遠いようで近い、近いようで遠い。そんな表現が俺と彼女との間には当てはまったように思う。彼女は名を持たなかった。そのことは名前に拘らなかった俺と似ているようでどこか違い、海をも渡って来た彼女は脱藩者である俺とは同じ“一人”でもどこか違った。共有できる感情と、できない感情。両極端なそれらは、時に歯痒いほどの意見の違いを生んだこともある。

 近いから嫌悪し、遠いから憧れる。それは彼女に対しても例外ではなかった。自分の痛みなど後回しに暴走した羅刹の前へ平然と突っ込んで行く彼女には怒りや苛立ちを覚えると共に、俺にはできないことをやってのける彼女に羨みを感じたこともある。そしていつからか、それが当たり前であるかのように彼女に惹かれていた。…いや、思えば出会った瞬間かも知れない。常ならばあのような怪しい人物などすぐに斬り捨ててしまえるのに、何故かそうすることができなかった。奇妙なことを次から次へと言うから信用ならなかったのに、嘘を言っているとも思えなかったのだ。

 冷酷で一切感情を含まないような表情で羅刹を殺すかと思えば、ある時は総司と子どものような言い争いをし、またある時は雨や花を愛でては優しく微笑む。そのどれも間違いなく彼女なのに、そしてそんな彼女を一番近くで見て来たのはきっと俺のはずなのに、俄に信じ難かった。いや、今でも信じられない。何より夢でも見ているのかと思ったのは、彼女が初めて涙を見せた時だ。


『いつもは心まで否定されてきたのに、ハジメはまだ、ワタシを人間扱いしてくれるの?』


 笑おうとしたのに上手く笑えない、そんな表情だった。

 後で総司から聞いた話だが、彼女はずっと“魔女”であることにも拘り続けていた。この国への復讐心を糧に魔女となり、どれだけ非道だ残虐だと蔑まれようと、魔女であることで強くいられたのだと。それを思うと、俺が彼女を人間だと言ったことは彼女を揺るがす一因となってしまったのではないだろうか――そんな心配もした。羅刹狩りという行為自体はともかくとして、何かを為すためにしたたかに生きている彼女は美しかったのだ。そして、俺はそんな彼女に憧れもしたし、確実に惹かれていた。やがて彼女の弱さを知る頃には、彼女を守ってやりたい、生きて欲しいと願い始めた。

 そんな矢先知らされたのは、彼女がもう長くないと言う事実。周りよりも早くに死を迎えることを知りながら、彼女は一体何を思い、羅刹狩りなどしていたのだろう。命の終わりを知りながら、生かして欲しいと乞うた彼女の心境はどのようなものだったのだろう。すべきことがあるなら迷わず変若水も飲むと言った俺を、彼女は一体どのような気持ちで見ていたのだろうか。










「ワタシはね、平穏や安寧なんていらないの」


 その日も暴走した羅刹の処分を終えて、彼女の止血を行っていた。そんな中、突如ぽつりと彼女は言った。普段はふざけた態度をとることが多いのに、時折こうして真剣に何かを語る。決して明るい話が出たことなどなかったが、この時間は嫌いではなかった。彼女の本心が垣間見える、そんな気がするのだ。


「では何故、羅刹狩りなど続ける。要らないならば続ける必要などないだろう」
「“欲しい”と“願う”のは違うんだよ。wantとdesireって言ってね、全然違う」
「は…?」
「ワタシのお母様の国のコトバ。だから例えば、ハジメに幸せになって欲しいとは思うけど、ワタシは別にいいってこと」
「意味が分からぬ」
「アレ、コトバおかしかった?」


 そういう意味ではない。けれどそう訂正を入れるのも疲れ、何も言わずにいた。やがて血が止まると、さっきまで青い顔をしていたのが嘘のように勢いよく立ち上がり、俺の腕をぐいぐい引っ張って帰路を急ぐ。歩きながら異国の歌を歌う彼女。耳に馴染まないその調べは、場違いながらも月以外照らすものは何もないこの空気には馴染んでいた。また、初めて聞くはずなのにどこか懐かしさを感じた。心地好い女子特有の高く澄んだ声に、彼女の母の国への思いが乗せられているからだろう。


