彼女が現れたのは突然だったが、彼女の行動も、問いかけも、全て唐突だった。その日は俺が彼女の見張りをしており、それを知ってだろう、「星が見たい」などと言い出したのだ。本来、俺の判断で部屋から外に出すことは許されないのだが、「出してくれないと大声出す」と一丁前に脅しをかけて来た。彼女の場合、それが冗談などではなく本気であるのが厄介なのだ。渋々、少しの間だけだと言って部屋から出してやると、嬉しそうに飛び出して行った。 草履を軽く引っ掛けて、部屋に面した庭先に降り立つ。目を離してはいけないと、俺も彼女に倣って庭に出た。何が楽しいのか、彼女はどこまでも闇の広がる空を見上げながらくるくると回って見せた。そして不意に口を開く。 「人が痛みに対して躊躇いがなくなる時ってどういう時だと思う?」 「…命を懸けてでも為さねばならぬことがある時か」 「それもいい答え」 ハジメらしいしね、と言って彼女は笑う。 「答え。その痛みを贖罪と捉えた時」 パキン、枝の折れる音。細い指が、程良い高さにあった同じく細い桜の枝先を折った。それをぐっと握り締めると、もう興味がなくなったとでも言いたげにぱっと手を離す。大した音も立てずに落ちた枝、それを見る限りでは、彼女がなにを思ってそのような行為を行ったのかは分からない。 まるで星が降って来そうな夜だ。手を伸ばせば、或いは掴めるのではないかと錯覚するほどに。すると彼女は心を読んだかのように、空に向かって手を伸ばす。着物の袖がずり下がって、夜目にも分かる白い腕が剥き出しになった。ちゃんと食べているのかと言いたくなるほど細く、俺が少しでも力を入れれば先程の枝のように簡単に折れてしまいそうだ。しかしその腕には、無数の傷が残っていた。塞がる前に何度も同じような傷を繰り返したのだろうあれは、刃物による傷だ。彼女が魔女の血を使った分だけ、その腕に跡が残っている。 「あんたの痛みは贖罪か」 「ううん。魔女に痛みなんてないから」 「嘘をつくな」 「ウソ?」 「あんたが刃で己を傷付ける瞬間、僅かに顔が歪むのを知っている」 「…よく見てらっしゃることで」 自嘲的な笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を下ろした。…彼女の表情なら視界に入る時はちゃんと見ている。運ばれて来た食事を前に真剣な顔をして手を合わせること、熱いお茶に驚いて湯呑みを落としかけたこと、総司に菓子を分けてもらった時には子どものように笑っていた。そしてそうだ、彼女が羅刹を葬る時には誰よりも残酷で冷徹な表情を作り、誰もが背筋を凍らせるような冷たさを纏う。だがその強さ故に美しくもあった。 彼女は少し大股で俺に歩み寄ると、ひやりとした指先で頬に触れる。輪郭を滑らせ、するりと襟巻きを奪って見せた。彼女はそれを広げてみたり風に靡かせてみたりと、本来とは全く違う使い方で楽しんでいるようだ。別段、今とられて困る訳でもないので彼女の好きにさせておく。普段自分が身につけているものなのだが、彼女がそれを羽織り、翻すと、まるで舞でも舞っているかのようだ。 「ワタシも見てるよ、ハジメのこと。ワタシの行動に溜め息をついたり、嫌そうな顔をしたり、怖い顔したり」 「知っているなら少しは自重したらどうだ」 「ムリ。だってね?」 今度は頭から被り、緩く首に巻いてみせた。それは挑発か、誘惑か。まだ幼い少女のようなことをする時があれば、こんな風に一人前に女の顔を見せることもある。彼女はやはり、謎だ。いつまで経っても掴めず、掴んだかと思ってもそれは錯覚で、指の間を綺麗にすり抜けていく。跡形もなく消え去り、この手には何も残らない。 いつか、そんな風に彼女自身も消えていくのだろうか。或いは、俺か。不毛なことだ、そのようなことを考えてみた所で先のことなど読めるはずがなく、また分かったとして俺も彼女もやることは変わらない。 「ほら、そうやってね、時々すごく優しい顔してこっち見るから」 「…そのようなこと、ない」 「あははっ、ハジメって素直だよねぇ。そういう所、嫌いじゃないなあ」 「嬉しくないな」 「そ?好意を述べただけなんだけど」 確認するみたいに、小首を傾げながら笑う。そうしていると本当にどこにでもいる女のようだ。誰も彼女の身体に毒が流れているなど夢にも見ないだろう。口にすればたちまち命を奪われると言う、そんな毒が流れているなど。日により、時間により色を変える空のように、彼女は色々な顔を持っている。それを上手く使い分けて生きて来たのだろうが、年端も行かない頃から一人、そのような生き方をして来たのだと思うと、もっと他に生き方はなかったのだろうかとも思う。例えば、他の道を選んだせいで俺と彼女が出会わなかったのだとしても、だ。 彼女の生き方は、何度考えてみた所で哀しい。先のない一本橋を、ただ前だけを見て歩くような危うい歩き方。誰かが隣を歩くことも、前を行くこともできないのだ。ましてや、引き返すことなど。それでいい、と彼女は笑う。だが本当にそれでいいのか、今からでも遅くないのではないか、誰か彼女を掬い上げることはできるのではないか。そう考えては、いや、きっと彼女はそんな手すら笑って弱い力で押し返すのだろうと、そんな結論に至る。 「ねえハジメ、幸せってどんなカタチをしていると思う?」 「目に見えぬものに形などないだろう」 「だから、例えばの話。うーん…ハジメはこういう話、苦手だっけ」 また、ばさりと襟巻きを広げる。まるで元から彼女が持ち主であるかのように、それは彼女の手に随分と馴染んでいた。彼女の手によって様々に姿を変えてみせ、俺の知らなかった表情が現れる。今また彼女は蝶のようにひらりと翻って見せた。 「きっと、幸せはまーるい形をしてるよ。ちょっと歪んだりイビツだったりするかも知れないけど、きっとどこにも角の見当たらない、きれいなまるを描いている」 「……そうか」 もしもの話は好きではない。ありもしない話などするだけ無駄だ。けれど一つだけ仮説を立てさせて欲しい。もしも俺と彼女の出会ったのが、羅刹の血の流れる夜の森でなかったら。いや、もしも彼女が魔女ではなく、普通の人間だったとしたら。俺と彼女はもっと違う場所で出会い、違う位置から互いを見、もしかすると手を取ることもあったのかも知れない。終わりが最初から見えているような道ではなく、無数に広がる中から一つを選び、迷うこともあれど、手を離すことなく歩む、そんな道があったのかも知れない。純粋に彼女の美しさにも、純真さにも、その孤独にも苦悩にも触れることができたのかも知れない。 けれどそれはきっと、彼女であって彼女でない。今の彼女を彩るものは、魔女という羅刹に手を掛ける存在となる経緯も含まれているのだ。それがなければ俺はこうして彼女をこんなにも見ることなどなかっただろう。さほど興味も湧かずに終わった可能性も十二分に有り得る。 それならば、幾つもの道の中から今ここへ繋がる道を選んだ彼女こそを、俺は見よう。強さも、美しさも、純真さも、残酷さも、冷酷さも全てを併せ持つ彼女こそを見つめよう。ただそれだけが、俺が今の彼女にできる哀しい生き方を薄める方法なのではないかと、何の確証もなくそう思った。 (2010/12/30) BACK |