ラストオーダー 「斎藤…先輩……?」 「ああ」 「私、なんで……」 起き上がろうとするの体を支える。は、今はその手を振り払おうとはしなかった。まだ意識がぼんやりとしているのか、焦点の合わない目。しかし自分の左腕に繋がれたカテーテルを見て、事情を察したらしかった。赤い薬液の満たされたルートは、あと少しで投与も終わることを輸液バックの残量が知らせていた。 「山南先生からは何を聞いたのですか」 「あまり、体調がよくないと」 「……馬鹿だと思いますか」 いつもと変わらない表情で斎藤に問い掛ける。どんな言葉を期待しているのか、やはりその表情からも声色からも窺い知ることはできない。同意か、否定か、或いはあまり深く考えず零れた言葉か。 少しだけ顔色の良くなったは、しかし斎藤と目を合わせようとしない。射抜くような目線を寄越すことはない。あの目と視線が合うことは、見透かされるようで緊張が走り、また気まずくもある。だが同時に目を離せないという思いもあり、複雑に心境は絡まってばかりだ。 彼女の気持ちを知った自分はどうすべきなのだろうか。この危うい少女をいかにして救うべきなのだろうか。剥き出しの白く細い左腕を見つめ、ぼんやりと考える。その時間でさえ、にとっては残り少ない命の一部。それならばはどうしたい。は一体自分に何を望んでいる。…分かっている、が望んでいるのは斎藤の心だ。それを伴わない供血などは受け入れない。それより何より命ではないのかと思うが、感情こそを優先させたい何かが彼女の中にあるのだろう。生きる上での価値観が。…斎藤は率直にそれを問うてみた。 「…何故あんたは気持ちに拘るのだ」 「気持ち……?」 「山南先生は、が望むなら血を分け与えるだけの気持ちはある人だろう」 「………………」 「そこまであんたを引き止めるものは一体何だ」 少しだけ窓の開いている保健室。外からは運動部の元気な声や、吹奏楽部の楽器の音などが聞こえて来る。それとは逆に静まり返った保健室。山南はあの後、出張があるとかで戸締りを全て斎藤に任せ、が目覚めるまで傍に居てやって欲しいと頼まれた。…それだって二度目だ。山南も兄として酷くを心配している。だが自分にできることは少なく、だからこそ斎藤に託したいのだと彼は言った。全てが斎藤を置き去りに進んで行くその現実や、自分とベクトルの向きが合わないに腹立たしさを僅かに感じながら、事実はどこにあるのかを探り始める。の望むもの、山南の望むもの、それら全てを満たすには、もう見ない振りなどできるはずがなかった。 引き結んだ薄い唇が、僅かに開く。だが斎藤とは目を合わせないまま、は言葉を紡いだ。「…母が、」聞きとるのも精一杯な小さい声で、ぽつりと零す。寂しげに震える睫毛、今にも涙が溢れそうなその横顔に、斎藤は思わず手を伸ばした。 「あんたの母親か?」 こくりと一度だけ小さく頷く。そして少しずつ、彼女は話を始めた。時折言葉に迷いながら、事実だけをただありのままに話そうとする。その様子は、感情的になるのを抑えているようにも見えた。斎藤が知ったのは、の母は生涯ただ一人の人間の血しか口にしなかったこと、しかしその相手とは離別し、の父の血を求めることはなく亡くなったことだ。ただそれを聞き、が吸血行為を特別視する理由がようやく分かった。どれほど彼女の母の影響を受けているかもだ。 「父と出会う前に愛し合っていた人は、愛しているから血が欲しかったと母は言いました。けれど父には、愛しているからこそ血は要らないと…人間と同じように生かして欲しいと、最期まで父からの供血を拒み続けたんです」 「…それでも、」 「生きるなら、斎藤先輩がいいと……ごめんなさい」 初めて出た謝罪の言葉に、斎藤は動揺した。最早振り回されるばかりかと覚悟していたし、彼女にも罪悪感があったのだと知り、益々どうすればいいのか分からなくなる。に生きて欲しい、死んで欲しくない、それだけでは駄目なのか。どんどん重い事情に引きずられて行き、斎藤にかかる荷も同じく重くなる。自分が人一人の命を背負っているのだ。それも出会ったばかりでさしてよく知らない後輩のもの。出会ってたった数日、それなのに自分に彼女の一生を背負うことなどできるだろうか。特別な思いで以て供血することなどできるだろうか。 の言葉に返せずにいると、徐に彼女は頬を包む斎藤の手に自らの手を重ねた。相変わらず少しひやりとする手のひら、しかし彼女の待とう雰囲気までもが冷たいとは、一度も思ったことはなかった。確かに謎が多く戸惑いもするが、彼女自身が冷たい人間だとは思わない。…そんな考えを読まれたかのように、は独り言のように言う。 「斎藤先輩、あったかいです」 「…………」 「生きているんですね」 「それは、もだろう」 「………そうだったら良かったのに」 理解しかねる言葉を最後に返すと、「帰りましょうか」とようやくこちらを向いて言う。やはりその表情に色はなかったが、どこか吹っ切れたような顔もしている。それが逆に怖かった。何かの兆しのような気がして、何かを暗示している気がして、の表情が胸に引っ掛かる。しかしそんな困惑する斎藤の背を押し、促したのは。そのまま流されてそのまま帰り道を辿るものの、特に何の会話もないままだ。いつもの帰り道をいつもとは違い、と歩くのは奇妙な感覚だった。 西日にの黒い髪が明るく見える。彼女も眩しいのか、僅かに顔を下げていて声を掛けづらい。それ以前に会話も何も浮かばないのだが、とうとう分岐点にまで来て、は足を止めた。 「それでは、私はこっちなので」 「気を付けて帰るようにな」 「はい。……斎藤先輩」 逆光での顔がよく見えない。だが、真っ直ぐにこちらを見ていることだけは分かった。あの意思の強そうな眼で、揺らぐことなく見ているに違いない。そんな妙な確信を持ちながら、「何だ」と短く返す。するとは数秒躊躇った後、「いえ…」と首を振る。訝しげに斎藤が眉を顰めれば、よく通る声で告げた。 「先輩、さようなら」 まるで最後の挨拶かのような言い方に、斎藤は益々眉間に皺を寄せる。の言葉を否定するが如く、「また明日だ」と斎藤は答えるが、は何も言わずに軽く会釈をし、斎藤に背を向ける。おかしなわだかまりだけがこの胸に残る。保健室でのことといい、今といい、何か変な覚悟でも彼女はしているのではないだろうか。紫色に変わり始めた空が、斎藤の不安を煽り、大きくさせる。…大丈夫だ、きっとまた明日もは学校に来る。そうであって欲しい、信じたい。 けれど次の日も、その次の日も、と学校で会うことはなかった。 ← ![]() (2011/5/17) |