雨だ。雨が降った。頬も、手のひらも濡れている。ぱたぱたと足元の葉に滴の落ちる音もする。 「これでよかったのかよ」 「うん、これでいい」 酷い雨だ。大粒の雨がしみて痛い。なのに、冷たい滴に濡れるほどに熱が引いて行く。頭が冴えて興奮も収まって来た。そんな私の頭をくしゃくしゃっと撫でると、「行くぞ」と言ってシラヌイは私の前を歩き出す。 空は、憎らしいほど晴れていた。 満足か、と言われた。うん、もう、これで満足。そうぽつりぽつりと返事をする。これで最後にしようとは思っていた。魔女の血を使うのも、誰かを殺めることも、これから先は二度としないと。だって、きっと憎み出したらキリがないのだ。復讐心それ一つで魔女になることを決めた私は、ハジメに出会うまで憎しみ以外にこんなにも感情的になることを知らなかった。その原因が恋慕う気持ちであると言うことも知らなかった。 「カザマ、今までありがとうね」 「何かをしてやったつもりはない。利害の一致、それだけだ」 「それでも魔女の力を必要としてくれたことには感謝してるんだよ?」 「勝手にしろ」 「うん、勝手にする」 誰かと手を取り合うなんてことも、したことがなかった。協力関係だとか、利害の一致だとか、そんな難しいことは私には分からない。ただ、本能的に生きて来たから。魔女になると言うことも、誰かを殺すことも、それに疑問を抱く日が来るなんて、まさか魔女の契約を交わした時には思わなかった。魔女であることをこんなにも後悔するだなんて、夢にも思わなかった。 本当に色々なことを知った。後悔も、葛藤も、思慕も、羨望も、恋情も、全て一人では知りえなかった感情。私は、私が思った以上に恵まれていたのかも知れない。二十年にも満たなかったけれど両親に愛され、身体を毒されながらも誰かを愛することも知った。嫉妬心も芽生えた恋だった。普通の人の半分も生きられやしないけれど、その分、様々なことが凝縮された人生なのだと、今なら受け入れられる。 …嘘。本当は死ぬのは惜しい。ハジメがあの後どうしたのか、あのままチヅルと生きるのか、どう生きて行くのか、どうやって終わりを迎えるのか、それを知ることができないのは唯一の心残りだ。けれど、死ぬことが怖くないのは本当。 「これからどうするつもりだ」 「んー…まあ、魔女としてやることは全部やったし、どうしようかな…」 「まあいい。これも何かの縁だ、教えてやろう」 「何を?」 「土方率いる隊は函館へ向かうそうだ。沖田は千駄ヶ谷だったか、もういつ死ぬとも知れん身だそうだ。原田と永倉は土方とは離れて戦っている」 いつの間にか、そんなにもばらばらになっていたんだ。…胸の奥がつっかえたような苦しさを感じた。 時代の流れとは残酷なもので、目に見えて悲しい変化を生み出すことがある。それでもその変化に適応して誰もが生きて行く。時には抗いながら、足掻きながら。そんな中、私は足掻くことさえできず、たった一つに固執したがために自ら身を滅ぼす道を辿ったのだ。 「お前は行く当てもないのか」 「これまであまり考えずにやって来たからねぇ。バクゼンと、バクゼンと」 「あれだけ新選組を悩ませた羅刹狩りの正体がこれとは…」 「あはは!噂ばかりを当てにしちゃダメってことだね」 珍しく、カザマは呆れて溜め息をついた。どこへ行っても私は人を悩ますのが上手いらしい。新選組では散々ヒジカタさんやハジメを困らせた。ここでもよくシラヌイの頭痛の種になっている。ああ、私ってば迷惑をかけるしか能がないんだなあ、と思うと、普段はこんなことで落ち込んだりしないのに、気分が沈んでしまった。最近の私は随分と弱気だ。何をしていても悪い方向へ考えてしまうし、発言も自分で驚くほど負を含むことが増えた。殺すだなんだとは言わなくなった代わりに、そうなったと言っても良い。 すると、カザマは急にいつになく真剣な目で私を見た。何かと思えば、「あとどれくらいだ」と聞く。何が、と聞き返すまでもない。私に残された時間のことだろう。 「…分からない。本当に分からないの」 「それも漠然と、か」 「うん。近いのは分かるんだけどね、魔女なんて万能どころか欠陥だらけだから」 そう思えば鬼はすごいよね、と笑う。けれどカザマからは期待した「当然だ」とか、その類の言葉は返って来ない。私の沈んだ気分が伝染でもしてしまったか、カザマも今日は歯切れが悪い。彼も彼なりに私を心配してくれているらしい。だから、さっきヒジカタさんやソウジの居場所を教えてくれたのだって「当てにできる奴がいるならそこへ行け」と言っているのだろう。私が最後に一人でいなくていいように。 彼もまた一人であることがどういうことかを知っている人物なのだと、そこで初めて知る。その力に恐れを抱き付き従う者はあれど、対等に向き合える相手と言うのはいなかったのではないだろうか。当主となるべく生まれた存在、その圧力や期待は私では計り知れない。種類は違っても、彼も常に一人なのだろう。 「ね、一つだけお願いしていいかな」 「内容による」 「ワタシがここを出たら、魔女は死んだってハジメに伝えて欲しい」 「…それだけか」 「あと、いつか迎えに来る、て」 「仕方がない、哀れな魔女への手向けだ」 「ありがとう!」 カザマの手をぎゅっと両手で握って、感謝を口にする。そうして最後、背中を向けて私はカザマたちの元を離れた。たった今、使ったばかりの左腕の血はまだ止まらない。ぽたりぽたりと滴って、私の歩く道に跡を残して行く。 私の言った「これが最後」は一体何度あっただろうか。言えば言うほど、私の意思の弱さを痛感させられもしたけれど、一人になった今、今度こそ最後だ。これが最後の執着。 「…最初で最後になればいい」 誰かを想うが故の執着は、これが最初で最後。この世でたった一人想った人。共にいることを許されなかった人。けれど今、こんなにも満たされた気持ちでいられる。決して明日に夢を見たことがなかった私に、一瞬でも「もしかしたら」「この人となら」と思わせてくれた。ハジメの知らない内に、私はこんなにもハジメに惹かれていたことを、彼は知っているだろうか。どうなるか分からない未来でさえ託したって構わなかった。感情を撒き散らして、それでも受け止めてくれたから。溢れ出す憎しみも、思慕も、全てはハジメに向かっていた。たった一度愛した人がハジメで良かったと、心から思う。 そういえばヒジカタさんは魔女のことをいろいろ調べていたようだけど、これは知っているだろうか。魔女は死ぬ間際、一つだけ願いを叶えてもらえることを。それなら、私の願いは一つだけ。一つしかない。ずっと決められなかったたった一つの願いだけど、今なら迷わず選べる。 「ハジメが、幸せになりますように」 私に振り回された分、私に困らされた分、私に苦しめられた分、幸せが訪れるように。そう願って、私は瞼を閉じた。 |
「…刀を下せ、今日は私用で来た」 「私用だと…?」 「ああ」 どこか暗い面持ちの風間を不審に思いつつ、言われたとおりに刀を下ろす。すると、何かを言いかけてはやめ、言いかけてはやめる。やがて大きく息を吐き出したかと思えば、重々しく告げた。 「魔女は死んだ」 (2010/9/26) ← ◇ → |