「ねえ君、ここの学生?」 「へ?私?」 振り返ると、見慣れない男性がいた。一瞬どきっとしてしまうような整った容姿の彼に、私は思わず緊張する。「うん、そう」と答えながら距離を詰める彼は、どう見てもうちの学生ではない。年齢的に。そう、言うなら多分、斎藤教授くらいではないだろうか。けれど一体この大学に何の用があるのだろう。もしや卒業生?でも、だとすれば私なんかじゃなくて事務にでも行けばいい。部外者、だとしたら怪しい。 「ちょっと人を探しているんだけど」 「人、ですか」 ますます怪しい。第一印象のときめきをどこかに捨て置き、詰められた距離を再び離すように、私はじりじりと後退した。そんな私の反応を見て、面白そうに笑う。何だこの人、私もいつも斎藤教授に失礼なやつだなんだって言われているけど、私以上に失礼な人だ。ここで「あなたに付き合ってる暇はない」とでも言えれば良かったのだが、生憎、次の講義まで暇を持て余して掲示板をぼうっと眺めていた所なので、そんな言い訳は通用しない。この人だったらきっとこう返しそうだ、「全然忙しそうに見えなかったけど?」と。 何だか面倒なことに巻き込まれそうだなあ、と嫌な予感がしつつ、関わってしまった以上は仕方がない。幸か不幸か人脈の狭い私は、きっとこの人の探している相手の名前を聞いたって分からないだろう。申し訳ございませんが存じ上げません、くらい言えば引き下がってくれるはず。決して小さくないこの大学で、適当にいた学生を捕まえて人探しなど無謀過ぎる。キャンパスの広さを見ればこの人だって分かるはずなのに。 私は既にお断りの言葉を思い浮かべ、口を開けば出る所まで用意し、彼が探している相手の名前を言うのを待った。 「うん、斎藤一って教授、ここにいると思うんだけど」 「残念ですが存じ……え?」 「だから、斎藤一」 「……あげます」 「要らないよ」 「じゃなくて」 「ああ、“存じ上げます”?」 「…はい」 すると、一層笑って見せる。期待を込めたその眼差し。…何これ、私が案内しないといけない感じ?「こっちです」と声をかければ、「案内してくれるんだ?」なんてわざとらしく返される。探してるからって人が親切に案内しようとしているのに、本当、何なんだろうこの人! それにしても驚いた。あまりにもよく知った名前が出て来るだなんて夢にも思わなかったから、思わず用意していた言葉をそのまま吐き出してしまった。なんとかブレーキはかけたけど、お陰で変な日本語が完成してしまった(残念ですが存じあげますって、私…)。それにこの人、斎藤教授を探しているということは、教授の知り合いだろうか?同じくらいの年齢だろうと言う私の予想は当たりらしい。 (でも、斎藤教授とは正反対の人だなあ…) 大人しく後ろをついて来る彼をちらりと振り返ってそんなことを思った。 「今、失礼なこと考えたでしょ」 「…いえ、まさか」 「ふうん?まあいいけど」 「そうですか」 「うん」 斎藤教授といい、この人といい、私ってそんなに顔に出るのだろうか。単純なやつだって言われている気がして少しショックを受ける。最早“素直”なんて可愛らしいレベルのものではない。一度ならず二度までも、一人どころか二人も。あと、なんだかどっと疲れた。この人のマイペースさにはついて行けない。マイペースというよりはゴーイングマイウェイと言った方が正しいだろうか。 突如現れた謎の人物をない頭で分析しつつ、通い慣れた研究室への道を進む。後ろの彼はやはりこの大学に来るのは初めてのようで、外を歩いていても建物内に入ってもきょろきょろと周りを見回している。その様子が少しだけ可愛くて、つい小さく笑いが漏れた。 「何笑ってるの」 「ここに来るの、初めてなんだなって」 「そりゃあ、ここの卒業生でも何でもないからね」 「じゃあ斎藤教授の友人ですか?」 「まあそんなとこ」 大学が違うとなれば、高校とか、中学とか。高校時代の斎藤教授…なんて、想像できないけれど。でも、初対面の私が既に彼に対してこれだけ疲労を覚えてもいるのだから、斎藤教授はさぞかし苦労したのだろう。斎藤教授は高校時代もあのままのような気がする。ただの憶測にすぎないけど、大人になって突然あれだけ落ち着いた人ができあがった訳ではないはず。昔から委員長気質だったり、定期テストでは上位者として名前を挙げられたりしていそうだ。…ここまで来るとただの妄想か。 特に彼とは会話も弾むことなく研究室に辿り着いた。今日のこの時間は研究室にいらっしゃるはず。今朝また課題を提出した所だから、もうあと少しすればどうせとりに来る所だったし、彼を連れて来るのも“ついで”にはなったのだろうか。 「失礼しまーす」 「、丁度良かった。今朝の課題だが……………何故あんたがここにいる」 「…本当にご友人だったんですね」 「信じてなかったの?