かつて、魔女と呼ばれた女性はこの世に一人だけであった。しかし彼女を敬い、慕う者たちが現れ、魔女と共に特異な力を使うようになる。しかし中には悪事にそれを利用する者もおり、魔女の始祖は罪の代償に呪いをかけた。彼女の血を継ぐ者は皆、ある年齢までに吸血パートナーを見付けなければ、魔女の毒が体を支配し、命を落とすと。

 それは私たちを今も苦しめる罪の呪い。私も、斎藤くんをパートナーに選んだあの子も、魔女の端くれであるが故にその一端を担わなければならない。これは、あの子ではなく私の話。それは一年ほど前に遡る。











 魔女の血を継ぐ者は、自分の運命の相手を直感で悟ることができる。それは私も同じだった。土方先生を一目見た瞬間に「この人だ」と思った。命の惜しい私は、それまでだって吸血行為を繰り返して来た。時には兄弟の、時には親類の、時には付き合っていた相手の血を口にした。お陰で毒に苦しめられることはなく、家族に心配をかけることもなかった。定期的に血を飲まないといけないこと以外は、周りとなんら変わりのない、至って健康な生活をしていたのだ。

 それを覆されたのは土方先生と出会ってから。この人の血が欲しい、この人の血でないと嫌だ、何も満たされない。そうなってしまえばもう、誰の血も飲みたくなどなくなってしまった。先生の姿に目を凝らし、先生の声に耳を澄ませる。けれど土方先生が私の生活の中心になればなるほど、私の身体は毒に苛まれて行った。


「満たされない身体は生きてて辛い」
「高校生が何を生意気言ってやがる」
「…別に、何でもありません」
「言ってる暇があったら手を動かせ」


 欠席や遅刻早退が多くなった私に、担任である土方先生はこうして体調の良い日であれば、放課後の居残り授業をしてくれる。だから余計惹かれてしまうと言うのに、先生はそんな私の気持ちなど知るはずがない。見つめていたい、思っていたい、近くに居たいと思えば思うほど、蝕まれて行くこの身体。だけど土方先生に血が欲しいだなんて、魔女の血のことなんて言えるはずがない。「はい」と小さく返事をして、古典単語のずらりと並んだプリントに目を落とした。


蔓岡」
「はい」
「分からない所があったら聞け」
「ありがとうございます」


 教壇に立っている土方先生が好きだ。文句のつけようがないほどかっこいい。鬼の教員、なんて言われているのを聞いたことがあるけれど、真面目にやっていれば鬼も何もない。褒めてくれることだってある。不真面目だから叱られるだけだ、当然だろう。だけど、じゃあ私はどうなのだろう。最近は理由も話さずほぼ毎日の欠席。このままじゃ進級も危ないと学年主任からお達しが来た所だ。土方先生はそんな私に、居残り授業や小テストを実施して救おうとしてくれている。これで単位をとらせてやってくれって、学年主任にそう頼んでくれている。


(分かってる、自分のクラスから留年なんて出したくないからだってことくらい)


 それでも、普通に通っていれば有り得ないこの措置に、私は不謹慎ながら嬉しいと思ってしまった。時折、私が寝てしまっていないか確認するため、視線がこちらへ向けられる度にこの心臓は飛び出しそうになる。それに共鳴するみたいに、喉が渇くような感覚に襲われ、どうしようもなく目眩がする。それでも土方先生の前で倒れる訳にはいかないと、必死で意識を繋ぎとめ、プリントに集中する私。本当なら今すぐにでも、ペンを握るその右手を掴んで、手首に歯を突き立てたい。狂気めいていると言われても、それが私の命を繋ぐ唯一の方法なのだ。常人には理解できないであろうこの感覚は、いくら担任であろうと、信頼のおける土方先生であろうと、伝えるには計り知れない勇気が要る。

