あの日も月のきれいな夜だった。ほぼ満月、雲もない。そして何より静か。別に彼女は月に帰った訳じゃない。どこかでしぶとく生きているのだろう。血を流しながらでも、身体を引きずりながらでも、為すべきことを為すまでは死なないだろう。けれど月を見る度に彼女を思い出すのは、彼女の髪が月の色だったからか、彼女と別れたのが今日みたいに明るい夜だったからか。

 冷えて来た風を防ぐため、そっと窓を閉めた。










 その夜、屯所をこそこそと抜けだそうとする一つの影を見つけた。けれどそれはどうやら隊士のものではない。もっと華奢で、夜目にも分かる屯所には不釣り合いな目立つ色の髪。その後ろ姿は魔女だった。長い髪を揺らして足音も立てずに一君の部屋から出て来たのだ。何か思い詰めたような表情でじっと部屋の中を見つめると、やがてそっと障子を閉めた。

 彼女をじっと見つめていれば、さすがに僕の視線を無視できないようで、彼女はやっと僕の方を向いた。


「のぞき見なんてシュミ悪いねぇ」
「こんな夜中に男の部屋から出て来る君に言われたくないなあ」
「あはは、それもそっか」
「うん」


 彼女との会話は、どこか命の駆け引きに似ている。一つ間違えれば刀を抜きかねない、そんな危機感が僕は好きだ。それは彼女もきっと同じ。こんな危うい状況を彼女なりに楽しんでいた。

 さっきまであんなにも切なそうな顔をしていたと言うのに、僕の前ではいつも通り笑ってみせる。感傷なんて微塵にも見せる素振りをしない彼女に、僕は僅かに苛立った。いつだってそうだ、彼女が感情を向き出すのは一君だけ。狡いよね、と思う。


「どこ行くの」
「さあ…とりあえずはラセツを増産してるのが誰か判明したから、ぶっ潰しに」
「そんな楽しいこと、一人でする気?」
「一人でする気」


 その一言で全てを跳ねのける。絶対の拒絶がそこにはあった。踏み込ませないような、探らせないような、目には見えない分厚い壁をたった一言で彼女は作り上げた。

 けれど彼女がそうしたいという気持ちは誰よりも分かる。何が何でもしなければならないという気持ち、最期まで魔女でいたいと思う気持ちは、僕が最期まで近藤さんの剣でいたいと思う気持ちと重なったからだ。だから僕は、出て行く彼女を止められない。魔女である覚悟や決意に触れたからには、もう止められるはずがなかった。彼女がたった一人で闘って行くという明日が分かっていてもだ。


「じゃあ、もし一君が止めたら?」


 彼女が唯一、心を許した相手であれば。けれどそんな期待も虚しく、彼女はゆっくりと数回首を横に振った。そして、「ハジメは止めない」と何の根拠があるのか言い切る。その言葉の裏には、彼女の一君に対する信用が見られた。二人しか知らないような何かがあるのだと悟る。歯痒いとか、もどかしいとか、そう言った感情を超えて、その事実は重くのしかかった。僕では役不足だと暗に言われている気がして、思わず痛くなるほど拳を握り締めた。


「もう一つ聞いていいかな」
「ん?」
「君、本当は知ってるんじゃないの。君の両親を殺したのは誰か」
「…だとしたら、何」
「なんでそいつを殺さないの?」


 我ながら、随分残酷なことを聞いていると思う。その証拠に、彼女の顔から表情が一切消えた。そして、睨むように僕を見据える。彼女のそんな顔を見るのは初めてだった。恐らく他の人間だったら、今の彼女を見れば背筋も凍るだろう。けれど僕はむしろ、自ら彼女が踏み込ませまいとしている領域に入って行った。だって、これが僕と彼女の最後なら一度くらい感情的になってみせてよ。いつも笑って隠している下に、どれだけの憎悪を抱えているのか僕にも教えてよ。


「ワタシは、人間は殺せない」
「随分優しい魔女がいたもんだね。本当は違う癖に。僕は知ってる、君の両親を殺したのは――
「ハジメだって言いたいんでしょ」


 嘲笑して見せる。それはどこか、諦めも含んだような笑み。

 いつから知っていたのだろう。ここに来る前か、それとも来てからか。どちらにしても酷い話だ。自分の親を斬った相手を思うだなんて、酷いと表現する他ない。或いは、滑稽か。まるで喜劇のような悲劇だ。おかしくて、思わず笑いが漏れた。笑いたいのは彼女の方だろう。親の敵を憎みこそすれ、まさか懸想するだなんて。本来なら殺したいほどの相手だろうに、心どころか身体を許すだなんて。

 おかしすぎて、涙が出る。


「…なんだ、知ってるんじゃない」
「ラセツのことを調べ上げるほどの情報網持ってるワタシが、知らないと思う?」
「確かにね」
「ちなみにハジメは知らないよ」
「だろうね。だから君も一君を殺さない」
「そう、何も知らないから」


