何が良い、と聞かれて、紅茶で、と答えた。程なくして目の前に出されたのはストレートティー。…まずい、紅茶は紅茶でも私、レモンティーしか飲めないのだった。けれどそれはそれ、わざわざ淹れてもらって「実は飲めないんです!」なんて言うことほど失礼なことはない。ありがとうございます、と笑顔で言うと、教授は教授で緑茶の入ったカップを持って私の前に座った。…なんだ、緑茶という選択肢もあったのか。可愛げはないけれど。

 まさか研究室で斎藤教授の淹れた紅茶を飲む日が来るなんて、一体誰が想像しただろう。しかもその親切さとは裏腹に、何やら斎藤教授は不機嫌だ。怒るなら私ではなく沖田さ…先生のはずなのに。


「それで、総司は何と言っていた」


 あ、分かってくれているようだ。ということは、教授の機嫌が悪いのは、私のせいではない、と。考えてもみれば、怒っている相手にわざわざ紅茶を出したりしないだろう。教授とは今年の春からの付き合いだが、そういう人だということくらいは分かる。公平、公正、平等。

 じっと私を窺うように私を見つめて来る教授に威圧感を覚えつつ、あったことをそのまま話した。高校で大学紹介をして欲しいと頼まれたこと、その返事を明後日までにしなければならないこと、携帯をほんの少し物質にされてしまったこと。…さすがに斎藤教授をエサにされたとは言えなかったけれど。


「…携帯は戻って来たのか?」
「あ、はい。勝手に沖田先生のメモリを登録されちゃったんですけど、」
「なんだと!?」
「えぇっ!?」
「あ、いや、なんでもない、すまない」


 突然叫んで立ち上がるものだから、私まで叫んでしまった。しかし教授は次の瞬間には眼鏡のブリッジを押さえて再び椅子に座る(先程のご乱心は何だったのだろう…)。

 いや、しかしそれどころではない。沖田先生の話を受けるべきか否か、本当に悩んでいるのだ。大学紹介自体は別に良い。どちらかといえば、こういったことは好きな方だ。高校生の時もオープンキャンパスでお手伝い生をしたことがあるし、人前で発表することが恥ずかしいわけでもない。何が問題かと言えば、わざわざ系列高校に外部校出身の私が伺って大学紹介をする必要があるのだろうか、ということだ。卒業生であれば学校の勝手も分かるし、私学は異動もないから先生方とも顔見知りで入りやすい。それに後輩だっているはず。すぐ隣とはいえ、その校舎に懐かしさを感じることもあるのではないか。

 そうだ、別に私はおかしいことを言っているわけじゃない。ちゃんと断る理由を説明すれば、沖田先生から斎藤教授に何か言われたって、私が責められる原因にはならない。沖田先生こそ、私を選んだ理由は欠片も説明してくれなかったのだ。


、大学紹介をしたくない理由でもあるのか」
「…私、ここの高校の出身じゃないですし」
「そうだったのか?」
「しかも県外から来てるんです。だからこの辺の高校事情なんて全然知らないし…」
「それで少し喋り方に特徴があったのだな」


 ……え?喋り方に特徴?直したはずなのに、特徴があるって?


「少々語尾が強くなる。この辺りの喋り方とは違うことには気付いていた。…どうした?」
「いえ、ちょっと打ちひしがれているだけなのでお気になさらず…」
「落ち込むことではないだろう。すぐにだと分かる。それになかなか可愛いと、」
「ごふっ!!」


 げほごほごほっ!!!…私は盛大に紅茶を噎せた。一体何なんだこの教授は!この間から人を動揺させるようなことばかり言って、かと思えば本人は沖田先生にちょっとつつかれただけであの赤面と動揺っぷり。普段あれだけ落ち着いていて鉄面皮の名を欲しいがままにしているというのに!今も必死で「いやすまない深い意味は…!」などと弁解しようとしているが、すみません教授、一度聞いてしまった言葉はなかったことにはできません。

 斎藤教授は一度咳払いをすると、唐突に「いいのではないか」と言った。いやいや、何が?主語も何もなく不意に言われた言葉につい首を傾げると、教授はなぜか気まずそうに顔を逸らし、「大学紹介のことだ」と付け足す。


「生徒たちからすれば、外部生の話は貴重だ。興味だって湧くだろう」


 いや、卒業生の方が興味を引くような気がしないでもないのですが。しかもさっきの教授の言葉からすると、私の特徴ある(らしい)喋り方が本題よりも興味を引きそうなものである。…しまった、少々自虐が過ぎたようだ。それでも「だけど…」とまだ拒否をしようとすると、斎藤教授は目を細めた。

