自分の体に違和感を感じたのは突然だった。一瞬、目眩のようなものを感じ、思わず膝を付く。その弾みに指先を包丁でついてしまう。ぐらぐらと揺れる意識の中、違和感は形となって現れたことに気付く。血が止まらない――いや、傷口が塞がらない。羅刹となったこの身では、このような小さな傷、すぐに消えるはずだ。それが消えない。じわりと滲み出た赤い粒は大きさを増し、ぽたりと落ちて染みを作る。それは、俺が人間へと戻ったことを示す証拠に他ならなかった。


「どういうことだ…?」
「あの子の願いを叶えた」


 呟きに答えたのは聞き慣れない女の声。気配もなく訪れたその存在に驚いて顔を上げれば、異様な雰囲気を持つ異国の女が立っていた。俺を見下ろすその目はどこか威圧的で、怒気を孕んでいるようにも思える。まだやまない目眩に顔を顰めながら、女を見つめ返した。すると女は鼻を鳴らして笑い、俺に目線を合わせるように膝をついた。

 あの子の願いだ、と同じ言葉を再度口にする。何の事だか分からず苛立って睨めば、乱暴に前髪を掴まれた。突然現れたかと思えば、一体何だと言うのだ。このような人物に覚えはない。それなのに、この女は俺のことを知っているらしく、俺以上に酷く苛立っているようだった。


「もう忘れたか?お前は誰に助けられ、誰に生かされたと思っている…!本来なら死んでいた所を命を削ってまで救ったのは誰だ!言ってみろ!」
「ま…さか、魔女…っ」
「…ふん」


 ではこれは彼女のしたことだというのか。この体を蝕む羅刹の血を消し去ったのは、彼女の願ったことだというのか。それが風間が以前言っていた魔女が最期に叶えられる願いなのだとしたら、何故俺なんかのために使うのだ。彼女ならもっと、願うことがあったはずだ。例えばそれが誰かのためでなくとも、俺を生かすためでなく、俺を殺すための願いだって叶えられたはずだろう。それともこれが報いだと言うのだろうか。彼女の父と母を殺しておいて、彼女に惹かれた、その報いだと。


「お前があの子に生かされたのは一度や二度ではないことを知っている。だがそれもこれが最後だ、あの子はもういない」
「そのようなこと、知っている…!」
「いいや、お前は知らない。あの子が死んだのは昨日だ」
「………なんだと?」


 話が食い違う。風間は確かに、俺が彼女と最後に分かれてすぐに死んだと言っていた。…風間が嘘をついた?では一体何のために、それを何故わざわざ俺に言う必要があった。

 目眩は収まって来たが、次から次へと夢ではないかと疑いたくなるようなことばかりが起こる。露呈する事実はどれも信じ難く、また信じたくないものばかりだ。彼女から両親を奪い、彼女をひとりにしたのは間違いなく俺だと言うのに、今度は俺が置き去りにされた気分になる。それは自分勝手だ、利己的だと分かりつつも、こんなにも彼女を求めてしまった以上、彼女がこの世にいないという現実に痛みを感じてしまう。彼女をひとりにしておいて、俺だけが救われようなどと都合が良いにも程がある。彼女からすれば俺は親の敵、殺すつもりでいただろうに、その俺を助けんとする彼女の痛みに比べれば、このようなこと、何でもないことのはずなのに。


「…のう、最善とは何だ、最良とは何だ。あの子がお前を生かした理由は知っているが、私はそれを認めたいとは思わん。私にとってあの子はわが子も同然だった。そのわが子を奪ったのは紛れもなくお前だ」
「…ああ」
「よく覚えておけ。言うなればこれは罰、自害など選ぼうものならあの子との約束を違えてもお前を地獄の底へ突き落す」


 死ぬことも許されないのか。そう、無自覚の内に死に救いを求めようとしていた自分に嫌悪を感じる。そのようなことは考えたこともなかったというのに、自分でも知らない内に彼女は、思った以上にずっとずっと深くまで根付いてしまっていた。この気持ちを何と言うか、俺は知っている。知っているからこそ痛みが走るのだと言うことも理解している。けれど、彼女の方が比べ物にならないほどの痛みと葛藤に苛まれたに違いないはずだ。


「お前は人間に戻った。そしてあの子が願ったからにはお前は幸せになる。…お前があの子を思うなら、あの子がお前の幸せを願ったことを死んでも忘れるな」


 そう言うと、女は掴んでいた俺の前髪を離し、またどこかへ消えて行った。一瞬の間に気配が消え、そしていつの間にか完全に目眩や体の違和感もきれいに消失している。包丁で突いた指から伝わるじわりじわりとした痛みだけを残し、気配も跡形もない。まるで白昼夢でも見ていたかのようだ。先程までの女との会話も、まるで嘘のようだ。髪を掴まれた感覚はまだ、こんなにも生々しく残っていると言うのに。