 知らないから、一君は彼女を真っ直ぐに思った。知っていたらこうはならなかったはずだ。必要以上に関わらなかっただろうし、干渉することもなかった。一君の彼女に対する干渉は、はっきり言って執拗と言えるほどだったのだ。ああ見えて、きっと僕以上に興味があったんだと思う。でもそこには彼女を疑う気持ちは微塵にも無くて、まさか、いつか斬った相手の娘だとは夢にも思わなかっただろう。

 もしもの話は嫌いだ。だけど、それでも考えてしまう。もしも彼女の両親を殺したのが一君じゃなかったら、もしも彼女を捕まえたのが一君じゃなかったら、もしも彼女が思ったのが一君じゃなかったら。そう、いくつもの事柄を自分と比較する。馬鹿みたいだ。有り得ないことに期待を抱いても、それは無駄なだけ。それに、葛藤しているのは僕なんかじゃない、彼女の方なのだ。表に出さないだけで、きっと彼女は仇を思う彼女自身を激しく嫌悪し、後悔しているだろう。

 それでも「仕方ないよ」なんて言って笑う彼女は、本当に強いのだと思う。


「それにワタシは、仇討のために魔女でいるんじゃない。だから、今更ハジメを殺した所で無意味なんだよ」
「ふぅん」
「でも、ただここにいるのはもっと無意味。ワタシの心臓は、もう悲鳴を上げてる。悲鳴さえ聞こえなくなる前に、やらないといけないことがあるの」


 だから出て行く、と彼女は言う。彼女の身体がボロボロなのは知っていた。あれだけ無茶なやり方をしていれば少なからず身体に影響は出るだろうし、羅刹と同じように元は人間だった身体を無理矢理変えたのだから、どこかでガタが来る。簡単な推測でもあった。それから勘だ。何でもないように振る舞っているけれど、きっと僕も同じだからだろうか、何となく予感はしていた。

 好きにすればいいよ、と僕は言った。そんな僕に目を丸くして、けれど次に笑って「ありがとう」と言った。そして僕を通り過ぎて行く。振り返らず、それ以外の言葉は何もなく、足音だけが遠ざかる。

 本当は止めたい気持ちでいっぱいだ。もうこの手の届く所に彼女がいなくなる。どこで何をしているか、生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなる。こんなにも欲しいと思った相手を簡単に手離す、その気持ちと行動の矛盾に苛立ちのようなものを覚えた。行くな、と言っても無駄だ。何を言ったって、何をしたって、彼女はここを出て行く。それは揺るがない現実だった。

 明日にはもう、いや、明日にはまた、敵同士だ。出会えば斬る、ただそれだけ。


「……待ちなよ」


 小さくなった足音が、ぴたりと止まる。そのまま振り返らずに、僕は言葉を繋げた。


「僕はまだ、君の名前を一度も呼んでいない」
「…そうだね」
「呼ばせてもくれなかった」
「うん」
「いつになったらいいの」


 僕の問いに彼女は答えない。沈黙を貫き、返事に迷っているようだった。それほどまでに彼女は名前に縛られていた。捨てたと言いつつ、名前に拘っていた。それは恐らく、両親が彼女に残してくれた唯一のものだから。家も形見も何も残っていない彼女には、名前こそが彼女と両親を繋ぐものだったのだ。それを捨てるには相当の覚悟をしたことだろう。それとも、名前を捨ててもいいと思うほど、魔女になるだけの理由が、価値があったのだろうか。

 本当はどうだってよかった。彼女を少しでも長くここへ留まらせておけるなら、話題はなんだって。彼女の名前を知った時に、既に優越感は得ている。僕以外の誰も知らない彼女の秘密を知っている、それは思った以上に僕を満たしてくれたから。まさかあの時は、こんなことになるとは思わなかったけれど。


「今ならいいよ」


 思いもよらない返事に、振り返る。すると彼女は、今まで見たこともないほど優しく微笑んでいた。微笑んで、立っていた。そしてもう一度「いいよ」と言う。


「…


 震える唇で名前を告げれば、嬉しそうに笑った。

 彼女は捨てられちゃいなかった。名前も、人間としての自分も、何一つ失うことはできていなかった。だから、そうやって笑うんだ。名前を呼ぶだけで、そんなにも嬉しそうに笑うんだ。けれど彼女自身がそれに気付けていない。捨てられたのだと、割り切れたのだと思い込んでいる。だから平気で自分の身体を削って羅刹狩りなんてできるのだろう。人のことには驚くほど鋭いのに、自分のことにはまるで鈍い。まるでどこかの誰かのようだ、と思った。


、生きなよ」
「ソウジもね」


 それが、彼女と交わした最後の言葉だ。僕も彼女も長くないと知りつつ、生きろと言う皮肉。死期を悟りながら、それを一層早めかねない行為を続ける彼女と、彼女を見逃す僕。或いは、分かっているからこそ言えた言葉だったのかも知れない。そして、最後まで彼女は手に入らなかったけれど、きっとそれで良かったのだろう。彼女は僕の死に様を、僕は彼女の死に様を見なくて済んだのだから。
























(2010/9/5)