「あ゛ー………」


 全然眠れなかった。それもこれも全て、斎藤教授のあんな電話のせいだ。あの後、ぽーっとしたままお風呂に入って、ぽーっとしたまま予習をして、ぽーっとしたまま寝た(あ、友達からのメールにも返事していないや…)。

 そしてぽーっとしたまま起きて、まだ昨日のことは夢なんじゃないか、随分リアルで長い夢を見ていたんじゃないかと思ったけれど、携帯の発信履歴を見たら『斎藤教授』としっかり残っている。…夢じゃないのか。いや、夢でも困るけれど。もしあれが夢だったら、私どれだけ斎藤教授を意識して、夢の中でどれだけ酷い妄想を繰り広げているんだと自分の神経を疑いたくなる。机の上を見れば斎藤教授の直筆携帯番号が置いてあったりして、一層現実感を増した。

 けれど、いつまでも部屋にいるわけにはいかない。のそのそと起き上がり、ご飯を食べ、ふわふわとした感じのまま、大学に向かう。この浮遊感は、きっと電車に揺られているからではない。どう考えても昨日のことが尾を引いている。こんな気持ちのまま教授に会うことは避けたかったのだけれど、今日は運良く教授の講義もゼミもない。安堵の息をつきながら、大学についた。…が、今日は運がいいのか悪いのか、午前の講義が休講になっている。


(私…なにボケたことしてんのよ…)


 昨日こんな通知出ていたっけ、私が見落としただけなんだっけ、と張り紙の前で立ち尽くす。これで午前は予定が真っ白になった。図書館に行く気にもなれない。私はまだ寝起きのようなぼうっとした頭のまま、とりあえず食堂に向かった。まだ混雑する時間帯でもないため、人はまばらだ。私は一人で大窓に面したカウンター席に腰掛けると、忘れていたメールの返事だけしておいた。

 昨夜眠れなかったせいで、この日当たりのいい席にいるとすぐに睡魔が襲って来る。もういいや、寝てしまおう。何かあれば誰かがメールか電話をしてくれるだろうし、講義中に居眠りしてしまうよりはずっといい。私はテーブルに突っ伏してそのまま目を閉じた。




***




 人騒がしさで目を覚ますと、丁度お昼の十二時過ぎ。変な姿勢で二時間近く眠ってしまっていたようだ。けれど、お陰でどこか頭がすっきりする。お弁当も作って来ているし、勿体ないから食べてしまおう。…と、お弁当の蓋を開けると同時に、マナーモードにしていた携帯が震えた。画面を見てみれば『沖田総司』という何だか見覚えのあるような名前。顔を引き攣らせながら「はい、なんでしょう」と答えると、「あ、出てくれたんだ」…あなたは私を何だと思っている。


『今どこにいるか分かる?』
「…は?」


 分かるわけがなかろう…と呆れ半分に心の中でつっこみつつ、「分かりません」と返す。沖田先生は正直、私より子どもっぽい所がある…大いにある。


『後ろ後ろ』
「後ろ……って沖田先生!なんでいるんですか!」
「君に返事を聞きに来たんだよ。メールも電話もくれないから」
「いや、だってあの時、あさってで良いって…」
「どうせ一君がいろいろ話するだろうし、もう今日には答えも出ているだろうと思ってね」


 この人は超能力者か何かか。勘だよ勘、とまた爽やかに笑うけれど、その後ろに何か黒いものが見えたような気がしないでもない。そんな私をさらりと無視し、沖田先生は私の隣の席に腰を下ろした。そしてテーブルに肘をついて顔を乗せ、私の顔を覗き込む。「で?」…近いです。

 大体、出た答えなんて知っているだろうに、この先生も大概人が悪い。性格はまあ、私とは合わないみたいだけど、やっぱり沖田先生も随分と美形だと思う。美形の友人は美形しかいないのか。誰だってかっこいい人にこんな近くで見つめられたら緊張してしまう。私もその例に同じく、にこにこと笑う沖田先生に顔を覗き込まれ、少なからずどきどきしてしまった。「お、お願いします?」となぜか疑問形で答えると、思った通り「なんで疑問形なの」と笑われた。…と、その時。


「ちょっとそれ、本当!?どこよ!」


 すぐ沖田先生の反対側の席に座っている女の子が突然叫んだ。思わずびくりと肩が跳ねる。そろっと目だけでそちらを振り返ってみれば、女の子が三人いた。誰かは知らないけれど。


「だから、この間、駅前のカフェでだって。ねえ?」
「そうそう。しかもなんかいい雰囲気で」
「嘘ー…ショックー…」


 ああ、どこへ行っても女の子って言うのは恋の話が好きなんだなあ、と、特に気にすることなくペットボトルのお茶に手を伸ばした。いや、彼女らの話に混じっていないからそれが本当に恋の話なのかどうかは分からないけれど、話の前後や彼女らの興奮具合からすると、どう考えてもそうだろう。


「ねえ、相手はどんな人だったか見た?」
「そりゃあもう、綺麗な人だったよ。なんか、知的な感じでお似合いっていうの?」
「でも相手、年上みたいだったよね。力関係が垣間見えたと言うか」


