おはようございまーす、といつもの調子で入った研究室。そんな私に斎藤教授は挨拶を返しかけて、「ああ、おはよ…」で止まった。あ、驚いてる驚いてる。


「…本当に眼鏡に変えたのか」
「本当に眼鏡に変えました。幸いバイトでお給料を頂いた所だったので」


 何も見せびらかすために眼鏡をかけて来たわけじゃない。ずっとかけてないといけないくらい、私の視力は悪いのだ。だからこそのコンタクトレンズだったのだけれど、心変わりをした私は眼鏡に変えた。確かに慣れるまでは変な感じがするけれど、細かく注文をつけただけあって、掛け心地はそんなに悪くない。割と快適だ。

 教授はと言えば、先日一番に私の眼鏡デビュー宣言を聞いておいて、何やら今更驚いているご様子。え、それとも何だろう、似合わなさ過ぎて驚いている?それだと、軽くを通り越してかなりショックなんですけれども。…そんな私のぐるぐるとした頭の中のことなど露知らず、教授は黙り込んでしまった。一体何なんだ、この人。

 ああ、違う違う。こんな会話をするためにわざわざ朝一で研究室に寄った訳ではない。この間借りた本を返すためにやって来たんだ。レポートを書くのにどうもいい文献が見つからず苦戦していたら、わざわざ教授が個人持ちの本を貸してくれたのだ。さすが斎藤教授が貸してくれた本なだけあって、とても参考になった。こう、かゆい所に手が届くと言うか。


「あの、私、本を返しに来ただけなんですが…」
「本?ああ、この間のレポートのか」
「はい。どうもありがとうございました」


 付箋は全部剥がしたし、どこも汚していない。ページを折ったりもしていないし、返しても大丈夫な状態のはず。うん。

 教授に両手で渡すと、教授は片手でひょいと本を手に取った。そして「参考になったなら良い」と言うと、教授は自分の鞄にその本を戻す。…私はミーハー女子じゃないし、教授目当てでこのゼミを選んだ訳じゃない。毎度のレポート修正だって半端ない量に泣かされているくらいだ。けれど、だけど、それでも、悔しいけどその所作すらが流れるみたいで綺麗なのは認めざるを得ない。鉄面皮かと叫びたくなるほど崩れない表情も、ミーハー女子たちの心を掴むには十分なのだろう。今時これだけクールで固い人はいない、とか。

 分からなくはない。分からなくはないのだ。誰だってかっこいい人は無条件で見とれる。それは認めよう。確かに教授は、かっこいい。けれど教授は教授じゃないか。きゃっきゃしてる彼女らは一度教授にレポートや課題を見てもらうと良い。まるで鬼だ。


、課題は」


 …ほら。


「あ、あのですね、教授。私、手抜いた訳じゃないん」
「いいから出せ。俺はこれから夕方までいない」
「……はい」


 おずおずと紙の束を差し出すと、取り上げるように教授は私の手から課題を奪った。こんなにも自信のない課題提出なんて初めてだ。斎藤教授は手を抜けばすぐにばれるし、手を抜こうだなんて思ったこともない。けれど今回は余りにも酷い。どれだけ頭を使っても文章がまとまらない。だからこう、私よりも頭のいい人の知恵をちょっと借りて、相談して、それで教授に提出しようと思っていたのに。提出期限は今日の夕方まで、て、昨日そう私に確認したのは教授なのに!

 ぱらぱらと私の課題を斜め読みする教授。紙をめくる手も、上から下へと動く視線も、何度も見た光景だけど、客観的に見てやっぱり綺麗だと思う。そこに他意はない。ほら、誰だってかっこいい人の前では緊張するはず。特に私みたいに男に縁のない人間の場合は。それに、きっとこのどきどきは他のことにも起因している。教授がまさに手にしている、提出したばかりの課題だ。その紙束の最後まで辿り着いた時、一体どんな言葉がその口から出ることやら、ヒヤヒヤして仕方がない。クーラーもかかった快適な室温だと言うのに、背中を変な汗が伝った気がした。



「…はい」
「よく頑張っている」
「はい………………はいっ!?」
「訂正個所は確かにあるが、ここまでできればあと少しだ」
「うそ…」
「嘘を言ってどうする」


 やだ、どうしよう。最近の教授、甘くない?採点はともかく、評価が甘くない?これまではそんな言葉、全然かけてくれなかったのに、一体どういう風の吹き回しだろう。何か悪いものを食べたとか、頭打ったとか、まさか今までの教授は影武者だったとか!


「また失礼なことを考えているだろう、
「まっまさか!…それで、あの、課題は…」
「ああ、解説だが…生憎今日は夕方まで戻らん。それでいいか」
「はい!いいです!待ちます!」


 それじゃあ失礼しますそろそろ講義が始まるので!…そう一気に言い切ってドアに手を掛ける。ドアノブを引いたその時、後ろから「」と、最早お馴染みの低い声で名前を呼ばれた。浮かれる気持ちを抑えて、すうっと息を吸い込んだ後、できるだけ冷静に「なんですか」と吸った息を吐き出すように返事をする。振り返ると、教授は自分の眼鏡を指差して、ゆっくり言葉を繋げた。


「よく似合っている」


 その一言に、褒められたばかりの眼鏡がずり下がった気がした。思いもよらぬ言葉に固まっていると、教授はおかしそうに笑い、「、講義は」などと急かす。いや、足止めしたのはあなたでしょうに。…いや、それより、私はどうやって返せばいい?脈絡のない教授の言葉、一体教授は私のどんな反応を期待している?待っている?

 それは教授の出す課題よりも、答えを見つけるのが難しい気がした。










「斎藤教授、天然タラシって言われませんか?」
「…何のことだ」





(2010/9/7)


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