意外なことというのがこの世にはたくさんある。例えば、この大学に入るためにあれだけ勉強嫌いだった私が寝る間も惜しんで勉強したかと思えば、課題だらけのゼミを選んだお陰で勉強漬けの毎日を送ることになったこととか。その大量の課題を出す鬼のような斎藤教授が実は褒め上手だったり、冗談が通じなかったり、この間なんてそのせいで真っ赤になっていたり。…そして、友人があんなだったり。 「…、さっきからなんだ」 「え?あ、いやあ、はい、何でもないです…」 「分からない所があるなら早く言え、と言っているはずだが」 「いやいやいや!大丈夫です分かりますから!」 椅子から立ち上がりかけた斎藤教授を手をぶんぶん振って制すと、怪訝そうな顔をして再度椅子に座った。正確には“なんでもない”訳ではないのだ。もうずっと斎藤教授のことばかりいろいろ考えてしまって、昨日の夜なんて人参をみじん切りしすぎて残念なことになってしまった。…って違う!教授のこと“ばかり”考えていた訳じゃない!そ、そりゃあちょっとは考えてはいたけれ、ど! 「ちゃん、手が止まってるよ」 「へっ!う、うん!」 「大丈夫?どっか調子でも悪い?」 小声でそう言いながら私の顔を心配そうに覗き込む友人。「大丈夫だよ」と笑って答えるけれど、他の学生がいるとはいえ同じ空間に斎藤教授がいるだとか、声を掛けられただとか、それだけで心臓が壊れたみたいに早くなる。元を辿れば、教授の友人だとか言う沖田さんが訊ねて来たのがきっかけだ。教授と学生という間柄を理解しながらあのからかい方、大人として見本にはできまい。いや、それを言うなら上手くかわしてくれなかった斎藤教授にも問題はある。彼があんなリアクションをするから私まで変に意識をしてしまうんだ。うん、そうだそうだ。 「教授、ちょっと聞きたいことが」 「なんだ」 私が一人悶々と悩んでいると、隣にいた友人はファイルを抱えて教授の元へ早足で向かう。…あ、ちょ、ちょっとあの二人の距離近くはないか。うわあ、腕が当たってる、どころか今、手が当たった!…て、何観察してるんだ私は!そんなことはいい、私は私で自分のことをやらないと、さっきからすぐに集中力が切れちゃうんだから―― 「この定義の部分が――」 「それはこのテキストの…」 ――だめだ!ここにいたら一生終わらない!! 「ちゃん、何一人で百面相してるの」 「うわぁっ!お、おおおお沖田さんなんで!」 んー?と言いながら笑って首を傾げる。神出鬼没か、と心の中でつっこみながら、ばくばく鳴ってる心臓を抑えた。いつ入って来たかすら分からなかった彼には、当然斎藤教授からも怒号が飛ぶ。けれどさらりと受け流したかと思えば、私からシャーペンを取り上げ、机の上に広げていたテキストやらノートやらを勝手に鞄に突っ込み(しかも結構乱暴に)、更に私の腕を引っ掴んで出口まで引きずって行く。抵抗しようにも後ろから首に腕を回されているため、暴れたらもっと絞められるという、この命を握られている感じと来たら誰も抵抗できないだろう。 「総司!どこへ行く気だ!」 「ちょっとちゃん借りて行くよ」 「そう言う意味ではなく、」 「やだなあ、デートなんだから邪魔しないでよ」 何を勝手な。反論しようにも首が締まって声も出ない。こいつ、分かっててやってるな。なんて手慣れているんだろうか。…なんて感心している場合じゃない!この人、また私に斎藤教授の前で恥をかかせる気だ! しかしさっきも言ったように首を絞める要領で引きずられていることに加え、男女の力の差、私が抵抗なんてできようか。万年インドア派の私が。いや、無理だ。教授が沖田さんを止めるべくまだ何か言っていたように思うけど、それどころじゃない、首が締まって酸素が足りない。力加減というものを知らないのか、この男は! ようやく解放されたのは、研究室からも遠い別館に来た頃だった。すれ違う人には奇妙な目で見られるし、最悪だ。しかも乱暴に詰め込まれたプリントの端があちこち折れている。どうしてくれよう。怒る気も起きないでいると、「ごめんごめん」と謝る気ゼロの爽やかな笑顔で謝罪を口にされた。ちくしょう。 「も、もう!何のつもりなんですか…!」 「ちゃんさ、大学紹介する気ない?」 「…は?」 「この大学の隣に高校あるのは知ってるよね。そこで高校生向けに現役生として大学紹介してくれないかなって思ってさ」 「でも、系列校でしょう?それなら卒業生の方がいいんじゃ…ていうか、なんで沖田さんがそんなこと…」 …まさか。 「あれ、一君から聞いてない?僕、そこの高校で教師やってるんだけど」 「嘘だ」 「大人に対して失礼なこと言うよね」 「す、すみません…」 だって見えないんだもの、とは流石に言えなかった。けれど、先日の不審者じみた行動といい、あのからかい方といい、教師なのか、本当に。しかも、大学紹介だなんて大層なこと、私に務まるわけがない。もっとこう、優秀な学生はたくさんいるわけだし、斎藤教授のゼミ生ということで頼みやすいのなら、私よりもあの友人の方が適任のように思う。頭も良い、容姿も良い。…言っててなんだか悲しくなって来たけれど。 私が返事を渋っていると、「ちょっと借りるね」と言って私の鞄の外ポケットからひょいっと携帯を抜き取る。待て待て待て、何をする気だこの人。「返して下さい!」「借りるって言ったよ」…これが教師だと。 取り返そうと手を伸ばしても、沖田さんはその身長差を利用し、高く手を伸ばして携帯を操作する。別に見られて困るものは入ってないはず…だけど、これはプライバシーの侵害ではないか。メールの送受信履歴も、電話の着信発信履歴も、アドレス帳にだって女友達の名前しか入っていないのを見られたら、沖田さんの場合「…かわいそうに」とか言いそうなものである。 「はい、ありがとう」 「一体何を…」 「それ、僕の連絡先入れておいたから明後日までに返事くれるかな」 「いやだから大学紹介なんてしないってさっきから、」 「ちなみにあの高校、僕だけじゃなくて一君の母校でもあるから」 「尚のことお断りしたいです!」 「なんで?一君が三年間過ごした校舎だよ?見てみたいって思わない?気にならないの?」 「……………………」 「ね」 「ね、じゃない!!」 謀られた!! さっきまでとは打って変わってにやにやと面白そうに笑う沖田さん(いや、先生か)。って、ちょっと待て私、何を餌付けされかけている。斎藤教授を餌に、私は一体何を。課題には泣かされつつも、大人しく平和で安穏とした大学生生活を送ろうとしていた私が、一体どういった危険な橋を渡ろうとしているのだ。相手は教授、そう、教授なのだ。落ち着け、よく考えろ。誰だって一度はあるだろう、ああいう真面目できちんとした大人に憧れると言うことくらい。だから私も同じ。ちょっと褒められたからって、ちょっと意外な一面を見たからって、ちょっと容姿が整っているからって、そんな間違いあっていいはずがない。 憧れだ憧れだ憧れだ憧れだ憧れだ。暗示をかけるかのように何度も何度も頭の中で繰り返す。 「じゃあそろそろ戻らないと。ゆっくり明後日まで考えてね。…まあちゃんが断っても一君に伝えるだけだけど」 「……………………」 それってほぼ私がやること決定ってことだよね。携帯を握ったまま立ち尽くす私のもとに、慌てた斎藤教授がやって来たのはそれから五分後のことだ。 |