躊躇うことなどしたことがなかった。そのようなものした方が斬られる、そんな世界だ。そんな中で、初めて躊躇った。「最期くらいは綺麗なものを映したい」という魔女の言葉が、呪縛のように絡みついたのだ。そして気付けば、羅刹と化した元部下の前に立っているのは、俺ではなく魔女だった。忍ばせていた短刀で刀を止め、反対の腕を羅刹に噛ませる。 「駄目だよ、アナタの相手はワタシだったはずでしょう?」 「血……血……!」 「そう、いい子ねぇ。だから、間違ってもこの人に手なんて出さないでくれるかなあ」 含み切れなかった魔女の血が大量に地面に吸い込まれて行く。それでも彼女は表情を崩さない。挑発するように唇を三日月に歪めた。そんな彼女とは逆に、羅刹は異変に気付いたのか青褪め、ガタガタと震え出す――これが魔女の血の効力か。 「ニセモノ同士仲良くしま……しょ!」 そう叫んで腕を引き抜く。血まみれの腕が月下に晒され、どろりとしたそれは生々しく光った。相手が倒れ、息をしなくなったことを確認すると、今度は俺を振り返る。その表情は、いつもと寸分も違わない。違和感を覚えるほどいつもと同じだ。 ゆっくりと近付いて来ると、いつかしたようにまた俺の頭を乱暴に撫でる。けれど今度は振り払おうとしないので、彼女は困ったように笑い、そっと手を離した。 「言ってくれれば最初からワタシが行ったのに、ハジメって本当、不器用だよねぇ」 「俺の、任務だった」 「でも嫌だったンでしょう?」 「そんなことはない。誰が相手であれ、任務は任務だ」 「でも実際できなかったでしょ。…相手はハジメを慕っていた部下、ヒンシの重傷を負って、それでもハジメの役に立ちたいってオチミズを選んだ。結果、慕っていた組長に刃を向けることになるなんて…ヒゲキだねぇ」 「貴様…っ!」 最後の一言にはさすがに我慢が出来ず、思わず刀を抜く。けれど、彼女の喉元でそれは止まった。 「…何故避けぬ」 「斬る気がないの、分かってるもの」 小首を傾げると、未だ突き付けられている刃を彼女は握った。先日、庭で小石を握ったかのように、小石も刀も変わらないとでも言いたげに。 彼女の手のひらから、魔女の血は鍔まで伝って来る。ぽたりぽたり、と雨のように規則的に滴る血。けれど彼女はそんなことには興味なさそうに、じっと俺の方を見ている。何を考えているか想像することもできない笑み。体のつくりは俺たち人間と変わらないと言っていたはずだ。刃など握ったら痛みを感じるはず。事実、先日消毒をした所かなり痛がっていたのだから。 「離せ、魔女…!」 「離さないって言ったら?ワタシの手でも斬り落とす?」 「ああそうだ」 「それもウソ」 歌うように言えば、急にぱっと手を離す。ざっくりと切れた手のひらが、一瞬見えた。けれどその手を後ろに隠し、手のひらを俺に見せないようにした。気を遣っているのか何なのかは知らない。ただま野所は、どれだけ自分で傷つけようと、羅刹狩りを行おうと、その傷口を人に触れさせることだけは嫌った。恐らく、“人の道を外れた者”という領域を彼女自身も把握していないからだ。誤って標的以外の人間が口にしてしまった場合を考慮しているのだろう。変な所で気を遣うのだ、この女は。 「自分の部下の不始末は、なんて言ってさぁ、寝覚めが悪いって言ったのどこのどいつよ」 「それでもするのが新選組として、」 「ああもう、そういうのはいいのよ!何のためにワタシがいるのって言ってンの!」 「っ分かった風な口を利くな!」 「利くわよ!ラセツの気持ちはワタシが一番よく分かってンだから!」 「な…っ」 「役に立ちたいと思っていたはずなのに、足を引っ張るどころか剣まで向けてしまった。その上自分の尻拭いさせるくらいなら、いっそ同類にやられた方がいい。……こんな言い分が分かるの、ワタシくらいしかいないでしょう、ねえ?」 後ろを振り返って、もう息の止まった隊士に声をかける。灰になりかけている体の瞼をそっと閉じ、彼女は手を組んだ。そして異国の言葉を何やらぶつぶつと呟くと、立ち上がって再度こちらを向く。怒りでも呆れでもない、ただ強い何かを宿した双眸が自分を見つめた。 共に戦って来た自分よりも、たった数日接しただけの彼女の方が理解している、それが歯痒かった。戦いの前では情など無意味だと言い聞かせやって来た俺を揺るがす現実。世辞だとしても、一切を分かっていなくとも、“綺麗”だと言った俺の剣を今度は否定する魔女。そして今、その魔女の言葉の一つ一つにこれまでの自分を否定されている気分になる。 目的はを達成したのは自分ではないとはいえ、一応は任務は終わった。刀をしまい、彼女に背を向けて屯所へと戻ろうとする。すると、突如べっとりとした血の感触が手首から伝わり、思わず振り返って払いのける。が、その瞬間にその手の主が彼女だったことを思い出した。しかし無表情の彼女が何を思っているのか分からず、かける言葉が見つからない。 「ハジメは甘いんだよ。だから部下を斬れば寝覚めも悪いし、ワタシの言ったこと一つで動揺する」 「…ああ、そうだな」 「だから、ハジメはしなくていいよ。ワタシがやってあげる。ハジメがそんな顔するようなこと、ワタシはさせたくないな。ヒジカタさんには怒られるだろうけどね、まあもう慣れっこだし」 「あんたは…」 「うん?」 「あんたは、そうして守ってばかりだ」 彼女は「殺す」と言いながら、結局その底には守ろうとする意思が見える。さっきもそうだ、きっと手を組んで呟いていたのは、いつだったか彼女から聞いたことのある祈りというやつだろう。そのような観念的なものを俺は信じておらず、死者のために祈ることもしたことがない。彼女は初めて会った時も、ああやって手を組んで祈っていた。いつだって殺した相手さえも守っていたのだ。いや、彼女は羅刹となった人間を殺すことで、守っているのかも知れない。彼らの隊士としての、或いは人間としての最後の誇りを守ってくれているのかも知れない。上司に刃を向け、斬られたのではないと。 けれど言葉の意味が分からないのか、彼女は首を傾げて何も言わない。聡いのかそうでないのか時々分からなくなる。 「ハジメも自分が思うよりずっとたくさん、守っていると思うけどなァ」 「…どうだか」 「ここで最初にワタシを守ってくれたのはハジメだったもの。ハジメがヒジカタさんに証言してくれなかったら、ワタシはきっと今頃ここにいなかった。魔女になった意味も分からないまま、あっけなく死んじゃってた」 ただ分かるのは、思ったよりも彼女がいろんな人間の気持ちを汲んでいるということだ。 彼女が意味を見つけるのが先か、それとも殺されるのが先か。誰とでもなく、彼女はただ時間という抗えない波と闘っている気がした。 (2010/5/6) ← ◇ → |