「落ち着いたか?」
「すみません…」
「それは答えじゃねぇだろ」


 ベッドに腰掛けて、土方先生は苦笑いをした。耐え切れずに俯けば、そっと頬に宛てがわれた土方先生の手背。顔を上げるよう促されている気がして、でも気まずくて目だけでそちらを向く。

 もう傷口も塞がったらしい先生の指は元通り綺麗だ。数え切れないほど誰かの血を口にして来た私は、吸血相手にさほど痛みを残すことなく吸血することができる。理屈では説明がつかない、これは感覚で覚えるものだ。だから先生も痛みを訴えることはしなかった。でも流石に異物の食い込む感触は相当気持ちが悪いため、眉間に皺を寄せていた。


「でも、ごめんなさい」
、お前は何か悪いことでもしたか?」
「……欠席・早退・遅刻が多いせいで先生に迷惑かけてます」
「担任として当たり前のことをしているだけだ」


 土方先生の言ってることは筋が通っている。そして正しい。けれどどこか納得が行かない。苦しい胸を押さえて俯けば、白いシーツが目に映る。そこには何の答えもない、そんなことは分かっていた。

 担任だから当たり前。なんて単純明快な言葉だろう。だけどそれは一重に、私が土方先生にとってただの生徒でしかないということに他ならない。それ以上を望むなと、そこから先は禁忌であり罪なのだと言われているようだ。軋む心、熱くなる目元、吐き出した嗚咽。私の異変に対応するのも、土方先生が教師で私が生徒だから。正しいはずなのに、間違ってなどいないはずなのに、だからこそ苦しい。生徒以上を望んで止まないこの心は、一体どこに向けて昇華すればいい。


「…何か、他の答えがお望みか?」
「別に…」
「不満そうな顔してっぞ」


 するりと頬を撫ぜる手。心地好さと複雑な気持ちが渦を巻いて混ざり合う。もっと触れていて欲しい、触れるだけでなく抱き寄せて欲しい―――いや、痛い程に掻き抱いて欲しい。私が望むのは許されないことばかりだ。土方先生から血をもらうだなんて、それは教師と生徒の枠からはみ出している。苦しい、その枠がぎりぎりと私を締め付けて息をできなくさせる。そうなればもう、いっそ土方先生と出会わなければよかったと思ってしまうのだ。土方先生と巡り会うことがなければ、私はたった一人に絞らず誰かの血を飲み続け、身体的な苦痛を味わうことも、身を裂かれるような心の痛みも感じることはなかった。…いや、土方先生でなくとも、いずれは“たった一人の人”に出会えば同じような経験をしていたのだろう。それが偶然土方先生だっただけだ、そう自分に言い聞かせるしかない。


「忘れて下さい」
「忘れる?」
「今日のことをなかったことにして下さい。土方先生を求めたことは、なかったことに…っ」
、お前それ本心か?」


 鋭い視線が私を思考ごと射る。どうしてそんな事を言うの、どうしてこんな事をするの―――渦巻く疑問は、今のほんの一言が教師の枠をはみ出たように感じたからだ。心配でも責任でもない、もっと個人的な事情を漂わせる言葉。だからなのか、それとも単に土方先生の声と表情に怯んでしまったからなのか、私は言葉に詰まった。土方先生が分からない、分かりたくない。私に何を言わせようとしているのか、いくら子どもの私でも分かってしまった。だけどそれを告げて一体どうなる。子どもは子どもだと笑うのだろうか。個人的な事情があったのは私の方。けれど今まさにその気にさせている土方先生は、私の気持ちを聞くと共に残酷なまでに切り捨てるのだろうか。

 先生が体重をかけたせいでぎしりと軋むベッド。見つめた目が何を語っているのか汲み取れず、悔しくて奥歯を噛んだ。素直に言えたならば楽なのだ。忘れたくない、と。私が土方先生を求めて、それに応えてくれた。その事実を忘れたくない、先生の血の味を覚えておきたい、この体に刻みこんでおきたい。けれどそれは許されることなのか。ある意味、一線を越えてしまった現実は、果たして許されることなのだろうか。


(…誰に?)