「…あんたは」
「うん?」
「最期くらい、綺麗なものを目にしたいと言った」
「覚えててくれたんだね」
「あんたの言ったことは覚えている。あんたの父と母のことも、魔女になった経緯も、そのために犠牲としたことも、何故魔女であるか、その意味を羅刹狩りをすることで見出そうとしていることも」
「…………」
「そして、俺の剣を綺麗だと言ってくれたことも」


 最後の言葉に、彼女はすっと目を細めた。それが彼女のどんな思いを映しているのかまでは分からないが、いつもの彼女の食えない笑みが崩れた瞬間だ。張り付けたような笑みの下に隠している憎悪や普段見せない激しい感情を、彼女はその瞬間に垣間見せる。それが彼女を苦しめることだとしても、他の誰にも見せないような顔を自分にだけ見せ、他の誰も知らない彼女を自分だけが知る、それは優越感を覚えるものだった。

 足を止めれば、風もない今日のような夜は無音となる。互いの息をする音さえ聞こえそうなほどの静寂に、指先をほんの少し動かすことさえ躊躇われた。虫の声もない、葉が擦れる音もない、しんと静まり返った場。彼女は何も言葉を返さず、ただ目を細めたまま俺の言葉を待っているようだった。現場説明や報告ならともかく、元々は雑談のような個人的な会話は苦手な俺は、ここまで彼女に話しながら、続きは上手く纏められていない。慎重に言葉を選びながら組み立て、言葉を繋げた。


「綺麗だ」
「……え?」
「あんたの髪も、目も、手も、声も」
「何、いきなり…」
「綺麗なものを、あんたも持っている。だから“最期くらい”という表現は適切ではない。そう思っただけだ」


 我ながら、気の利かない言い回しだと思う。しかし、それ以外に言い方が思いつかなかった。こんな時、総司や左之であれば彼女を励ます言葉の一つや二つ、もっと出て来るのだろう。こんな、指摘のような言葉ではなく、彼女の欲しい、彼女の求めるような言葉を。歯痒く、そしてもどかしく思いながらも、俺ではそれ以上は思いつかず、背を向けて屯所への道を辿る。そんな俺の後ろを無言でついて来る魔女。歩幅の違いからか、俺よりも小刻みに彼女の足音が聞こえ、ほんの少し歩く速さを緩めた。すると、それまで後ろにいたはずの彼女は、俺の左に並んで歩く。

 途端、急に左手に感じる温度。他の人間に比べれば多少低いものの、確かな人の手の温度――彼女の細い指が絡められていた。腕から滴って血が付着している彼女の手のひら、その手を包むように握れば、俺の手にすっかり収まるほどの小ささだ。肩がぶつかるほど距離を縮めれば、僅かに届く血のにおい。どれだけ人を斬って来ようと、このにおいが不快なのは変わらない。それでも、この手を振り払いたくないと思ったのは、彼女だったから。彼女が苦悩の末に選んだ方法がこれだったからだ。










 そんな彼女の死を知らされたのは、彼女と別れて五日と経たない内だった。何の前触れもなく、夜中に風間千景が俺の前に現れたのだ。また雪村を狙って来たのかと思い、刀に手を掛け、思わず彼女を背に庇えば「今日は私用で来た」などと言う。不審に思いつつ、向こうに戦意がないことを悟り、ゆっくり刀から手を離した。


「貴様に言伝を頼まれた。言っておくが貴様のような幕府の犬のためではない、あの哀れな魔女のためだ」
「あいつから、だと…?」
「俺としては無視しても良かったが、哀れな魔女には借りもある」
「…それで、結局の所は何なのだ」


 回りくどい言い方に苛立ちを感じて先を促せば、風間はたっぷりと間をおいてから苦々しげに吐き捨てる。


「魔女は死んだ」
「……は…?」
「何度も言わせるな。魔女は死んだんだ」
「い…言って良いことと悪いことがある…!」
「紛うことなき事実だ。自分が死んだらそう伝えろと魔女に言われたから俺は来た」


 あれからも彼女は風間たちと行動を共にしていたが、綱道氏を処分した直後に体調が急変し、そのまま逝ったとのことだ。その死に際、自分が死んだら俺に伝えるよう、風間に頼んだのだと言う。

