誰もが眠くなる魔法史の授業で、彼女は誰よりも真面目に授業を受けていた。真っ直ぐ前を向き、先生の話を聞き、時折教科書に目を落とす。だからか、珍しく先生が生徒に問題を当てた。 「――して、この事象の解決策が見付かったのは何年のことですか、ミス・」 何の前触れもなく呼ばれた彼女は、小さな椅子の音をさせて立ち上がり、その問いに答える。 「1837年です」 たったそれだけの言葉なのに、彼女の声は僕の頭から離れなくなった。高く響くソプラノボイスは、まだ僕の中で鳴っている。そうだ、僕の気持ちは、
その声が震わせた
「リーマスも調べ物?」 「君もかい、」 ええ、と答えるとはごく自然な動作で僕の前に座った。彼女の手にも僕と同じく魔法薬学のテキストがあった。来週提出のレポートをするのだろう。僕が図書館にいるのは、何もレポートをするためだけではない。ここへ来ればかなりの確率でに会えることを僕は知っているのだ。疚しい気持ちがあることは認めよう。 窓から射す優しい陽の光で、色の白いは眩しく見える。本をめくるその指先もまた綺麗で、教科書と羊皮紙を行き来させる目線はついその指先を見てしまう。彼女の指先はどんな温度を持っているのか、それを想像しながらではレポートも進んだものではないが。 「どうしたの?」 「いや、なんでもないよ」 は小さく笑って首を傾ける。彼女は知っているのだろうか、そういった仕草の一つ一つに惑わされることに。彼女は同じ世界の人間だとは思えないほどに清らかなのである。その声も、表情も、手も、微笑みも、本来なら触れてはいけないもののようにさえ思う。きっとそれは僕だけではない。彼女は入学した時からどこか周りとは違う雰囲気を纏っていた。異様な雰囲気などではなく、澄んだ水のような空気なのだ。その清らかさ故に、彼女に容易に触れることができる者はいない。更に五年生の頃辺りから、まるで肌の露出を嫌うかのように暑くても構わずストールを巻き、きっちりと制服を着込み全く崩さなくなった。それ以来、一層その印象を強くしていた。 けれど、そんな暗黙のルールが破られるのは突然だった。その日は、図書館ではなく何となく外に出てみた。天気も良いし、たまには気まぐれだ(図書館に行ってもがいないため気落ちした、というのも僅かにはあるが)。あまり生徒の集まらないような静かな場所がいい。本でも読もうかと図書館で借りたものを持って来たのだが、少し昼寝をしても良いかも知れない。 この広いホグワーツにはたくさんの庭があり、限られた生徒しか近寄らないような庭もある。今日立ち寄ってみたのは、そんな大半の生徒が知らない場所だった。少し汗ばむくらいの日差しの中、それを上手く遮るように木陰のできている小さな庭の片隅に大きな樹が植えられていた。ここで良いか、とその根元に近付くと、近付いた反対側に何か丸い塊がある。こちらに背を向けて蹲っているのはどうやら生徒のようだが、この暑い日に首に巻いている淡い色のストールが目に入って気付く。顔は見えないが間違いない、ではないか。しかし、辛うじて呼吸で肩の上下するだけのに不安になり、彼女の正面に回ってみる。膝をついて控え目に声をかけてみた。 「?」 「………………」 「、どうしたんだい」 それでも反応がない。ぐっと背を丸めて蹲っているため、表情は見えないが眠っているのだろう。しかし、ただの昼寝にしては呼吸が荒く、苦しそうだ。そっと手を伸ばし、彼女には触れられないというルールを破ろうとした。あと少し、あと数センチ―――しかしその時、は小さく唸って身じろいだ。焦って手を引っ込め、少し後ろへ下がる。 その瞬間、さらりと流れた髪、乱れたストールの隙間から見えたのは、崩れた制服の襟。その下にある白。けれどその白を侵食する黒が目に映った。歪で異様な黒は、欠けることのない満月を喰らう影のようだ。が全く起きないのを良いことに、僕は肌に触れないように気を付けながらその襟元へもう一度手を伸ばした。どきんどきんと大きく拍動する心臓、生唾を飲み込み覚悟を決める。 清らかな彼女にも闇がある。黒い影を持っている。そう思うと、何とも言い難い感覚が心を蝕んだ。安堵のような、落胆のような、優越のような。そして、それまで隠されて来た彼女の白を暴くのだと思うと指先が震える。 「リーマス?」 けれど、再びあと数センチのところで遮られる。弾かれたかのようにから離れ、振り向いてみれば自分の友人であるシリウスがいた。シリウスは不思議そうな顔で僕を見たが、その先にいるを見ると呆れたように溜め息をついた。 「またかよ」 「また…?」 「ありがとな、リーマス。あとは医務室に運んでおくから」 黒い髪が視界を掠めたかと思えば、シリウスは彼女の襟元を正してストールを巻き直し、軽々とを抱き上げる。何でもないことのように、ほんの少しの躊躇いも見せず、完璧な清らかさを纏う彼女に触れた。僕の触れるはずだった白に、僕より先に踏み込んだシリウス。置き去りにされた僕は遠くなって行くその後ろ姿をぼうっと見ていることしかできず、喪失感や嫉妬のような黒い気持ちが渦巻いている。 そしてふと思い出す。シリウスとには共通するものがあることに。一族の多くがスリザリン出身者を輩出している中、二人は家の期待に背きグリフィンドールに寮分けされたのだ。お陰でも両親から見放されたも同然の扱いを受けているらしく、口には出さないが休暇が近付くと憂鬱そうな表情を見せることが時折あった。家の関係でシリウスとは幼馴染だということも、そういえばいつだったか聞いていた。 いつもだったら諦めていたかも知れない。これ以上は、ともう彼女に関わることを止めていたかも知れない。けれどだけは、なぜかだけはそうしたくないと思った。どうしようもなく、あの白に触れたいと。 |