あの日のことを、私はまだ覚えている。自らを魔女と名乗った女性が、私に最期の願いを伝えた日のことを。
誰かの気配がして、私は夜中に目が覚めた。常ならば放っておくのだけれど、どこか懐かしいような、知っているような気配の気がして、布団を抜け出すと戸口に向かった。
かたかたと戸を揺らす風は冷たい。私もまた震えながら、戸に手を掛ける。気のせいだろうとは思いつつ期待してしまうのは、私があのひとと再び見えることを願っているからなのだろうか。…ゆっくりと戸を横に引くと、緊張の一瞬の後に私の目に飛び込んで来た景色は。
「っさん…!」
思わず小さな悲鳴を上げると、人差し指を自身の唇に当てる。「しーっ」と言ってやんわり笑うかつての魔女――さんは、あの頃とは雰囲気がまるで違う。毒気を含んだ様子も、作ったような笑みも、挑発するような態度も何もない、ただのいち女性だ。なぜ今、さんが現れたのか、いや風間千景の話ではさんは亡くなったのではなかったか、寒さに冷える身体よりもその疑問の方が優位に立つ。そんな私の気持ちを察した彼女は、紅をはかずとも赤い唇をゆっくり開いた。
「チヅルがどうしてるかな、て気になって」
「私?一さんではなく?」
「ハジメ、ねぇ…」
さんの呟きに、はっとして私は口を覆う――私が彼を名で呼んだからか、私から彼の名を出したからか、…いや、きっとどちらもだ。
さんと一さんは思い合っていたにも拘わらず、別れる道を選んだ。別れなければならなかった。そしてさんは私に一さんのことを託し、一人逝ったのだという。そんな私が一さんの話を彼女に振るのは無神経過ぎた。けれど、そんなことは些細なことだとでも言うように、さんは軽く頭を振るとまた柔らかい笑みを浮かべる。僅かに私から逸れたその目線は戸口、恐らく家の中にいる一さんに向かっている。
「ハジメが大丈夫なのは分かってるから」
「…………」
「チヅルも知ってるでしょ?ハジメはとても弱い所があるけれど、守るべきものがあればどこまでも強くなれる。もう誰かが守ってあげる必要はない」
誰か――それはきっと自分自身のことを指しているのでだろう。自嘲的な面は変わっておらず、私はさんの言葉に胸が痛んだ。この人は様々な後悔を背負ったまま、罪悪感に苛まれたまま、ひとりきりだったのだと思うとやりきれない。
そう感じると同時に、本当に一さんに“守ってくれる人”は必要ないのだろうかと疑問に思った。それを肯定することは、一さんを守るのだと強く思っていたさん自身を否定してしまうのではないだろうか。あの時、一さんはさんの存在意義であったし、さんは一さんの生への執着対象だった。互いが互いに必要としており、その気持ちには決してすれ違いなど起こっていなかった。ただ、様々なことが重なって、繋がっていた細い糸は切れてしまっただけ。あの頃の二人の在り方に間違いなど、当事者以外からは見つけようがないのだ。
それは私がそれを願ったからだろうか。共に惹かれ合っているのなら、ふたりで生きることが自然だと、それが一番良い選択なのだと、そうあって欲しいのだと、私こそが願っていたからだろうか。
「…私が、言っていいことじゃないかも知れないですけど」
「ウン?」
「一さんは、さんを必要としていると思います」
「それはチヅルの願望だよ」
「違います」
「違わない」
「違います!一さんはさん、生きて…生きてほし、か……っ」
「“一さんはさんと生きてほしかった”でしょ?それはチヅルの願望。ハジメはチヅルと生きることを選んだの、ハジメ自身がね」
どうしてこの人はこんなにも強くいられるのだろうと思った。さんだけではない、一さんもだ。私の前でさんの話を一度もしないどころか、隠れてさんを思うことも偲ぶこともしない。一さん一人の頭の中で解決して、記憶の中でだけさんを生かしている。忘れた訳でも記憶の隅へ追いやるわけでもなく、一さんの内側でだけ生きているのだ。