 突いた右手を見つめながら立ちつくしていると、ふと、慣れた気配が後ろから近付いて来た。ゆっくりと振り返ると彼女、雪村は俺の顔を見て一瞬息を呑み、そして更に足を進める。


「あの、誰か来てみえました?」
「…いや、誰も来ていない」
「そうで……斎藤さん!指どうしたんですか!?」


 俺の指から流れる血を見て、雪村は俺以上に驚き、右手を掴んだ。彼女も全ての事情を知っている故、驚くのは当然だろう。だが、俺の身に何が起こったかを説明する気力もなかった。先程の女の言葉を思い返すでもなく、ただ茫然と彼女のことばかりを思い出していた。

 俺の知っている彼女など、ほんの一部に過ぎない。いつも不敵な笑みを浮かべながら、時折揺れては涙を見せる。人をからかったかと思えば感情を高ぶらせ、叱責することもあった。我儘も言った、正論も言った、危険なこともしていた。けれど彼女の言葉の多くに、俺は間違いなく助けられていた。救われたことがあった。ずっと守られていた。どんな思いで、何を思って、俺をずっと守ってくれていたのだろうか。憎い、殺したいと思いながら、俺の代わりに任務を背負うと言った、あの時の彼女は俺をどう思っていたのだろう。俺は、彼女の名前すら知らないと言うのに。


「彼女は、俺に幸せになって欲しいなどと、…思っているのだろうか」
「え…?」
「彼女の両親を殺し、彼女をひとりにしたのは俺だ。そんな俺の幸せを、彼女は願っているのだろうか」


 以前、雪村がそれを口にした時は「何が分かる」と一蹴した癖に、今度は確証を得たくて雪村の言葉を待つ。


「私があのひとだったら、それを願います。絶対に」


 絶対に、と、彼女もそう言った。絶対に俺に幸せになって欲しいのだと。嘘でも何でもなく、あの言葉は間違いなく彼女の本心だったと、それだけは疑わずにいられる。彼女が嘘をついたことなどなかったからだ。感情的になった時も、勢いに任せた失言は一度もなかった。彼女は俺に取り付けた約束を一度も違えたことはなかったし、彼女の言ったことが嘘になることもなかった。そうだ、俺にはいつだってきっと誰かが居る、と言ったのも彼女だ。それなのに、俺は一度でさえ生きている内に彼女の願いを叶えてやることができなかった。最期は自分を殺して欲しいと、たった一つの望みでさえ、俺は聞いてやることができなかった。


「あのひとは、自分では斎藤さんを救えないって言っていました。けれど、あのひとがいるだけで斎藤さんは救われていたんですね」
「ああ」
「あのひとが大丈夫だって言うだけで、あのひとが笑うだけで、それだけで斎藤さんは幸せだったんですね」
「ああ…」
「同じなんです。斎藤さんが生きているなら、幸せでいてくれるなら、あのひとは他は何も要らなかったんです。あのひとの一番は、もうずっと斎藤さんだったんですよ」
「違う…っ!」
「違いません。だって、あのひとが斎藤さんを愛していたから」


 憎悪も、悲哀も、思慕も、全てが堰を切って溢れ出す。

 許されたかったわけではない。一度もそのようなこと思わなかった。俺が彼女に惹かれていることを利用して、彼女の持つ毒牙にかかった方がずっと良かった。けれどそれは殺した側の勝手な考えだ。生きている方がずっと地獄なことがある。例えば彼女のように、愛する者を葬った相手を思ってしまい、苦悩すること。例えば今の俺のように、その事実を知らないまま接し、後に知ることになること。たった一度だけ彼女を抱いた時、彼女はどれだけの罪悪感を背負っていたのだろうと思うと、何も知らなかった自分を殺したいと思うほどに、後悔している。

 俺が彼女の両親の敵だと言わなかった理由が痛いほどに分かる。言った所で、俺はきっと彼女に何もしてやれないし、言ってやれない。むしろ、互いのために彼女と距離を置いただろう。ぎこちない関係となってしまうなら、一切を絶ってしまった方が良いと判断したはずだ。彼女は恐らく、それを避けたかった。関わりを絶つことを恐れたのだと思う。それらは全て、先程の雪村の言葉へと繋がって行く。

 愛していた、それは俺も同じだった。あの時はそのような言葉が浮かばなかっただけで、言われて初めて気付く。彼女に対して思うことや彼女に伝えた言葉全ては、だからこそ出て来たものなのだ。彼女を思ったからこそ、彼女に惹かれたからこそ、そして彼女を愛したからこそ。


 だから今、こんなにも涙が止まらないのだと。
























(2010/10/16)