 へえ、そりゃあ大変だ。年上好きを好きになるとは、運が悪かったとしか言いようがないだろう。こればかりは好みの問題、そこから年下、もしくは同い年である自分を見てもらおうとするのは、かなり努力を要することだ。私が恋愛のなんたるかを知っている訳ではないけれど、恋愛のみならず食べ物でも本でも音楽でも、苦手なものや好きでないものを好きになるのは大変なことなのだから。もしかすると一生かかっても無理なくらいに。


「これまで噂の一つもなかったのに、斎藤教授に恋人がいたなんて…」


 ごふっ!!お茶を噎せる。「大丈夫?」と訊ねながら沖田先生は私の背中をさすってくれたけど、いや、それどころじゃない。斎藤教授に恋人?そんなの聞いたことがない。しかも年上の女性?そんなの、私、聞いてない!

 駅前のカフェから超絶美人の女性と斎藤教授が出て来る姿を想像しながら、昨日の斎藤教授の言葉や携帯番号を渡してくれた時の光景が頭の中を走馬灯のように駆け巡って行く。昨日までの教授の私への態度は一体なんだったのだろう。やっぱり私の思い込み?自意識過剰が過ぎたの?そうだとしても、その場合は教授にも少なからず原因があるはずだ。だって、あんな思わせぶりな態度をとられたら、勘違いするのはきっと私だけじゃないはず。そう思うと、ショックから一転、ふつふつと怒りが湧いて来た。箸を握る手に力が籠って行く。

 そしてその直後に女の子たちが去って行くと、沖田先生は馬鹿にするように彼女らを目で追いながら呟く。


「女の子って、低俗な噂が好きだよね。そういう子こそ一君は好きじゃないけど」
「…じゃあちょっと優しくされたからって勘違いするような女の子はもっと嫌いですか」
「何を卑屈になってるか知らないけど安心しなよ、一君に彼女なんていないから」
「べ、別に、私は安心、なんか…」


 嘘だ。沖田先生は斎藤教授とも長い付き合いのある友人、その彼の言葉には少なからず安心している。けれどまだ完全に疑いは晴れていない。年上の女の人って、一体誰だろう。しかも美人と来た。携帯番号を渡すだけであれだけ動揺する人が、年上の美人女性と平気で歩くなんてできるのだろうか。例えばお姉さんとか、親戚とか、さっきの女の子たちはそういった可能性は考えなかったようだけれど、斎藤教授の実は色恋に関することにどうやら慣れていない(らしい)面を知っている私からすると、どうも疑わざるを得ない。

 訳知り顔の沖田先生にもう少し詳しい話を聞きたいのだけれど、タダでは教えてくれなさそうだ。


「随分気になるって顔してるね。あ、その卵焼きおいしそう」
「それはその…ってちょっと!」
「へえ。ちゃん、卵焼きは砂糖派なんだ。一君はだし巻き派だよ」
「そんなことは聞いてません!」
「じゃあ何が聞きたい?」
「だから聞きたいことなんて…」
「本当に?」


 だから、この人は!人の卵焼きを盗るだけでなく、私の口からわざわざそんなことを言わせようと言うのか。あの斎藤教授の友人と言うくらいなのだから、悪い人ではないのだろうけど、信用していないわけではない。私が斎藤教授のことをこそこそ知ろうとしていることを、もしもうっかり斎藤教授にバラされたらたまらない。

 口籠ると、沖田先生はおかしくて堪らないとでも言うように、声を上げて笑った。こんな風に笑われるのは二回目だ。初めて会った日もそうだったし、まるで笑い上戸である。


「それにしても、“先生”なんて他人行儀だなあ」
「だって先生じゃないですか、隣の高校の」
「前みたいに“さん”とかでいいのに。ちゃんは僕の生徒でもゼミ生でもないんだし。斎藤教授と違って、ね?」
「う…」
「うちの生徒を困らせるのもその辺にしておけ」


 突然割って入ったのは、昨夜も聞いたばかりの声。何の機械も通さない生の声に、私は勢いよくそちらを振り返った。教授、と小さく呟く。


も真面目に相手にする必要はない」
「酷いなあ。僕は高校教員としてちゃん個人に用事があって来てたんだけど」
「わ…私もう行きます午後から講義なので!!」


 まだ少しだけ残っているお弁当箱を引っ掴んで、逃げるようにその場を後にする。なんで教授が突然あんな所に現れたのかとか、どこから話を聞いていたのかとか、いろいろ聞きたいことはたくさんあった。けれど、教授の顔を見た瞬間に昨夜の電話のことを思い出してしまって、急に恥ずかしくなった。顔を見るどころか、声を聞くことも耐えられないくらい恥ずかしくって、避けるみたいに飛び出してしまった。…感じ悪かっただろうか。

 走って来たせいでぐちゃぐちゃに混ざってしまったお弁当の中身を見ながら、ぐちゃぐちゃなのは私の頭の中も同じだ、なんて息の上がったまま考える。この胸のつっかえた感覚は、突然全力疾走したから、なんて簡単な理由だけが原因ではなさそうだ。斎藤教授のことを考えると、もういつもの自分じゃいられない。








 

「一君、ちゃんに何かしたの?」
「お前こそと何を話していた」





(2010/10/16)


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