本当に失礼な子だなあ」 アポなしで教授に面会とは、一体。第二印象で怪しいと直感していたけれど、友人とはいえ本当にどういうことだろう。私以上に困っているのは教授の方だ。突然の訪問者に呆れたような、困ったような、複雑な顔をして、それでも招き入れる。私も入っていいのだろうかと躊躇われたが、ドアの前で突っ立っていると、「入らないのか、」と私にはいつもの調子で言われ、ドアを締めて改めて「失礼します」と告げた。 「すまない。それで課題だが…」 「あ、いえ、友人さんもみえているようですし、私は後で出直します」 「いや、元々時間指定をしたのはこちらだ。事前に連絡の一つも入れずに来るあいつが悪い」 「けど、せっかく足を運んで下さったんですし、私ならいつでも伺えるので」 「そういう訳にはいかない。いつもは時間厳守で提出もしている。待たせる訳には、」 「あのさ、イチャつくなら余所でしてくれない?」 「い…!?」 思いがけない一言に思わず私は叫びかける。けれど、私の声は「余所も何も、ここは俺の研究室だ!」なんていう教授の声にかき消された。…危ない危ない、過剰反応してどうする、彼の思うつぼだろう。大体、そんなことにいちいち反応するなんて私もまだまだコドモな証拠。ほら、斎藤教授だって冷静にあしらって… 「…………………教授」 「なんだ、」 「教授って、実は冗談通じなかったりします?」 「そ、そんなわけがないだろう!」 なかった。 私の発言の何がおかしかったのか、教授の友人らしい彼は声を上げて笑う。私はと言えば、一瞬集まった顔の熱は即座に引いてしまった。だって、教授の方が私以上に真っ赤になっているんだもの。 (説得力ないわー…) 大人だ大人だって思っていても(いや実際大人だけど)、教授にも意外と不慣れだったり苦手だったりすることはあるようだ。確かにこれだけ若くて容姿も整っているって言うのに、浮いた噂の一つ聞いたことがない。恋人がいると言われれば驚くだろうけど、いないと言われても違う意味で驚く。…実際の所、いるのだろうか。教授の恋人を仮に想像してみようとするけれど、…だめだ、どう考えても超絶美人しか思い浮かばない。私のような並で平平凡凡では、………。 (いやいやいや、何考えてんだ私!) 妄想甚だしい!!心の中で盛大に叫びながら頭をぶんぶんと振った。というか、さっきから私の思考が訳の分からない方向へ暴走し始めている。教授が見たこともないほど真っ赤になるものだから、私まで調子が狂ってしまった。落ち着け、私。ここは教授のお言葉に甘えて、課題を返してもらって早々に退散しよう。これ以上教授の友人(仮)に振り回されては敵わない。 今度こそ斎藤教授は友人(仮)を軽くあしらって、私に添削済みの課題を差し出す。軽く解説を受ければ疑問は簡単に解決したので、ようやく研究室の出口へ向かう。失礼しました、と言ってドアに手を掛けると、「待ってよ」と後ろから声がかかる。しばらく大人しくしていた友人(仮)だ。振り返ると、いつの間に近付いていたのかすぐそこにあった友人(仮)の姿に驚き、ドアに背中をぶつける。 「ははっ!君って本当面白いよね。まあここに連れて来てもらったのもあるし、手出して」 「手…?はい」 「…君は、僕と、握手でも、する気かな…っ!」 「も、もう!何なんですか!!」 手を出せと言われたので普通にすっと手を差し出したのに、また笑われる。部屋の奥では斎藤教授も呆れている。ああ、最悪だよもう。 「そうじゃなくて、ほら、これあげる」 泣き笑いをしながら私の右手をとると、その上に二つほど小さな飴を乗せた。研究室へ案内したお礼らしいが、これはどう考えても子ども扱いではないだろうか。そりゃあ、この人たちに比べればまだまだ若輩者だけれども。しかも笑いながら「ありがとうね」なんて言われても、到底馬鹿にされているとしか思えない私は、果たしてひねくれ者なのだろうか。とりあえず貰えるものは貰っておこうと、すぐに鞄に入れる。知らない人から貰ったわけでもないし、構わないだろう。また後でおやつにしよう。 いい加減、もうそろそろ、大概この研究室を出ようと、何度目の正直か「それでは、」と言えば、「ああ、待って」とまたもや呼び止められる。友人(仮)はよほど人の邪魔をするのが好きらしい。 「今度は何ですか」 「僕は沖田総司。君は?」 「…、です」 「ちゃんね。また会えると良いね」 一見愛想よく笑うものだから騙されそうになるけど、いや、騙されるな。 「ええ、億が一機会があれば」 私もめいいっぱいの愛想笑いで返してやった。そして研究室を出ると、それほど力を入れた訳でもないのに、いつもより大きな音でドアが閉まった。…これはやばい。この間から斎藤教授には碌でもない姿ばかり見られている気がする。 |