突如抑えられない息苦しさと眩暈に襲われ、六花は保健室に駆け込むと、そのまま許可もなくベッドに倒れ込んだ。

「…あなたでしたか、六花」
「山南、せんせ…薬……っ」

 急く六花とは逆に、冷静そのもので薬品棚から錠剤を取り出す山南。六花はそれを受け取ると、水もなしに一気に飲み込んだ。そんな彼女の様子を見て呆れるように溜め息をつくと、「まだなんですか」と言葉をかける。血の契約者はまだなのか、と言いたいのだろう。まだだと素直に言うのも悔しくて、六花はふいっと顔を逸らした。症状が緩やかに落ち着いて来たため、六花はようやく口を開く。

「今、返事を待ってる所なんです」
「随分とのんびりしてますね。あなただって母親を見て育っているでしょう」
「だからって焦るようなことはしたくありません」
「好きにしなさい。ただし本格的に六花の命が危うくなった時には、」
「誰のでも構わず飲んでもらう、でしょう」

 もう何度聞いたか知れない言葉を繋げる。そんな六花を見て、山南は「分かっているなら早くしろ」とでも言いたげな目を向けた。だが、そんなことは自分が一番よく理解している。症状の悪化も、自分の身体が危機に瀕していることもだ。それでも無闇に誰かの血を口にしたくはないし、するつもりもない。“母を見てきた”からこそ、そう思う。
 呼吸の大分楽になった胸を抑えながら、六花は仰向けになる。瞼を閉じて思い浮かべるのはただ一人。目が合った瞬間に「この人だ」と思ったのだ。いつか母にも言われてたことがある、「この人」と思える相手に出会えると。そしてその人に生かしてもらいなさい、命を繋げてもらいなさい、と。

「山南先生、私は母が愚かだったとは思いません。たとえ誰が笑おうとも」

 六花も母の言葉を疑ったことがあった。命のためなら誰の血でも飲むのではないかと、そう思ったことがあった。けれどあの人に出会った今、母の言葉の意味を初めて知る。自分は、あの人に生かして欲しいと。

(斎藤、先輩……)

 彼でなければ他の血は飲む気はないと、そう思う程に既に六花の心は彼に捕われていた。彼の血の味を知ってしまえば、きっともう誰の血も飲めなくなる。…口にしたことなどないのに、六花にはそんな確信があった。それは一重に、血を乞う相手はを直感するのは恋に落ちる感覚と同じだと言われ続けたせいもある。(こいねが)うことが血を欲することとイコールで結ばれるのであれば、今の六花には彼、斎藤一以外は誰もいない。
 けれど、六花も焦っていない訳ではない。斎藤に言った「急いでない」の言葉だって嘘だ。本当はすぐにでも返答が欲しい。猶予など実際はないに等しいのだから。でもこれが恋と同じであれば、同意の下であって欲しい。無理矢理血を奪うようなことはできない。リミットと感情の狭間で揺れる身体。振り向いて欲しいと思う気持ちを棄てられないまま、六花は保健室独特のにおいのする布団を頭から被った。




***




 目を覚ますと、ベッド脇の椅子には思いもよらない人物が座っていた。思わず飛び起きたが、その人物はさして驚きもせず、読んでいたらしい本を鞄に仕舞いながら、「体調が悪いと聞いた」などと言う。そのようなことを聞きたい訳ではない。嫌な汗が背中を伝い、眠る前に薬のお陰で落ち着いたはずの呼吸が乱れ掛ける。

「斎藤先輩、どうして……」
「あんたを探していた」
「だから、なぜ」

 六花の申し出など、斎藤からすれば断りたいものに決まっているはず。得体の知れない新入生に「血をくれ」と言われ、はいそうですかと差し出す輩はそうそういないだろう。例えば自分がとんでもない美少女であったりすれば、また別の話かもしれないが。…斎藤こそを不審に思い、その思惑が見えず六花はごくりと生唾を飲み込む。