 そのようなこと、風間から聞かされても信じられるはずがない。これまで散々俺たちを追いこんで来た相手の言うことなのだ、こちらを動揺させる作戦なのかも知れない。けれどどうも、風間の言葉には裏が感じられなかった。なまじ彼女が風間たちと暫く共にいた分、信憑性がある。信じざるを得ない、そんな状況だった。

 彼女の先が長くないことは知っていた。覚悟だってしていた。自分の知らないどこかで、一人で、或いは誰かに看取られて死ぬのだろうと、それだって分かっている。それでもどこかで淡い希望を持ち続けている自分がいた。もしかしたら、いつか魔女の毒も薄まるのではないか、そうすればいつかどこかでまた巡り合う時が来るのではないかと。そう、初めて会ったあの夜のように、偶然出会える日が来るかも知れないと。だから先日も彼女の告げた「さよなら」を受け入れることができたのだ。

 そんな彼女が、もうこの世にはいない。


「もう一つ教えてやろう。魔女というのは死に際、一つだけ願いを叶えてもらえるのだそうだ」
「…それが、なんだ」
「あの魔女の願うことは何だろうな」


 そう最後に告げると、風間はまた夜の中へ消えて行った。

 魔女の願うこと。そう言われ思い返すのは、「安寧や平穏はいらない」という言葉だ。あの時、彼女は彼女のための平和は要らないと言った。彼女自身が心穏やかに過ごすことは願っていないとなると、魔女ではなく人間に戻りたいと言うことや、もっと生きたいというような願いを抱くことは違う気がする。

 様々なことを一気に言われ、まだ上手く動かない頭で風間が最後に俺に投げた問いの答えを探す。あの言い方だと、風間は彼女の願いを知っていると言うのか。


「あの、斎藤さん」
「なんだ」
「私、分かる気がします。魔女さんの願ったことが、分かる気がします」
「…あんたに、何が分かる」


 安易なその言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。雪村に彼女の何が分かる。魔女の何を知って、彼女の何を知って「分かる」などと口にするのだ。…雪村に非があるわけではないというのに、俺が彼女の胸中を汲み取れていなかったことに激しい後悔を感じ、つい言葉が棘を孕む。睨むように雪村を見れば、びくりと肩を震わせ、けれどそれでも雪村は口を噤まなかった。


「あのひとだったら、きっと斎藤さんの幸せを願います」
「幸せ…」
「大切な人にはいつだって幸せでいて欲しいって願うのは自然なことだと思います。あのひとが斎藤さんにそう言ったことってなかったんですか?」


 何を馬鹿なことを。彼女が言ったことは全て覚えている。いつ、どこで、どのような表情で、どのような声で言ってくれたか、忘れずに覚えている。あのことも、そのことも、どれ一つ忘れようがない。脳裏に焼き付いて離れてくれないのだ。瞼を閉じれば出会ってから別れるまでの彼女の姿が鮮明に蘇って来る。それは身を裂かれるほどの痛みと、何物にも代えがたい恋しさや愛しさが込み上げて来る。










『命を削っても、死が近付いても、ワタシがしないといけない』





『“あの子が羨ましい”。……この言葉、覚えておいてね』





『ワタシがやってあげる。ハジメがそんな顔するようなこと、させたくないな』





『怖くないの?ワタシの血に触ったりしたら死ぬかもよ?』





『もしそれでも駆けつけた時にまだ息があったら、最後はハジメがワタシを斬ってよ』





『大丈夫、大丈夫だよ。ハジメにはきっと誰かが居る』





『ね、ハジメなら大丈夫』





『ハジメには、絶対に幸せになって欲しいの。絶対に』










 幸せになど、なれるものか。俺は彼女以上に人を斬って来た。それにも拘らずのうのうと生き、更に幸せを得るなど。そもそも幸せとはなんだ。何がどうなれば幸せなのだ。少なくとも俺は、彼女の存在に救われている所があった。俺を必要としてくれた新選組は生きる意味だったが、彼女の存在は唯一本心に最も近い所の言葉を吐き出せる相手だった。死を恐れず魔女の血を使い続けた彼女、人間と魔女の間で揺れていた彼女、俺の前でだけ感情的な発言を度々していた彼女。希望は潰えた。俺の幸せを願うなら、最期まで見届けたらどうなんだ。

 そしてようやく気付く。あれだけ魔女で在ることに拘り、虚勢を張り続けた彼女と、今の俺は何の違いもないのだと。
























(2010/10/3)