もう来たか、という気持ちと、やっと来たか、という気持ち。もう殆ど何も見えない目で、私は確かに“それ”を感じた。 「滑稽なものだな」 「ええ、おかしいの。あれだけ意地張ってやって来たのにね、こんなにあっさりと終わりだなんて」 死がそこまで差し迫っている私の前に現れたのは、私を魔女にした張本人、本物の魔女だった。何百年生きているかなんて知れない、本当は存在するのかさえも分からなかった。噂だけを頼りに私が藁をも掴む思いで探しだした人物だ。あの時はただ必死で、復讐してやりたい一心で魔女を探した。そして条件と引き換えに私も魔女となることを許された。 私は、ハジメやソウジにいくつか嘘をついた。私が魔女になるために失ったものは、大切な人物十人と自分の名前だけではない。魔女になるために殺めた十人の家族を助ける権利だ。こう見えて魔女には細かい制約があった。理由なく殺しをしてはいけない、自ら死を選んではいけない、自己の死を他者に求めてはいけない。 「思ったより苦しそうでもない。面白くないの、お前は」 「あははっ!こう見えて苦しいんだけど。契約違反、いっぱいしちゃったからかな」 「それで…復讐は為し得たのか、少女よ」 「形も、相手も、何もかも変わっちゃったけど、…復讐のためも、掬うためにも、私が満足するまでこの血を使い尽した」 魔女のいるであろう辺りに視線を漂わせる。ぼんやりと黒い影が映った気がした。耳が聞こえるのは不幸中の幸いだ。お陰でまだどこぞの兵が近付いて来ようと、音を頼りに逃げることができた。どうしても来たかった場所があるから、文字通り身体を引きずってここまで来た。寒さも、木々で切った身体も、空腹も、何も辛くはなかった。最期が訪れるのが先か、辿り着くのが先か、時間との闘いだけが気がかりだったのだ。 私が最後に来たかったのは、ハジメと出会った場所。ここへ来るのは三度目だ。ハジメと出会った夜、チヅルが羅刹に襲われたのを助けてハジメと言い争いをした夜、そして今。草木の匂いも、頬を撫でる風も何も変わらない。先の二回と唯一違うのは、私が月を見ることができないことだ。そもそも、今が朝なのか夜なのかもよく分からない。けれど、見上げても眩しい光が映らないこと、魔女の姿が辛うじて確認できることから、およそ夕方だろう。 「…だからこそ今、魔女の毒はお前の身体を喰らおうとしている。…途中で止めればもう少し生きられたものを、お前は馬鹿だな」 「そう、私は馬鹿なの。愛する人一人、自分の力で幸せにすることもできやしな、い…う、ぐ…ごほっ!」 「…小さな魔女よ、最期の望みを叶えてやろう。お前は何を望む」 「わたし、は…、」 ひゅう、と喉が鳴った。口の中に広まる血の味も、もう慣れたせいか何とも思わなくなってしまった。先程、咳込むと共に吐いた血の塊のにおいでさえ気にならない。五感の内、聴覚以外はもう麻痺してしまっている。自分の醜く汚い姿をこの眼に映さなくて良いことも、痛みに鈍感になって行ったことも、私にとっては不幸中の幸いなのかも知れない。再度大きく咳込むと、先程よりも大量の血液がぼたぼたと地面の上に零れる音がした。 ああ、嫌だなあ。ハジメと出会った場所を私の血で汚すなんて――そんな最後の強がりが頭を掠める。私は最後の力を振り絞って、身体を起こす。もう力も入らないはずの腕で、足で、この地に立つ。あの日、ハジメと出会った時のように私自身の二本の足で。まだ命の終わりなど明確に見えていなかったあの夜のように。死を予感しながら、まだ遠い先のことだと思っていたあの夜のように。ここにはもう、ハジメはいないけれど。 「馬鹿だが、実に面白かった。憎悪が恋慕へ、愛情へ変わって行くその様を見、興味を抱いたのは生まれてこの方お前だけだ、非力な少女よ。お前が望むのであれば、あの男との人生を歩ませてやることが私にはできるぞ」 呼吸が苦しい。もう肺に息などほとんど入っていない気がする。景色も何も見えやしないのに、寝ても立ってもずっと目眩が止まない。…苦しい。いっそ、今すぐに意識を手放せてしまえれば楽なのに。そう思いながら私は、魔女の言葉にゆっくりと首を横に振った。そんな人生は要らない。私は魔女だったからこそハジメと出会い、ハジメと生きることができた。それならこのまま、ハジメも愛してくれた魔女の身体のまま死んでいきたい。別の誰かになるのなら、もしくは私が私であっても人間として生きるのであれば、そんなものは要らない。それに、魔女の言葉を受け入れてしまえば、私はハジメとの最後の約束を違うことになってしまう。そんなの、いつかハジメを迎えに行く時に見せる顔がないではないか。 すると、魔女は声を上げて笑った。何がそんなに面白かったのか、眉を顰めて彼女のいる方を懸命に見ようとする。その瞬間、魔女は私を抱き締めた。 「お前は本当に飽きん。人間というのは分からぬな、少女よ。だが、せめてもの親心だ。お前の願いを二つ、叶えさせて欲しい」 「二つ…?いいの?」 「なんだ、数だけは欲しいのか」 「…ちょっとね」 「私に叶えられぬことはないぞ」 私を離すと、今度は両手で顔を挟むように包む。私の視線は彷徨い、やがて、おそらく彼女の双眸のあるであろう辺りを捉えた。その時、彼女が微かに笑った気がする。 「彼を、人間に。そして、人間として幸せになって欲しい」 「その望み、この魔女が聞き入れた」 「ふふ、これで、ようやく、…け、る……」 ああ、瞼が重い。足に力が入らない。手を伸ばしたくても伸ばせない。呼吸が止まる感覚がする。ああ、苦しい。でも、でも、これで。 「おやすみ、愛しい魔女」 終わるんだ。 (2010/10/11) ← ◇ → |