ラストオーダー 何日経とうが忘れられない感覚がある。首筋に宛がわれたひやりとした手、それとは対照的に熱を持った舌先。あの瞬間、あのまま自分はに喰われるのではないかと思った。あの目からは冗談の欠片も感じ取れなかったからだ。今にも首に牙でも突き立てられるのではないかと、一瞬斎藤は全身の血の気が引いた。 そういえば、思わず力いっぱい突き飛ばしてしまったが、あの後は大丈夫だったのだろうか。まだ目が覚めたばかりだった所へ、思い切り身体を壁にぶつけたようだった。それを根に持ってなのか、また別の理由があるのか、あれから四日、は斎藤に接触して来ていない。諦めたのだろうかとも思ったが、あの彼女の様子からするとそう簡単に諦めると言うことはないような気もするのだ。 「じゃあ斎藤、今年度の風紀委員もお前に頼めるか」 「はい」 「これから委員会会議を行う。まあ顔合わせみたいなもんだ」 「分かりました。場所はいつもの会議室ですか。先に鍵を開けておきます」 「おう、よろしく頼む」 担任かつ風紀委員顧問の土方に頼まれては断る理由もない。それに風紀委員のような嫌われ役を進んでする者など、この学園内にはそうそういないのだ。早かれ遅かれ自分が任命されていたに違いない。そう思いながら会議室の鍵を受け取ると、その足で目的地へ向かう。 こうして何も考えない時間、思い出してしまうのがのことだ。そういえばそう、ここだ。この会議室からとは始まったのだ。入学式の日、呼吸をも抑制するような緊張感の中、彼女に告げられた「血を共有して欲しい」との言葉。けれどその時も、そして四日前も、まだは核心に触れるような情報を自分にくれてはいない。それなのに血を分けるか否かを問うと言うのは無茶と言うものだろう。 鍵穴に鍵を差し込み、回すと共にガチャリという聞き慣れた音が響く。横開きの扉に手を掛け、開けようとする。いや、開けようとした。 (開かない……) もう一度鍵を差し、回した。するとドアはすんなりと開く。まさか誰かが使っているのだろうか、だとしたらもう一度土方に確認を取らなければならない。しかし会議室に入ってみても中には誰もいない。ただ先に使っていた者が鍵をかけ忘れただけらしい。小さく息を吐きながらもう一歩部屋へ足を踏み入れる。すると、視界の左隅に何かが映った。 「だ……」 誰だ、と言おうとした。入口のすぐ左の壁に凭れかかり、足を投げ出して眠っているのは、紛れもなくだった。思わず、足を一歩後ろへと下げる。しかし彼女は起きる気配がない。そういえばこの間も保健室でよく眠っていたが、どういうことなのだろうか。斎藤も授業が終わり、すぐに土方の元へ行ったのだ。そんな短時間でこんなにも熟睡できるものだろうか。よく見ると荷物らしきものも見当たらない。ということは、考えたくはないのだがサボり、か。…恐る恐る彼女に近付き、声をかける。 「、起きろ」 四日前のことが思い出されて、流石に間近で声をかけることは勇気が要る。だが声をかけて起きない以上、揺すってみるしかないということか。更に距離を詰め、頼りない肩に手を置く。すると、セーターの上からでも分かるほど彼女が細いことが分かった。すぐそこに触れる骨がそれを証明している。その事実に驚きながら、ゆっくりと肩を揺する。再度、「」と彼女を呼んだ。すると今度は僅かに表情を歪め、少し苦しそうな顔をする。会議室はカーテンが閉められているため気付かなかったが、額はじっとりと汗をかいている。そういえばこの間も顔色が優れなかった。 そこで、と初めて話した時の一言を思い出す。「定期的に血を飲まないと、毒に侵され死んでしまう」と。あれは脅しなどではなく、紛れもない事実だと言うのか。だとすれば、今の命を握っているのは自分なのではないか。…そう思うと、斎藤はペンケースの中に入っているハサミに手を伸ばしていた。もし、自分が血を分け与えて、彼女が、が助かるのなら。そうしなければ命が削られて行くのだとしたら。 「……ん、」 僅かに彼女が漏らした声にさえびくりと体が跳ね、斎藤はハサミから手を離した。ゆっくりと瞼を持ち上げ、斎藤に気付いた彼女は頭をもたげる。目が合えば、心臓がどんどん速まった。 今、自分は何をしようとしていた。ハサミなど手にして、何をするつもりだった。彼女の目にそう責められている気がして、後ろめたさでいっぱいになる。自分は彼女の要求に是と答えた訳ではないのだ。いくら求められているからと言って、答えも告げずに突っ走るなどあっていいことではない。目が覚めてくれてよかったと、今ばかりは彼女に感謝した。しかし。 「斎藤先輩、何をしようとしていました?」 「…起きて、いたのか…?」 「いえ、何かまずいことをしたような顔をしているので。…何も?」 「何も、してはいない」 正確には“まだ”何もしていない、だ。危うく、未遂、あわや、そういった言葉が次々と浮かぶ。彼女の眼もまた、それを見抜いているかのように鋭く斎藤を責めた。 「同情ならやめて下さい」 「何?」 「私は斎藤先輩を恋愛対象として見ているんです」 ずい、と顔を近付けて淡々と告げる。彼女はずっとそうだ。表情が揺れることがなければ、声が震えることもない。どんな言葉を発しようと、そのトーンも抑揚も変わらず、恐ろしいほどに静か。自分の命の刻限を十八と悟りながら、何故そこまで冷静でいられるのだろうか。表情とは裏腹に強引な所もあるというのに、血を分け与えることにだけは酷く慎重になっている気がする。まるでその行為には特別な意味があるかのようにも感じる。 長い睫毛に縁取られた黒い瞳、その奥にさえ表情も真意も見えない。眼を逸らすことを許されないような空気の中、は更に距離を詰めると、斎藤の腕を掴み、耳元でそっと囁く。 「血をくれるなら誰でも良い訳じゃないんですよ、斎藤先輩」 どこか寂しげな声音。最初はどこか恐ろしさや不気味ささえ感じた彼女だが、今はそれを微塵にも感じさせない。寧ろ一種の危うさのようなものを漂わせている。思わずそんな彼女に手を伸ばしかけたが、それよりも先に身を引く。 知るべきではないだろうか。自分はもっと、のことを知るべきではないだろうか。血を分け与える以前の問題だ、その経緯を知らなければならない。そうすればきっと、彼女の一連の言動の意味も分かるだろう。そうして初めて全ての判断が自分にもできるのだと、目の前の彼女を見て思った。 ← ![]() (2011/5/4) |