 そんな煩悩のせいだろうか、ぐらりと歪む視界、呼吸も上手く出来ず苦しい。これが罰だというのなら、一体私には何の罪があるのだろう。まだ私は何もしていない。小さな嘘ならたくさんついたかも知れない。けれど、こんなにも命を脅かされなければならない理由はどこにあるのか。心の中で毒を吐きながらも、意識は段々と遠退いて行く。お陰で苦しさは鈍くなるけれど、目の前にいるはずの土方先生の顔も見えない、声も聞こえない。ただ、最後に土方先生が私の名前を叫んでくれた声だけは、微かに聞こえた気がした。




***




 まず目に飛び込んできたのは、見慣れない白い天井。最初は保健室に居るのだと思ったが、どうやら違うようだ。保健室のような余所余所しさも無機質さもない。もっと生活感がある部屋だ。そして違和感を感じたのは左腕。そこにもまた、見慣れない点滴が刺されていた。不気味な赤い液体、しかし輸血ではないだろう。恐らく少し小耳に挟んだことがある血液に類似した成分の薬液だ。しかし一般家庭に点滴の支柱台などあるだろうか。…まだぼんやりとした意識でふと、下らない疑問が浮かぶ。そしてドアの開く音がしたかと思えば、部屋に入って来たのは保険医の山南先生だった。


「気分はどうですか」
「…まあまあ、です」
「悪くはないということですね」
「はい」


 ではこれを、と言って差し出されたのはピルケースに入った赤い錠剤。けれど素直に受け取る気になれなくて、寧ろ山南先生に不信感が大きくなるばかり。半身を起こして疑いの目を向ければ、「私は事情をよく知る者です」などと言う。そんな言葉をそう簡単に信じられるはずがない。それでもまだ薬を受け取れずにいれば、もう一人の人物が口を挟んで来た。


「山南さんの言うことは事実だ。受け取っておけ」
「土方、先生……?」
「私の妹があなたと同じなんですよ、蔓岡さん。血を飲まなければ命を繋ぎ止められない」
「…本当に知ってるんですね」
「知るための研究です」
「妹さんを助けるためでしょう?」
蔓岡さんにも敵いませんね」


 ピルケースを受け取り、中身を確認する。魔女の毒を継いだ者はそう多くはない。呪いのかかった身体だということを伏せて生きて来たがゆえに、このような薬や輸液を調合できる人間もまた少ない。だとすればこれは一筋の光だ、有り難く受け取っておくべきなのだろう。山南先生は妹のためにこれからも研究を続けるつもりだ、もしかすると毒の浄化方法を生み出せるかも知れない。浅ましくはあるけれど、せっかく掴んだ希望を手放したくはない。

 ケースの蓋を閉め、スカートのポケットに突っ込む。そう言えば聞き損ねていたが、ここはどこなのだろうか。目だけで周りを見渡して、再度景色を確認する。確かに保健室よりは生活感があるが、けれどどこか寂しい。そうがらりとした部屋と言う訳でもないのだが、人が日々使っているような雰囲気でもない。まるで、主をなくした部屋のようだ。しかし聞くタイミングを逃し、すっかり私はなすがままだった。山南先生はまだ仕事があるからと学校へ戻り、土方先生だけがこの場に残る。…土方先生の顔を見れば、せっかくの居残り授業の途中だったのに、申し訳なさと共に残念な気持ちでいっぱいになった。

 けれど、ようやく冷静に思考が働くようになり、はたと気付く。この流れで行くと、どう考えても土方先生は私にかけられた魔女の呪いのことを知っている。おかしい、なぜ、どうして。そんな疑問が浮かんだが、それ以上に酷く納得が行った。だからあれだけ私に単位をくれようと必死だったのか、と。止むに止まれぬ事情を知っているからこそだったのか、と。


「土方先生も、知っていたんですね」
蔓岡が話してくれるのを待っていたんだが、それじゃ間に合わなかった。すまねぇ」
「せんせ、私…」
蔓岡が生きられるなら、俺の血くらいいくらでもやるよ」


 差し出された指先を、遠慮がちに口に含む。ずっと待ち望んだその瞬間は、求め続けたはずなのにどこか苦しくもあった。こんなにも思い慕う相手の指に傷を付け、あまつさえ痛みを負わせるだなんて。自分が生きるために誰かが痛みを感じなければならないことを思うと、私が生きていることはこんなにも罪深く思えた。








 

(2011/7/8)