 嫌な理由は他にもある。私にとってここは完全にアウェーなのだ。一年過ごそうが二年過ごそうが実家は恋しくなるし、地元に残った友人には会いたくもなる。彼女らが地元で集まった、なんて話を聞けば、遠く離れた場所にいる私はどうしようもなく疎外感や寂しさを感じてしまう。その上、全く知らない高校へ行くだなんて、これ以上自ら寂しい思いなんてしたくない。地元じゃ見慣れない制服も、やっぱりまだ変な感じがする。それを言い始めればきりがないし、それでも慣れて行かないといけないことはたくさんある。仕方がないことなのに。まだ半分ほど中身の残っているティーカップを覗き込めば、泣きそうな顔をした私がいた。

 今、私、これまでで一番教授に迷惑をかけてしまっている。


「すみません、やっぱりもう少し考えます」
「ああ。返事は明後日なのだろう。拒否したからと言って大学の成績には関係ない」
「本当にお騒がせしました。紅茶まで頂いて…」
「いや、いい。それより、だ…その、ちょっと待っていてくれ」
「は、はあ…」


 すると、教授は自分のデスクの方へ向かった。その間に、勿体ないので残った紅茶を一気に飲み干す。…やっぱりあまり好きな味ではない。せっかく斎藤教授が手ずから淹れてくれた紅茶なんてすごくレアなのだろうけど。とりあえず研究室を出たら違うものを飲んで口直しをしよう。…それとも、もっとストレートティーを飲む機会を増やして、この味に慣れるべきなのだろうか。斎藤教授、砂糖とか嫌いそうだし、もしまた頂く機会があれば今度こそ美味しいと………って違う違う!!さっきまであんなに真剣に悩んでいたというのに、この気持ちの切り替えの早さと来たら、私も一体何だというのだ。

 また一人でつっこみを繰り返していると、「」といつもの落ち着いた声で教授に呼ばれる。ただいつものように呼ばれただけなのに、心臓がどきん、と鳴った気がした。


「これを」
「え?」


 渡されたのは一枚の小さなメモ紙。真っ白なそれには、走り書きながらも見慣れた綺麗な字で十一桁の数字が並んでいた。もしかしなくても、これは携帯番号というやつではないだろうか。いや、間違いなくそうだ。


「総司があの調子では、断りたくても断りにくいだろう。どうするか決めたらそこに電話して来るといい」
「で、でもそれなら別に、大学は明日も明後日もありますし…」
「一人暮らしは何かと不便や心細いことがある。一応、俺はより数年多く生きている訳だし、もしかしたら力になれることがあるかも知れん。だから、」
「わ、わわわ分かりました!何かあればまた頼らせて頂きますね!!」


 何だコレ何だコレ何だコレ!、教授とはいえ生まれてこの方初めて男性から携帯番号を渡されてしまったではないか!

 教授は教授で何か尤もらしい理由をつらつらと並べ立てているものの、あまりにも真剣な顔をして言われると、まるで告白でもされているかのような錯覚に陥る。馬鹿か私は、と頭をぶんぶん振るけれど、私だってもう大学生。このメモ紙が何を意味しているか分からないほど子どもではないのだ。そう思うと、途端に体中の熱が顔に集中し、真っ赤になっているであろうことが自分でも分かる。

 そんな私とは逆に、さっきまであれだけ動揺したり不審な行動をとったりさえしていたのに、いつもの落ち着きを取り戻した斎藤教授。どういうことなの、とつっこんでみても答えなど誰もくれるはずがなく、私だけがこんなにもどきどきしてるなんて馬鹿みたいじゃないか。教授の中で起承転結はもう結を迎えようとしている所らしい。



「な…なんでしょう」
「いつでも頼ってくれていい」


 駄目だこの人、私の脳と心臓がキャパシティオーバーぎりぎりなのを分かっていない。数回口をぱくぱくさせてから、「はい…っ!」と上ずった声で返事をするだけで精いっぱいだ。

 その後のことはよく覚えていない。なぜか私の方が恥ずかしすぎて、その場には居た堪れない気持ちになって、研究室を飛び出したことだけはしっかり覚えている。それからどんなルートを通って何を思って走って来たかは知れない。はっとした時には私は息切れをしていて、運良くすぐそこにあった自販機で水を買い、一気飲みしてとりあえず落ち着こうとした。なのに、鞄から携帯番号の書かれたメモ紙を取り出すと、途端に手が震えて来る。


「あれは…っ、反則じゃ、ないの…っ!?」


 だからあの時、言ったんだ。天然タラシって言われませんか、て。








 

(まずい…これはもう…)
(引き返せないぞ…)





(2010/10/4)


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