出期限は迫って来るのだ。期限は九月末、それなのに何のインスピレーションも浮かばない。無理にひねり出そうとしても私の場合は無理だろう。そうなると、一度何も描かずに過ごす時間を作ろうか―――ぼんやり、そう考えていると、あっという間に小屋に帰って来た。けれど、ドアの前に何やら大きな黒い塊が落ちている。あれは一体何だろう。上から落ちて来た、にしては、あんな大きな物が落ちて来る音は一切しなかった。それ以前に、あれは物なのか、別の生き物なのか。ここは山奥深くなどではないが、山奥から獰猛な動物が出て来ないということがない訳でもない。運よくこれまで出会わなかっただけで。…息を潜めてその黒い塊をじっと見つめる。その瞬間、大きく風が吹き、黒い布がはためいた。それと共に見えたのは銀色の長い髪。 「人だわ!」 荷物を放り出して慌てて駆け寄る。近付いてみれば、黒い布はあちこちが破れたり穴が空いていたりとボロボロだった。まるで生身で闘争に足を突っ込んだかのように。顔も深く隠している布を退けてみると、奇妙な仮面をつけている。それも血で汚れていて、よくよく見れば黒いぼろ布の下は傷だらけだった。しかし手にはしっかりと銀の細工が施されたステッキを握っている。 「ちょ、ちょっとあなた!起きて!」 呼び掛けながら顔の半分を覆う仮面に手をかけた。その瞬間、息を呑む。まるで彫刻のような端正な顔が、そこには隠されていたのだ。男性だが美しいと言う以外に言いようがない。白い肌、長い睫毛、通った鼻筋、薄い唇―――それは映画の中から出て来た中世の貴族のようだ。私よりは年上だろうが、三十代ではないだろう、二十代前半から半ばではないだろうか。「う…ん……」小さなうめき声にはっとして、私はまた彼を揺さぶって大声で呼び掛けた。 「寝ちゃ駄目よ!起きて…起きてよ、ねえ!」 苦しそうに眉根が寄り、瞼が僅かに震えたが、それまで。その人はまた気を失ってしまった。肩を叩いたり体を揺すってみたりしたが身じろぎ一つしない。脈は触れるし息もしているが、身体に触れるとどろりとした血液が私の手に付着した。早いところ止血しないと、失血死でもしたら大変なことになる。…その奇妙な身なりなど気にしている暇もなく、自分よりも遥かに体格の良い男性を小屋の中へと運んだ。ベッドが汚れるのも構わず横たわらせ、黒い布を剥いでみると違う時代の貴族のような格好をしていた。しかしその高貴そうな服も焼けたか焦げたか酷く汚れており、やはり赤黒い血が滲んでいる。ここまで酷ければ構わないだろうと、びりびりと引き裂いてその傷の状態を見ようとした。 しかし、肌を見てみると傷口らしい傷口は見当たらない。確かに多少の擦り傷や切り傷はみられるが、目立った傷は何もないのだ。となると、もしやこれらは全て返り血というものなのか。他にも怪我はないか背中や足を見てみたが、特に何もないようだ。ほっとして私は彼の服を再度閉じる。着替えさせるにしても、彼が起きなければできそうにない。とりあえず、血や泥で汚れた所だけタオルで拭い、彼が目を覚ますのを待つことにした。 その間に、小屋の前に放り出した荷物を取りに戻ったり、画材で散らかった部屋を軽く片付ける。窓を開けて絵の具のにおいのこもった部屋を解放した。もしかしていいアイデアが浮かばないのは、ずっと部屋に閉じこもって一人で過ごしているからかも知れない。一度、こうして窓を開けて風通しを良くするべきなのだ。…そうして片付け始めたら止まらなくなり、あちこちを掃除していると、あっという間にお昼になっていた。昨夜の残りのスープをマグカップに注ぎ、それを片手に彼を寝かせた部屋を覗くと、彼はまだ眠っているようだった。しかし先程よりは幾分か表情も呼吸も落ち着いている。改めて見ると、本当に綺麗な顔立ちをしている。どんな瞳をしているのだろうか―――閉じられた瞼のその奥にある瞳の色を想像しながら、私は椅子を引っ張り出して来て腰掛ける。温かいスープを飲みながら、ただじっとその顔を見つめた。 (まさか中世から飛んで来た、とか……はは、まさかそんなファンタジーなことがあってたまるかっていうの…) 馬鹿なことを、と思い、残りのスープを一気に飲み干す。やや熱いそれが喉を下って行くのを感じる。そのせいでほんの少し暑くなり、手でぱたぱたと顔を扇いだ。その時、ベッドで眠る彼がまた小さく唸り、身じろぎする。睫毛が震え、とうとうその瞼がそっと開かれた。サイドテーブルにマグカップを置いて、すぐ傍に寄ると、ガラス玉のようなアイスブルーの瞳がこちらを見た。私は息を呑んだ。思わず言葉を失う。 「……君は…ここはどこだ…」 頭を押さえながら起き上がろうとする彼の背に手を添える。…全てが作られたもののようだ。不謹慎だが、乱れた髪や倦怠感の滲む表情さえも美しく思える。私は彼の背を支える手が震えるのを感じた。そして、ぎこちなく彼の質問に答えを返す。 「わ、私は、ここは私の小屋で…あなたは今朝、小屋の前に倒れていて…」 「…………」 「そう、これ、あなたはこれを握っていたのよ」 繊細な細工が施されたステッキ、それは決して安いものではないだろう。しかしそのようなものを持つ人間も、今やほとんど見かけない。もしかして、本当に彼は時代を越えてやって来た人物だったりするのだろうか。小説や映画ではよくある題材だ。あんなものはフィクションで、現実ではきっと有り得ないこと。そう思っていたのに、そのまさかが有り得るのだとしたら、私は今、すごい現象に立ち会っていることにはならないか。 彼はステッキのあちこちを品定めするかのようにじっと見つめる。細工に触れてみたり、何やら文字が彫られている部分を解読したりしているようだ。口を閉ざしてしまった彼にかける言葉が見つからず、私も黙りこくってしまう。いや、言葉を発することが禁じられたかのような張り詰めた空気が漂っていたのだ。私は大人しく彼から何かを問われるのを待った。しかし、彼の口から飛び出たのは、予想だにしない言葉だった。 「私は、誰だ…?」 演技とは思えないその言葉に、私はいよいよ凍りつく。顔を引き攣らせ、「誰って……」と、それだけ言うので精一杯だ。この人が誰かなんて、私が一番聞きたい。とんでもない拾いものをしてしまったと、改めて思う。彼を一旦助けて、けれどすぐに目を覚まし、スムーズに進めば今日中にはさようならのはずだったのに、そう上手く行くような問題ではないらしい。困惑したように眉根を寄せる彼に、私はただ立ち尽くすしかできなかった。 |