それに気付きながら、背負っている後悔を分け合うこともできない私が、どうして共に生きることができよう。彼女の存在が、私は時に辛い。
「今日ここに来て正解だった」
「え……?」
「ワタシがチヅルにハジメをよろしく、なんて言ったせいで考え込んでしまってないかなって思ってたの。ねえチヅル、アナタはワタシの代わりでもなんでもない」
「それ、は……」
「ワタシのしたことをなぞって欲しいわけじゃないの。アナタがアナタのやり方で、ハジメの傍に居てあげて欲しいって、そう思った。…でも、それもワタシの勝手な気持ちね」
悲しそうに笑う。きっと、この世で誰よりも一さんの傍に居たいと思っているのはさんなのではないか。あの頃、明日なんてもう来なければ良いとさえ思ったことはなかっただろうか。…私にはさんの思いを想像することしかできない。本当はどれ一つ合っていないのかも知れないし、その通りかも知れない。詳しいことなんて、本当の所なんて分からない。それでもただ一つだけ分かるのは、今、さんが一さんを思っていなければここには現れなかったということだけだ。私の様子を見に来た、それもあるかも知れない。でも、数ある理由の中の一つには間違いなく一さんがある。それだけは唯一私にも分かった。
「ハジメはアナタと生きてくれる人だわ。生きるったら生きる、そういう人だと思うの」
「……は、い」
「まさか、チヅルを置いて行くなんてしないし、チヅルを一人にもしない。…一人残された人間の気持ちを、きっと誰よりも知ってるから」
「っそれは!」
「ワタシのせい」
泣きたいのはさんの方だ。私なんかじゃなくて、さんの方。それなのに、さんは決して泣かなかった。ワタシとさんが最後に言葉を交わしたあの時も、今も。さんは強い、強くて弱いひと。一さんのためならどこまでも自分を捨てられる強さと、全てを自分のせいにするしかできない弱さ。
「だから、ハジメには会わない」
「さん…」
「でもね、会いたいのよやっぱり。だからいつか、ずーっとずーっと時間が経ってからここへ会いに来るわ」
泣かないの。言いながらあの日と同じようにふわりと笑った。ただ違うのは、今はさんは私には触れないことだけ。そう、いつからか私もさんの存在を求めていた。さんがいれば、さんであれば――そう思いながら自分にできないことをさんに重ねていた。自分の不甲斐なさを彼女の存在のせいにした上、自己嫌悪に陥っていた。さんが一さんにとってどれだけ大きな存在だったかを、いや、今でも大きな存在であることを十分すぎるほど知っている。さんだって好きで離れた訳じゃないのに、なんで消えてしまったのだとさえ思ってしまったことがあった。一さんとは違う形で、私はまたさんを求めていたのだ。本当はどこかで生きているのではないかと、ありもしない希望を持ってしまうほどに。
びゅう、と一層強い冬の風が吹きつける。身体を抱き締めてみても感じる寒さは変わることはなく、歯ががちがちと鳴った。それを見たさんは「じゃあもう行くわね」と言って背を向ける。…行かないで、と言いそうになった。
「さんっ!」
「…何かな、チヅル」
「私、生きます、さんの分まで生きて、一さんと生きて、いつか、さんにまた出会えるように…っ」
私の叫んだ言葉に、彼女はこれまで見た中どれよりも綺麗に笑って見せた。その笑顔の意味はやはりさんにしか分からない。“いつか出会えるように”――その言葉に対する返事すらない。あの笑みは了承だったのか、拒否だったのか。けれどいつか、またいつかさんに出会いたいと思う。精一杯、私が生を全うし、役目を終えたその時に。きっとその時には、何の隔たりもなく笑って話ができるだろう。
彼女の消えた先を見つめる。全てが幻だったとでも言うかのように、そこには足跡一つなかった。
(2011/3/20 雨と夢の後に/奥田美和子)
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