未だかつて、電話一本かけるのにこんなにも緊張したことがない。既に私は一時間ほど、右手に自分の携帯、左手に小さなメモを握り締め、無機物であるそれらと睨めっこをしていた。何度も何度も、メモ紙に書かれた十一桁を十桁までは押した。けれど最後の十一桁目がどうしても押せないのだ。そんなことをもう一時間も繰り返し、しかも背筋を伸ばして椅子に座ったままのものだから、腰も痛い。ああ、でも早くしないと夜遅くにかけるなんて迷惑すぎる。誰にって、それはもちろんこのメモを渡して来た斎藤教授である。


(それにしたって…)


 昼間のあの、斎藤教授の様子だ。冷静沈着を絵に描いたようなあの人が、あんなにも動揺したり、狼狽したり、焦ったりするなんて、一体誰が想像できただろうか。あれはいくらなんでも分かりやす過ぎる。深読みせずには、そして自惚れずにはいられない。失礼かもしれないけれど、あの瞬間だけは私よりも年上の大人などではなく、同じくらいかもしくはそれ以下に見えてしまった。更にはあの斎藤教授が自分の大学の学生、しかも私みたいなぱっとする訳でもない極々普通の平平凡凡な一般庶民を体現しているかのような学生に対して、まさかとは思う。

 けれど、メモを受け取って真っ赤になった私を見て、同じく真っ赤になってしまった教授を見る限り、私の予測もあながち間違ってはいないのではないだろうか。だからこそ、今こうやって電話をするにも変に緊張してしまっている。何でもないように平然と、それこそ普段の調子で渡してくれたのであれば、こんなにも意識することなんてないのに。


(も、物は試しだって言うし、なんかもう、斎藤教授だって大学紹介もして欲しそうな感じだったし、そうそう、私が今から掛けるのは大事な用事であって、個人的な用向きでは…って、携帯番号渡された時点で既に個人なの?プライベートなの?ああもう!)


 結論から言おう、私は今回の沖田先生の提案を受ける気でいる。沖田先生の「一君の母校だし」「一君が三年間過ごした校舎なのに気にならないの?」という言葉に、単純な私は釣られてしまった。そんな自分を認めたくないのと、アウェーな学校へ行くのと嫌だったのとがあり、最初は意地でも断ろうとしていたのだ。それなのに、斎藤教授があんな風に言うものだから、こんな風に心配して携帯の番号なんて渡して来るから、固いと思われた決意も一瞬で揺らいでしまった。

 それにしたって、たった一度しか会っていないというのに、沖田先生にはもう私の弱みを握られてしまっているらしい。あの言葉は間違いなく私を追い詰めるためにあった。これ以上沖田先生の前でボロを出さないようにしないと…って、今は沖田先生よりも斎藤教授だ。あの人は私の携帯番号を聞いて来ていない。ということは、どう考えても私からかけない限り私の携帯番号は伝わらず、教授からかかって来ることもない。なんてことをしてくれたんだ、斎藤教授。私に待つと言う選択肢をくれないだなんて。

 いやいや、それに教授は、沖田先生に私から断るのが無理そうだったら、と言って渡してくれただけ。大学紹介を承諾する時にも、とは言っていないのだから、わざわざかける必要はない?…でも気にしてくれていたみたいだし、報告・連絡・相談、所謂“ほうれんそう”の大切さは当然教授と学生の間でも同じである。だとすれば、やはり伝えた方がいいのだろう。しかも、何でも言ってくれていいだとか、いつでも頼ってくれていいだとか、私の歯を浮かせるには十分すぎるほどの台詞を言っていた。


(…かけて、みようかな)


 勇気は要るけれど、やましいことをしているわけではない(多分)。それに、渡されたまさに今日かけないと、タイミングを外してずっとかけられないままに終わってしまいそうな気もする。それにそれに、携帯番号を渡してくれた教授の方が余程勇気が要ったはず。それなら私もその気持ちに応えて…っていやいやいや!そういうことじゃなくて!何考えているんだろうね私は!…ああもう、深く考えない方がいいのかも知れない。下手に意識すると、電話なんて余計かけ辛くなる。もし相手が沖田先生なら私は何とも思わないのだろうけど。そう、これは報告であり連絡。それ以外の何も話すことなどないのだから、用件だけさっさと告げて切ろう!

