斎藤教授と初めて電話してからおよそ一週間。なんだかぎこちない日が続き、気付けば大学紹介のために高校を訪れるになっていた。スーツにすべきか、私服で良いのか悩んだ末に、そういやあの学校は私学だった、なんてことを思い出してスーツを選んだ。沖田先生も見かけるといつもスーツ着用だったし、大学で時折見かける女の先生もスーツとは言わないがかっしりした服を着ている。しかしただの大学生である私がそんないい服を持っているはずもなく、こうして滅多に着ることもない衣服に袖を通した。生憎、今日は午前中に講義があるため、私服で行って大学で着替えたのだけれど。 隣にあるとはいえ、附属の高校には行ったことがないため、どこから入ればいいのかも分からない。まずは門がいくつもってどれが正門かも分からないのだ。そういう訳で、私は大人しく沖田先生が大学まで迎えに来てくれるのを待つのであった。「今からそっちに行くから」というメールを受け取っておよそ十分だろうか、いつもと変わらない様子で沖田先生は現れる。 「久しぶり、ちゃん。今日はよろしくね。外部学生って聞いて、生徒も他の先生も楽しみにしてるから」 「プレッシャーかけないで下さいよ…」 「背中を押したつもりなんだけど」 「絶対嘘でしょう」 酷いなあ、なんて笑う。これは楽しんでいる顔だ。いや、私を大学紹介生に抜擢した時点で楽しんでいるとしか思えないんだけれども。 そんな緊張の欠片もない会話をしていると、いつの間にやら高校の前にまで来る。…これが正門か。何度見ても立派な学校だと思う。これを高校と呼んでいいのか、と。敷地内の校舎の一部はまだ改築して一年と経っていないせいか、大学よりも綺麗な棟があり、事務室のある棟なんてまるで病院かホテルかと見紛うほど。 私は沖田先生の後について校舎内を歩いていたが、広すぎて一人では帰れそうにない。どこがどこなんだか。教室も多すぎる。聞けば、職員室も一つではないらしい。地方の高校から一人ふらっとやって来た私にとっては、ここが高校だとはやはり信じがたい。 「あの、沖田先生、聞くの忘れていたんですけど」 「なに?」 「生徒さんは何人くらい大学紹介を聞きに来るんですか?」 「うーん…内部進学希望者とか、その可能性のある生徒だけだから、一クラス分くらいかな」 「だ、だからそれが何人かと…」 「…まあ多くても五十人くらい?」 それならまあ、大丈夫だろう。もし一学年全体、なんてことだったら、この大きさの学校だ、一学年五百人くらいいそうなものである。 「じゃ、この教室で生徒は待機してるから行ってらっしゃい」 「え!丸投げですか!?」 「しーっ、ちゃん、静かにしないと中に聞こえるよ」 「んぐぐぐっ!」 沖田先生の横暴に思わず叫び声を上げると、口の前に人差し指をあてて、もう片方の手で私の口を思いっきり塞ぐ(待て、鼻ごと塞いでる鼻ごと!)。息ができなくて先生の腕を掴むと、意外とあっさり離してくれた。しかし、とりあえずはそんなことより、こんな初めて来る場所で一人放り込まれるなんて心細すぎる。思わず、そのまま元来た道を戻って行きそうな沖田先生の腕をまたもやがしっと掴む。「ど、どこ行くんですか…!」と小声で叫べば、沖田先生は一瞬きょとんとした顔をして、それからしゃがみ込んで必死に笑いを堪える。…何が言いたい。 「いくらなんでも、君を一人で放置なんて、そんなことしないよ…っ」 「じゃ、じゃあなんで…!」 「僕は後ろの扉から入るだけだけど?」 「なん…っ!?」 なんだそれは。私、すっごく恥ずかしいことをしてしまった気がする。まだ口元を抑えて震えている沖田先生は放っておいて、教室の扉に手を掛けると、今度はその手を掴まれる。「ああ、じゃあ僕も一緒に入ってあげるよ」…馬鹿にされた気分とはこのようなことを言うのだろうか。