どうしてものことが気になり、少し遅れて僕も医務室へ足を運んだ。伸ばしては引っ込めて来たこの手で、やはり彼女を確かめようと思った。卒業してしまえば、互いに関わりなどなくなってしまう。そうすればいよいよ彼女に触れることなどなくなるのだ。身分や済む世界が余りにも違う僕たちは会うことすらできなくなる。冷たく見えるあの白い腕は、一体どんな温度を持っているのだろうか。腕だけではない、あの首も、頬も、手のひらも、彼女の持つ体温に余すことなく触れたいと思う。 けれど、何度か躊躇った後、ようやく僕は医務室の扉に手をかけようとした。すると、それより先に扉が開く。中から出て来たのは、先程を運んだシリウスだった。お互い驚いたものの、シリウスは妙に納得したような顔をして「一番奥だよ」とだけ言うとすぐに去って行った。何を言いたいか分かってくれる友人がいることは有り難い。 足音に注意して彼女が休んでいると言うベッドに近付く。他には誰もいない医務室で、僕の足音だけが大きく響いた。午後の日差しの差し込む医務室で、背中を汗が伝う。この足音が近づく度に、彼女は一体どんな思いをしているのだろう。僕なのだと気付いているのだろうか。一番奥のベッドまで辿り着く頃には、緊張も最高潮に達していた。 「……?」 人の居る気配はあるのに返事はない。眠っているのか、眠ったふりか。後者にかけて、僕はもう一度彼女の名を呼んだ。 「、起きてる?」 「………うん」 「開けるよ」 「待……っ」 の答えを待たずにカーテンを開けると、そこにはストールもネクタイもしていない彼女がいた。勿論ローブもセーターも着用していない。それどころか、襟元のボタンはいくつか外れており、首には黒い影が少しだけ見えている。焦る彼女は言葉もなく襟を掻き合わせて僕に背中を向けた。身を縮ませて肩を震わせる。その肩に触れたいと思う僕は残酷だろうか。暗黙の了解のもと、互いに守って来た領域を荒らしに入る僕を、彼女は嫌うだろうか。 「ずっと抑えていた」 「…………」 「、君に触れればもう後戻りはできなくなると思った。君に触れずに過ごすことなんてできないって」 「…………」 「僕なんかに思われることは、君にとって迷惑かも知れない。けれど、」 「そんなことない!」 勢いよく振り返った彼女の目からは、今にも涙が零れ落ちそうだった。唇を震わせて何かを訴えようとするも、言葉が出て来ないようだ。僕も、まさか彼女がそんな大きな声を上げるなど思いもよらなかったため、ただ目を丸くして彼女を見つめるだけ。僕たちの間にはたった数十センチの距離しかないのに、手を伸ばし、の涙を拭うことすら未だ躊躇われる。涙に触れれば最後、僕はきっとそれ以上を望んでしまう。今この一瞬だけではない、これからを彼女に望んでしまうだろう。 境界線を破るとはこういうことなのだと実感する。彼女の制止を無視してカーテンを開けた時点で、既にルール違反だというのに、これ以上を侵すのは、恐らく彼女の望む所ではない。強行突破なんて、僕らしくもない。それほどに、僕はもうこの微妙なラインに限界を感じていたのだ。 「の気持ちが知りたい」 「…私は、リーマスが思っているような人間じゃない」 「うん」 「私は私のものじゃない、家のものなの」 「うん」 「でも、家を裏切ってでも私はリーマスを思っていたい、リーマスを見ていたい」 一つ、まばたきをした瞬間、彼女の目からは光る宝石のように涙が溢れた。の滲む視界に、僕はどんな風に映っているのだろうか。僕の目には、はこれまでにないほど愛しく映っている。やっと聞けた彼女の本音に、僕は今すぐにでも彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。も同じ気持ちなのだと知った今、阻むものはないのだと錯覚しそうになる。 だけど、彼女はゆっくりと「だけど駄目よ」と首を振った。気持ちは通じても、越えてはいけない一線があるのだと。はシャツの上から自身の首を押さえ、爪を立てた。そこには、彼女が家のものなのだという証拠が彫られている。そのたった一つがを縛り、自由を奪っている。そう思うと大人たちはなんて愚かなことをしているのだろうと思えて仕方がない。 「私は臆病だわ」 「僕がいても?」 「…………」 「僕が一緒に裏切ると言っても?」 僕の言葉がどれだけを困らせているかは分かっていた。分かっている上で、僕は彼女を同じ境界線の内側へ引き摺り込もうとしているのだ。あと少し、その細くて白い腕を引っ張れば、きっと簡単に彼女はこちら側へ来てくれるのだろう。揺れる彼女を強引に引き寄せるのは余りにも容易い。今すぐにでもこの手で彼女の体温を知りたい。力いっぱい抱き締め、これが現実なのだと言うことを実感したい。 「どうなるかだとか、何ができるかだなんて今の僕らには分からない」 「…ええ」 「けれどそれよりも今は、一緒にいることが大事だと思う。今の一瞬をこの目に、耳に、手に、焼き付けたいんだ」 「リーマス、わたし……」 ゆるゆるとが手を伸ばす。ようやく互いに求める気持ちが釣り合う。恐る恐る伸ばされた右手を、引き寄せるように強く握り締める。一瞬は動揺したけれど、逃がさないようにもう片方の手でもの右手を握った。冷たくなどない、僕と同じくらいの温度を持った手。傷など一つもない、新雪のようなまっさらな手に、ようやく僕は触れることができた。汚してしまうかも知れないという恐れを越え、ずっと願って来た彼女に僕は触れている。 「本当はずっと、触れたかったの」 「僕も同じだ」 涙を零しながら微笑み、は左手を僕の頬に伸ばした。温かい手が頬を滑る。僕と同じように、その指先から「愛しい」と言ってくれているみたいだった。何度も躊躇って来たはずなのに、彼女の髪も、輪郭も、どこに触れてもそれが当たり前のことのようだ。初めて知る温度のはずなのに、もうずっと前から知っているかのようだ。 まだ何の力も持たない子どもの僕たちは、家を裏切っては生きて行くことすらできない。けれどこの手は、この指は、今も明日も彼女の存在を確かめたい。一度知ってしまったその温度を、もう手離すことなどできやしない。だからこれは、二人きりの秘密。せめて今だけは愛しい彼女に、
優しく触れる |