 そうして一時間同じ所を行ったり来たりし、ようやく、ついに、やっとの思いで十一桁目を押し、更に発信ボタンを押すことができた。数秒、何も言わなかったかと思えば、すぐに聞き慣れたプルルル、という呼び出し音が――


『斎藤ですが』


 聞こえる間もなく教授は電話に出た(早っ!ワンコールすら待ってないよ私!?)。何これ、携帯の前でスタンバイしていたとかじゃないよね、まさか。


「あの、です!大学でお世話になっているです!」
『…叫ばなくても聞こえている』
「は、はい、そうですね…!」


 電話の向こうで笑いを堪えている斎藤教授の姿を想像するのは容易なことだった。早々に醜態を晒しつつ、ドキドキせずにはいられない。だって、電話を通すお陰でいつもより教授の声がとても近いのだ。なんだか耳元で喋られている気がして、くすぐったいような、恥ずかしいような感じがする。せっかく一度自分を落ち着かせたと言うのに、また顔が熱くなって来る。声はすぐ近くに感じても、顔を見られなくて済む点に関しては電話に感謝したい。


『例の大学紹介のことか?』
「はい。…沖田先生のお話、受けようと思って」
『本当にか?いいのか、あれほど困っていたというのに』
「なっ何事も経験かなって!」


 嘘もいい所。


『そういう姿勢は嫌いではない。偉いな』
「嘘ですすみません」


 心苦しくなって数秒でカミングアウト。目に見えない矢が側頭部に突き刺さった気がした。斎藤教授にだけは嘘を付けない…というよりも、嘘をついてはいけないというか、酷い罪悪感に苛まれると言うか、そのせいだ。


「ほ、本当は違うんです!私、釣られたんです…!」
『どういうことだ?』
「…斎藤教授の出身校だ、ていう沖田先生の言葉に、つられました」


 下心だらけですみません、とまでは言えなかったが、とりあえず正直に話す。心の中で何度も謝り倒した。そして緊張しながら教授の返答を待った。幻滅されてしまっただろうか、軽いやつだと、ミーハーな学生だと思われてしまっただろうか。何を言われるのか想像もできない私に返って来たのは「俺もだ」という短い言葉。一体何を意味しているのか分からず、思わず「はい…?」という間抜けな返事をしてしまった。そしてそのまま、二人とも沈黙してしまう。まずい、話がかみ合っていないようだ。すると、教授の方から気まずそうに「だからだな…」と切り出された。


『その話を聞いた時、に俺の母校を知って欲しいと、俺も思った』
「は、さ、な…っ!?」
『俺が憧れ、選び、三年間過ごした学校だ。…当時とは少し違っているかも知れないが、俺の母校であることに変わりはない。できることなら俺がに見せてやりたいと、そう思ったのだが…その辺は仕方ない』


 珍しく饒舌ではないか。酒でも入っているのだろうか。これがあの、一見寡黙で何を考えているか分からない斎藤教授だなんて信じられない。最近は近所の書店で鉢合わせしてしまったり、えらくお褒めの言葉を頂いたり、沖田先生の一件もあって話すこともあったし、それこそ当初の“冷たそう”という印象は変わって来てはいたのだけれど、口数が少ないという印象は未だ拭えずにいたと言うのに。しかも教授、実は結構とんでもないことを言っているという自覚はあるのだろうか。何、このまるで口説かれているような感覚。

 今度こそ本当に、これが面と向かっての会話でなくて良かったと思う。携帯を握る手は汗でベタベタだし、顔どころかここは真夏かというほど体が熱くて仕方ない。私は口をぱくぱくさせたまま、何も返事を返せない。斎藤教授は不審に思ったのか「?」と何度も私の苗字を呼ぶけれど、呼ばれる度に心臓が大きく跳ねる。

 引き返せないどころじゃない、これはもうどっぷりはまってしまっている。間違いなく私、斎藤教授に恋しているんだ。








 

「教授、そろそろ手の内を明かしたらどうですか」
『だから何の事だと言っている』





(2010/10/14)


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