 そんなの分からない。ただ、世間一般で考えて、これは度を超えている。教師が生徒にすることの範囲を明らかに超えているのではないか。生徒に対しては皆、平等でなければならない。だとしたらこれは、恐らくもう平等ではない。私は馬鹿だから期待してしまう、これは贔屓なのだと。


「わたし……私、は……」
「…ああ」
「土方先生、が、いい……っ」


 言葉と共に溢れだす涙。ぽたぽたと数滴落ちて、それはシーツに染みを作った。なかったことになんて出来るはずがない。さっきの一瞬だけではなく、もうずっと、今だってまだこんなにも土方先生を求めているのだから。先生の血だけではない、心も欲しい。私に先生の目を、心を向けて欲しい。望んではいけないはずの領域を、どうしても望んでしまう。呼吸が止まるほどの力でその腕の中に閉じ込めて欲しい。先生の体温をもっと間近で感じたい。その声を、その視線を、もっともっと近くで。もう止めることのできない思いが湧き上がって止まない。

 すると、そんな私の思いを読んだが如く、土方先生の腕が伸びて来て私の体を引き寄せる。望んだ癖に、初めての温度に戸惑いながらも体を預けた。動揺と混乱で速まっていた鼓動が、徐々に速度を落として行く。土方先生は私が泣いているのも構わず、強く強く抱き締める。その息苦しさが嬉しかった。この感覚を私は求めていたのだ。


「もう心にもないことを言うんじゃねぇ」
「ごめ、なさ…い……ッ」
「俺だって傷付くんだよ。に血を分け与えたのはお前に生きて欲しいからだ。それなのにそんな申し訳なさそうな顔するな」
「せんせ、」
じゃなかったら俺はこんなことしねぇ」


 決定的なその言葉に、私の涙はぴたりと止まる。聞き間違いではないだろうか、間違った解釈をしてはいないだろうか。今の私のこの状況と、先生の言葉、重ね合わせて考えて大丈夫なのだろうか。ゆっくりと土方先生の背中へ手を回す。きゅ、と指先に力を入れれば、また先生の腕の力は強くなる。求めれば応えてくれる、それを今また私は感じているのだと思うと、嬉しくてまた泣けて来てしまう。良いのだろうか、本当に良いのだろうかと思いながら、もう引き返すことも手離すこともできないと、真っ直ぐに進んで行く心。

 求めると共に、私は捧げたいと思った。私の気持ち全てを、土方先生に捧げたいと。呼応するかのように、再び速まる鼓動。もうこの際、それが土方先生に伝わってしまっても構わない。寧ろ知って欲しい。こんなにも、こんなにも土方先生を思い続けていたのだと。




***




「生徒の安全を守るのは教師の役目ですが、少々行き過ぎてはいませんか」
「すまねぇ、山南先生…」
「すみませんでした…」


 気にしている暇もなかったのだが、この部屋は山南先生の家の一室らしい。私に繋がれていた輸液は堂々と表だって作れるものではないため、山南先生が自宅に小さな研究部屋を構えて作っているのだそうだ。なので、山南先生が輸液を取りに来てまた学校に戻るよりも、私をここへ連れて来た方が断然早かったのだと言う。

 とはいえ、好き勝手してしまって申し訳なかったとは思う。どうやら、山南先生の妹が帰宅すると、見知らぬ男女の声が聞こえて来て連絡を寄越したらしい。そこで怯える妹を助けるべく、仕事を放って一時帰宅してみれば、この様である。しかし言わせて頂きたい、やましいことは何一つしていないと。抱き合っている所は見られてしまったが、それ以上のことは何もしていない。けれど山南先生からしてみれば、血を与える以外は全て“それ以上”のことだったらしい。…いや、常識的に考えて山南先生が正しくはある。


さん、もう体調は良いのですね?」
「は、はいっ!」
「あなたならパートナーとの契約の仕方も知っているのでしょう」


 山南先生こそ、どこまで知っているのですか…。そんな言葉を呑み込んで、小さく頷く。土方先生だけが話について来られていないようだったけれど、契約の話はまた後だ。もう急がなくていいと思うと、安堵が胸に広がる。山南先生の土方先生へのお小言をどこか遠くに聞きながら、その横顔を見つめた。

 幾度となく、これからも求めるのだろう。私のような身体の人間にとって、血を求めることは愛情表現の一つだから。それを理解されるには、いくら土方先生でもまだ時間はかかるだろうと思う。決して普通では身体で生きると言うのは、そういうことだ。苦しみもした、辛い思いもした、そしてきっとそれはこれからも繰り返す。それでも、この身体で良かったと思える瞬間もあった。魔女の毒を抱えた身体だからこそ、私は土方先生とこうして関係を持てたのだ。だから、生きよう。魔女の呪いと、毒と共に生きよう。それに打ち勝つだけの心を土方先生がくれるから、私のすぐ傍で支えてくれるから。そして私も思いの全てを捧げよう。


「土方先生、好きです」
「分かってるよ、
「……全く反省していませんね、二人とも」


 流れ切ったと思ったエンドロールは、まだ始まってさえいないのだから。









Fin.


 

(2011/7/31)