、準備は進んでいますか」


 高校の入学式前夜、兄であり入学先の学校で保健医をしている山南はに声をかけた。部屋のドアを開けていたため何の前触れもなかったが、特には気にかける様子もない。「あと少し」と返事をすれば、山南は部屋に入って来た。下に座って準備をしていたの隣にしゃがみ、綺麗に畳まれた真新しい制服にそっと触れる。


「お母さんに見せたかったですね」
「うん…」
「教員席からですが、私も見ていますから。お父さんも来ますし」
「休み、とれたの?」


 途端、の表情が僅かに明るくなる。父は仕事が多忙で最初は入学式にも来られないと言っていた。学校には山南もいるため、保護者向けの連絡には山南に出て貰えばいいだけの話だった。しかしやはり、新たな生活のスタートを父に見てもらいたいという気持ちは、抑えているものの大きかった。そこへ、前日になりこの嬉しい報告。少しばかり憂鬱だったの気持ちが軽くなる。

 誰よりも父に来てほしいと願っていたの気持ちを知る山南も、彼女の様子を見て思わず頬が緩む。その黒い髪に手を伸ばして撫でてやると、照れたのか「もう小さい子じゃないのよ」と口を尖らせる。だが嫌ではないらしく、振り払ったりなどはしなかった。

 山南とは血の繋がった兄妹ではない。続き従兄弟だった山南が家の養子になったのだ。しかし幼い頃から交流があり、よく面倒も見てもらったにとって、山南は既に兄同然であったため、突然の決定にも驚きはすれど動揺や困惑は特になかった。寧ろ家族が一人増え、嬉しいくらいである。また、母の血筋が引く事情についての理解者でもあり、心強い存在だった。多少過保護と思う部分もあるが。


「所で、薬はまだありますか」
「あと一ヶ月分はあるわ。ただ…」
「ただ?」
「発作の間隔が少しずつ短くなってる気がする」


 血が欲しいと叫ぶ身体、それを薬で騙し騙しやり過ごしているが、病気でなければ治るわけでもない発作を消すことはできない。発作の間隔が短くなると共に症状が重くなっていることは、の命のリミットが少しずつ削れて行っていることを如実に表していた。早く誰かの血を口にしなければ、定期的に飲まなければ、このままは命を落としてしまう。だが頑なに家族のそれでさえ飲もうとしないの行動は、最早自殺行為と言っても過言ではない。

 どれだけ山南や父が心配したところで、の心に根を張るのは母の姿。母のように生きたいと未来を描く、けれどそのためには決して一人では生きられず、誰かの支えが必要なのだ。も歯痒さから何度も唇を噛み締めた。その度に浮かぶのはやはり母の言葉。

 『どうかこの血を恨まないで、この血だったからこそ出会えた人がいるのだから』――は母の言葉を信じた。きっと自分にも“この人”と思う相手が現れるのだと。真っ赤な錠剤にも輸液にも頼らなくて済むようになると。


「敬助兄さんには感謝しているの。うちの血筋に巻き込んだり、それどころか薬まで手に入れてくれて…」
「家族ですから当然です」


 優しく笑って山南は答える。…この錠剤も輸液も、色々な伝手を使って手にしたものだ。表には出て来ない血筋の問題や騒動を独自に研究したり、またその手の世界では特殊な血筋で有名な家もあるらしく、山南はそういった人物とコンタクトをとってくれている。

 決して平和だけの世界などではないため、は山南がその世界へ足を踏み入れることに強く反対した。だが山南の覚悟は更に強く、また苦しむを見過ごしたり見殺しにするわけには行かないと、自ら危険な道を渡ることを選んだ。お陰では何とか吸血なしで生活できている。感謝してもしきれないほどだ。


「ですが、そう思うなら早くパートナーを見つけなさい」
「……うん」


 最近の山南の口癖はこれだった。を何より心配しているのだから当然だろう。けれど正直な話、どれだけ発作が起きようと、喉が渇こうと、迫り来る終わりになどまるで現実感が湧かない。こんなにも脈は打ち、呼吸はできているというのに、もうさほど猶予がないことなど実感が湧かなかった。だからだろうか、これまで好きになった相手に対して“血が欲しい”とまで思わなかったのは。危機感があれば思うものなのだろうか。は母の言葉を信じつつも、“この人だ”と思う人物を見分けられる自信がない。


「出会えるかな、運命の相手」
「でないと困ります」
「そっか…そうだよね」


 自分に言い聞かせるみたいに相槌を打ち、はぎゅっと手を握り締める。

 出会いたい、自分の命を支えてくれる人に。自分もまた相手を支えたい。目を閉じれば浮かぶのが、そんなパートナーになる日を願い、一層手に力を込める。

 そしてが思い馳せた通り、運命的な出会いを果たし、一目で誰かに恋に落ちるのは次の日のこと。これは求めて止まない、想って止まない、痛いほどに胸を占める思いがあることを知る、その前夜の話。










(2011/5/18)