「名前をまだ聞いていないだろう。探すのに苦労した」
「は……」

 これもまた予想外の言葉が斎藤の口から飛び出し、脱力した六花はぎゅっと握りしめていた布団を離してしまう。確かに斎藤に惹かれているのは六花だ。けれど彼の行動の裏が読めずに六花は戸惑う。断るつもりなら六花が再び現れるのを待てばいい。けれどこうして自分を探してくれたと言うことは、期待をしてしまうではないか。速まる心拍数を感じながら、六花はゆっくりと口を開く。「はは…」渇いた笑いが漏れ、斎藤は眉根を寄せた。
 期待はしない方が無難だ。これもまた、母の残した言葉だった。血をくれなどと伝え、気味悪がらない人物は滅多にいない。長く付き合いのあった人間さえ、その体質を聞き離れて行った者が何人もいたと、生前の母の苦労は聞かされている。六花もまたダメ元だった。もしかしたら、とほんの少しの希望に懸けるしかない。疑心暗鬼だと言う自覚は、それでもあった。

「何のためですか?」
「それは、」
「断るつもりなら聞かないで下さい」

 ベッドから飛び降りると、六花はそのまま床に斎藤を押し倒した。上手く受け身をとったらしく頭部は打撲しなかったが、それでも衝撃があることに変わりはなく、頭部以外の身体を打ちつけた痛みもまた変わらない。表情を歪ませ、恨めしげに自分の上に乗っている六花を見上げた。

「斎藤先輩、無闇に近付いては危険ですよ。今、私、血が欲しくて堪らないんですから」
「何を…!」

 ネクタイを緩め、カッターシャツのボタンを二つ外す。走る血管に手を滑らせれば、頸動脈が触知できた。今すぐこの人に流れる血液を口にすることができれば、ここの所続いている体調不良もきっと回復するのに。だけどそれでも、どうしても無理矢理手に入れることだけはしたくないのだ。それなのに今、こうして恐怖心を煽るようなことをしている自分の矛盾差に、おかしくて笑いが込み上げて来た。
 恋に落ちるのに理由などいるだろうか。いつだって始まりは直感だ。この人だと思うその第六感こそ、実は何よりも信用できるものなのだとも思う。だから、目の前のこの人が欲しいと、今、切に願う。この人に自分を生かして欲しいと、強く強く。けれど一方で「やっぱり無理なのではないか」「拒絶されるのではないか」と不安が渦巻き、自ら遠ざけようとしてしまう。

「それでもまだ、不気味がらずに私の前に立てますか?名前を聞きたいだなんて言えますか?」

 六花の問いには答えず、気まずそうに目を逸らす斎藤。いっそ、剥き出しのその首に噛みついてやろうか。ギリギリまで攻めて恐怖心を増大させれば、もう変な期待を抱かせるような態度はとらないだろう。歪んだ気持ちで唇をも歪め、ゆっくりとその首筋に顔を埋める。華奢な身体の六花相手に投げ飛ばすようなことは躊躇われていたようだが、流石に六花が舌を這わせれば両肩を思い切り突き飛ばす。左利きらしい斎藤に突き飛ばされた身体は右に転がり壁にぶつかる。六花も眠りから覚めたばかりだ。完全に覚醒しておらず、ぼうっとする頭で重い身体を持ち上げる。目の前には「信じられない」とでもいうような目をした斎藤がいた。
 終わりだ。そう直感し、心は警鐘を鳴らす。これ以上、自分が深入りしてはいけないと。それなのになぜ、この口は答えようとする。彼の本来の目的に応えようとする。

「……六花。櫻井六花です」

 はらりと長い前髪が落ちて来て、視界の邪魔をする。けれどはっきりと見える、斎藤の表情に六花の胸にヒビが入った気がした。もうあと少しもすれば音を立てて崩れてしまいそうな、些細ながら大きなヒビ。斎藤はそれ以上何も言わず、鞄を手にすると急いで保健室を出て行く。その姿を見ながら、「やってしまった」という気持ちと「これで良かったんだ」という気持ちが浮かび上がる。

「彼ですか、あなたの目を付けた人物と言うのは」
「……別に」

 入れ違いに入って来た山南には状況をおよそ把握されてしまったようだ。スカートの埃を払って立ち上がると、そっと指先で唇に触れる。この唇で脈に触れたあの感覚は、きっと忘れられないだろう。思い出すだけで熱を持つ唇を噛み締めて、「本当にこれでよかったのか」と自問した。一度目を伏せ、再び開ければ、自分が斎藤を押し倒した際に巻き込まれた椅子がごろりと転がっている。
 いや、だめだ。やはり彼が良い。彼でなくてはきっと満たされない。他の誰の血でもなく、彼が良い。ひび割れた心を修正するにも、きっと彼が必要になる。手に入れたいと願ってしまった、それが叶わないなら毒に侵されても構わないと思うほど。








  

(2011/5/4)