しかしここで小競り合いをしていても埒が明かない。後で思う存分文句を言わせて頂くことにして、今は沖田先生の申し出に甘えておくことにした。 扉が開くと、教室いっぱいの高校生。他教室から椅子だけ持って来たのか、机のない生徒もいる。所せましと詰め込まれたような状態の生徒たちは、私が教壇に立つなりこそこそと何やら話を始める。まずい、急に緊張して来た。かちんこちんに固まっている私を見て、また少し笑いながら、「この間言ってた、隣の大学の学生さんだよ。あとは好きに話してもらうけど、この子緊張してるみたいだから静かに聞いてやってね」と追い打ちをかけるような紹介をされてしまった(あと緊張はしているけれどわざわざ言わなくても…)。 「…ええと、隣の大学で学生をしているです。外部の高校からの入学です。皆さんもご存知のとおり、うちの大学は文系の学部が中心の大学ですが――……」 それからは大学の概要だとか、大学生活について、一般的な紹介をした。その後、生徒からいくつか質問が出たのだけれど、この質問もよく聞くようなバイトの話だとか、学部についての詳しい説明だとか、一人暮らしについてなどだ。この大学のどこがよくて選んだのか、なんて試験官のような質問をして来る生徒もいたけれど。 さすがにその間は沖田先生は茶々を入れたりからかったりすることはなく、黙って教室の後方で聞いてくれていた。そして緊張した大学紹介も終わり、教室を出ると、私は一気に緊張が解けてその場にへなへなとしゃがみ込む。すると、すっと目の前に手を差し出される。白くてきれいなその手の先を辿ると、この学校の教員だろう、きれいな女の人が立っていた。 「大丈夫?気分が優れないのですか?」 「あ、いえ!大丈夫です!」 「そう、よかった。…あなたですよね、大学紹介をしてくれた学生さんって」 その手を借りて立ち上がると、そう訊ねられる。首を一度だけ縦に振ると、彼女は文字通り花のように笑って「よかった」両手を合わせた。同じ女なのに、その表情を見て思わずどきっとしてしまう。なんだか、意味が分からないけれど照れてしまって軽く俯く。 …よかった?何が「よかった」のだろうか。不思議に思ってもう一度彼女を見ると、変わらず微笑んだまま言葉を続けた。 「私、この学校の教員をしています、と言います」 「あ、えっと、です」 「さんですね。沖田先生から、今日来てくれるのは斎藤くんのゼミ生だって聞いて気になっていたの」 「へ…?」 「あ、あれ…沖田先生とか斎藤くんから何も聞いてません?」 全く、何も、これっぽっちも。話が全く見えず、黙り込んでしまう。その沈黙を肯定ととってくれたらしく、先生は「ごめんなさい、私ってば…!」と慌ててみせた。訳が分からなさ過ぎて、こういう人は慌てても可愛いなあ、なんて関係ないことを考えてしまう。 そして、ふと気付く。あっさり流してしまったけれど、先生の言う「斎藤くん」って、もしかしなくても斎藤教授のことではないか。ということは、斎藤教授とも知り合い?しかも、斎藤教授のゼミ生だから、ということは、そこそこ斎藤教授と親しい仲、なのではないだろうか。…つい先日、大学の食堂で耳にした沖田先生曰く低俗な噂とやらが頭を駆け巡る。駅前のカフェ、なんかいい雰囲気、綺麗で知的な人、年上の女性。確かな証拠など何もないのに、この人のことだと私は確信が持てた。 「ちょっとちょっと先生、外部の子いじめないで下さいよ」 「いじめてなんかいませんよ!…ねえさん、斎藤くんは元気ですか?」 「……………」 「さん?」 「えっ!?あ、はい!そうですね!」 「…やっぱりさん、どこか悪いんじゃ…」 「いえ、悪いのは頭だけです大丈夫です!それじゃあ私、大学に帰りますね失礼します!」 そうして私は、逃げるようにその場を後にした。泣きそうだ。訳が分からないけど、泣きそうだ。 |